遺された手紙、託された未来
ギルドの内部は、いつものように活気に満ちていた。
木製のカウンターの奥では、受付係が冒険者たちの依頼を次々と処理し、掲示板には新たなクエストが貼られていく。大広間には様々な装備に身を包んだ者たちが集い、酒を酌み交わしながら談笑し、報酬を分け合う声が飛び交っている。
ただリディアとの待ち合わせ時間を過ぎても、彼女は現れなかった。
「……遅いな」
クラフトが腕を組みながら呟く。
「リディアが時間を守らないなんて珍しいですね」
キールが壁にかかった時計を見つめながら淡々と言った。
「何かあったのかもしれねえな」
ブラスが顎をさすりながら言う。
クラフトは少し考え込んだあと、決断するように顔を上げた。
「……家に行ってみるか」
リディアの家の前。
玄関の扉が、わずかに開いていた。
「……開いてる?」
クラフトの眉が僅かにひそまる。
「リディアは無用心なことはしないはずですが……」
キールの表情がわずかに硬くなる。
不穏な空気が胸を締め付ける。
クラフトはためらいながらも、ゆっくりと扉に手をかけた。
——ギィ……
扉を押し開けた瞬間、空気が凍りついた。
そこには、床に座り込み、肩を震わせながら泣き崩れるリリーの姿があった。
「……お姉ちゃんが……!」
しゃくり上げるような声がかすれ、言葉にならない。
目を真っ赤に腫らし、呼吸もままならないほどに嗚咽を漏らしている。
リリーは小さな体を丸めながら、何かを訴えようとしているが、言葉が続かない。
「……リリー?」
クラフトが一歩踏み出す。
リリーの傍らに目をやると、
——ベッドのそばで、静かに横たわるリディアの身体があった。
微動だにせず、まるで眠っているような顔。
そして、彼女の手のそばには、一通の手紙が置かれていた。
遺書——。
「……なんで……?」
「……なんだよ、これ……」
声が掠れる。
何度か視線を落とし、遺書を持つ手が震えゆっくりと手を伸ばす。
指先が紙に触れた瞬間、冷たい汗が背中を伝った。
(まさか……)
喉がひどく乾いていた。
鼓動がうるさいほど響く。
震える手で、封筒を拾い上げた。
表には何も書かれていない。
(開けるな……)
開けるな、知りたくない——そんな感情が胸をよぎる。
それでも、彼は遺書の封を開き、中から紙を取り出す。
無意識のうちに、クラフトは声に出していた。
「……リリー、アカデミア入学おめでとう……」
その瞬間——
「やめて!!」
リリーが悲鳴のような声をあげた。
「やめて……読まないで……!」
両手で耳を塞ぎ、震えながら首を振る。
「……お姉ちゃんは、そんなこと言わない……! こんなの……こんなの……嘘だよ……!」
クラフトは愕然とした。
自分の手元にある紙へと視線を落とす。
ようやく、そこに記された言葉の意味を理解する。
「リリー、アカデミア入学おめでとう、一緒に冒険行けなくてごめんね」
「クラフト、リリーのこと、よろしく」
(……リディア……)
視界がぐらりと揺れる。
手の中の紙が重い。いや、重すぎる。
まるで、この言葉が全てを決定づけるかのように——。
「……嘘だろ……?」
かすれた声が漏れた。
リディアの筆跡。
どこか優しく、淡々とした文字。
まるで——未来を託すような、それでいて、もう何も求めないような。
(そんな顔をするな……!)
クラフトは唇を噛み締めた。
リリーの言葉に、否定する力はなかった。
——こんなの、嘘であってほしかった。
「……っぁ……お姉……ちゃん……!」
リリーが崩れるように床に座り込み、涙に濡れた顔を伏せる。
小刻みに肩を震わせながら、必死に嗚咽をこらえていた。
クラフトは、ゆっくりと遺書を握りしめた。
リディア、お前は……何を思いながら、これを書いたんだ……?
