最後の“いつも通り”
リリーは朝から外へ出たがっていた。
「ねえ、お姉ちゃん! ちょっとだけお散歩してきてもいい?」
リディアはベッドの上から彼女を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「もちろん。無理しないようにね」
「うん! すぐ帰ってくるから!」
リリーは弾むように玄関へ向かい、靴を履くと、試すように一歩ずつ踏みしめた。歩くたびに笑顔が浮かび、リディアに手を振る。
足を使えることが、彼女にとってはまだ新鮮な喜びだった。
扉が閉まる音を聞いたあと、リディアはゆっくりと目を閉じた。
(……少し、横になろう)
ここ数日の疲れが抜けないのか、それとも別の理由なのか——身体の奥に広がる重だるさ。
瞼の裏に、昨夜のリリーの笑顔が浮かぶ。
満面の笑みで「歩けるって楽しい!」と言っていた彼女の姿が、まるで光のように眩しかった。
(それでいい。これでよかった)
胸の奥に、ぽつりと沈んだものがある。
それを拭い去るように、リディアは無意識に首元へ手を伸ばした。
冷たい金属の感触が指先に伝わる。
クラフトからもらった、魔導石のネックレス——
リディアはゆっくりとそれを握りしめた。
(そういえば、昔……)
幼い頃の記憶がふっと蘇る。
あの頃、クラフト、キール、そして自分はよく「英雄ごっこ」をして遊んでいた。
——笑い合った、子供の頃の記憶。
英雄になることを夢見て、純粋に正義を信じていた頃。
(クラフトは、今も変わらない)
彼は、きっとこの先も目の前のことを信じて突き進む。
リディアには、その未来が見えていた。
冗談を言おう。
昔話をしよう。
いつも通りでいたい。
そう決めると、リディアはベッドから起き上がり、軽く髪を梳いた。
窓の外では、リリーが楽しそうに庭先を歩いている。
リディアはゆっくりと部屋を出た。
クラフトとキールを誘おう。
夕暮れが街を橙色に染めるころ、リディアはクラフトとキールを誘った。
「ねぇ、久しぶりに街に行かない?」
「たまには息抜きも必要でしょ?」
クラフトは少し驚いたように眉を上げ、キールは目を細める。
「ん? まぁ、いいけど……どうした、急に?」
「リディアが息抜きとか、珍しいですね」
「なんとなく、懐かしくなったの。」
「……なんだよ、急に。昔を振り返るような歳か?」
「ふふっ、もう大人なんだから、昔を振り返るくらい許してよ。」
リディアはそう言って、少し寂しげに微笑んだ。
その笑顔に、クラフトはどこか違和感を覚えたが、言葉にはせずに歩き出す。
キールは一瞬だけリディアを見たが、何も言わなかった。
街を歩きながら、三人は懐かしい思い出を語り合った。
「覚えてる? あなた、昔は英雄アイノールごっこばっかりしてたわよね。」
「おい、そんな昔の話をするなよ……!」
リディアはくすくすと笑いながら、懐かしそうに続けた。
「しかも、いつもアイノール役はクラフトがやるって決まってたのよね。」
「そ、そんなことは……」
「そんなことは?」
リディアはニヤリと意地悪く笑ってクラフトを見上げる。
キールは静かに微笑みながら、肩をすくめた。
「言っておくけど、私とキールは毎回悪役貴族にされてたのよ? しかも、絶対に勝てない設定で!」
「お前らが悪役っぽかったんだろ!」
「どこがよ!」「どこがですか!」
キールとリディアが息を合わせて言うとリディアはぷんと頬を膨らませ、思い切りクラフトの肩を押した。
キールはふっと小さく笑い、懐かしそうに呟く。
「まぁ、私も毎回『それは史実とは違います』って小言を言ってましたね。」
「そうそう! うるさかったよね、キール。」
「仕方ないでしょう。英雄ごっこなんて史実に基づいてないと——」
「だから、それがつまんないのよ!」「遊びに理屈持ち込むな!」
今度はクラフトとリディアが息を合わせて言うと、キールは呆れたようにため息をついた。
「まぁいいですが……」
——笑い声が、静かに夕暮れの街に溶けていく。
楽しい時間は、あっという間に過ぎるものだった。
街の端まで来たところで、キールは足を止めた。
「そろそろ、私はここで。明日は早いので。」
「えー、もう帰るの? つまんないわね。」
「おかげさまで、ヴェルシュトラの歴史と関係のない英雄物語を存分に堪能できましたよ。」
「……本当、皮肉しか言えないのか、あいつは」
クラフトが笑いながら言うと、キールはわずかに肩をすくめるような仕草をしながら、軽く手を上げた。
「……ふふっ」
リディアは、そのキールの一瞬だけ浮かんだ微かな笑みを見逃さなかった。
普段は皮肉屋のキールだが、どこか照れくさそうに唇の端を引き締めるその様子は、いつもより少しだけ柔らかい。
しかし、キール自身はそれを悟られまいとするかのように、すぐに表情を引き締め、無言で踵を返す。
その背中を見送りながら、リディアはそっと目を伏せた。
(……楽しかったな)
夕暮れの残光が薄れていく中、クラフトとリディアはゆっくりと並んで歩いた。
「ねぇクラフト、私たち……結構すごくなったと思わない?」
「何がだ?」
「初めは、クラフトとキール、私の3人で小さな仕事を必死にこなしてた。」
「そこにブラスが加わって、戦いのノウハウがしっかりして、今やヴェルシュトラにも注目されてる。」
「まぁ、そうかもな……」
「本当に、クラフト。あなた、英雄になるのかもね。」
リディアはふと立ち止まり、街の灯りを見つめながら呟いた。
その横顔は穏やかで、それでいてどこか儚かった。
「俺は英雄になりたいわけじゃない。ただ、目の前のことをやってるだけだ。」
クラフトは何気なく答えた。
「ねぇクラフト……もしこの先、私に何かあったら、リリーのことお願いね。」
「……は?」
クラフトは怪訝な顔をした。
「なんとなく、心配なの。あの子、強がりだから。」
「おい、縁起でもないこと言うなよ。なんか最近変だぞ。」
「もしもの話よ。でも、お願いできる?」
クラフトはじっとリディアを見つめる。
彼女はいつもと変わらないように微笑んでいる。だけど、何かが違う。
そんな考えが頭をよぎり、クラフトは居心地の悪さを覚えた。
「……あぁ、約束する。」
リディアは静かに微笑んだ。
「本当にどうしたんだよ?」
リディアは笑うだけで、何も答えなかった。
(……いや、気のせいか)
どこか引っかかる気もしたが、それ以上深く考えることはなかった。
お読みいただき、ありがとうございました。
小さな物語ですが、どこかに残るものがあれば嬉しいです。
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