紙の端を爪が食い込むほどに握りしめる。
だが、彼にはもう、それを問いただすことはできなかった。
沈黙の中、キールがそっと目を伏せる。
ブラスは拳を握りしめ、悔しそうに歯を食いしばっていた。
誰も、何も言えなかった。
視界が霞む。
耳鳴りがする。
——これは夢か?
いや、違う。
目の前の現実を、心が拒絶しているだけだ。
「リディア……?」
それでも、クラフトは震える手で彼女の肩に触れた。
けれど、返ってくるはずの温もりは、もうそこにはなかった。
「いや……そんな……」
力が抜け、膝が崩れそうになる。
「……っぁ……お姉……ちゃん……!」
リリーが泣き叫びながら、リディアにすがりつく。
声にならない声が、喉を引き裂くように漏れた。
「起きてよ……! お姉ちゃん、起きてよぉ……!」
震える手でリディアの頬を撫で、肩を揺さぶる。
だが、彼女はもう、目を開けることはなかった。
「うそ……やだ……やだよぉ……!」
リリーの悲鳴のような声が、静まり返った部屋に響く。
彼女の世界が崩れていく。
「リリー……」
クラフトは何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
かけるべき言葉が見つからない。
リリーはただ、壊れたように泣き続けた。
嗚咽が止まらない。
呼吸が詰まり、しゃくりあげる。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……!」
声が、震える指が、必死に彼女を呼び戻そうとする。
だが、もう二度と、その声に応えることはない。
——死。
それが、今ここに確かにあった。
キールが、リディアの枕元に置かれたもう一枚の書類を拾い上げた。
「……契…約書?」
震える指で紙をめくる。
そこに記されていたのは、膨大な融資額の契約書。
「ロフタの町……」
かすれた声が、静寂の中で響いたと同時にブラスの顔が青ざめる。
キールの手が震える。視線が揺れる。一瞬、彼の理知的な瞳が、感情の波に呑まれた。
(ありえない……そんなことが……)
その動揺を振り払うように、キールは目を閉じた。
「……なんだそれは? ……なんで、リディアがこんな契約を……?」
クラフトが低く問いかける。
だが、その声には明らかな動揺が混じっていた。
クラフト自身も、何かが崩れ落ちていくような感覚に襲われていた。
リディアが、ロフタの町でこの契約を結んだ?
なぜ?
どうして、こんな高額な借金を?
頭の中が混乱する。
理解が追いつかない。
「なんだよ、それ……なんでリディアが……?」
クラフトはキールを見た。
キールは一瞬、口を開きかけたが、喉が詰まるように言葉を失う。
彼の指先は、まだかすかに震えていた。
そして、沈黙の中——
「……ロフタの町で大金が手に入ると……私が、彼女に教えました。」
静かな声。
それなのに、どこか割れたような響き。
「私が彼女に教えました…..ロフタの町で大金が手に入ると。」
「……お前が……リディアに……?」
クラフトの声が低くなる。
キールは契約書を握りしめる。
指先がかすかに震えた。
こんなことになるとは思わなかった。だが、それは単なる責任逃れに過ぎないと、自分が一番よく分かっていた。
本当は、わずかでも「もしかしたら」と思っていたのではないか?
「……彼女は、自分で選んだんです……」
キールはそう言いながら、
自身の言葉の中に、わずかな疑念が滲むのを感じた。
クラフトは拳を握りしめ、キールを睨む。
「……なぜ……俺に相談しなかった……?」
彼の胸の内に渦巻く感情は、悲しみだけではなかった。
なぜリディアは、自分を頼らなかったのか。
なぜ、誰にも言わずに——。
その問いの答えを、もう聞くことはできない。
「……まさか……」
ブラスの瞳が大きく揺れた。
胸の奥がざわつく。冷たい汗が背中を伝う。
「あの町に……」
それだけは、違うと言ってくれ。そう願いながらブラスが呟いた。
だが、誰も否定してはくれない。
「……また、俺は……」
指先がかすかに震えた。
——ただ、リリーの泣き声だけが、静まり返った部屋に響いていた。
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小さな物語ですが、どこかに残るものがあれば嬉しいです。
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