未来のために、戻れない道を
次の日リディアは、まだ薄暗い早朝の空を見上げた。
家の中には静かな寝息が漂っている。
リリーの寝顔を見つめながら、リディアはそっとベッドの傍に膝をつく。
リリー待っててねあなたの未来を掴んでみせるわ。
その決意を胸に刻みながら、彼女は静かに家を出た。
町の外れの街道を進んでいると、ふとした違和感に足を止める。
「おやおや、朝から随分とせっかちなことで」
その声は、どこかとらえどころのない響きを持っていた。
振り向くと、そこには壁にもたれるようにしてオラクスが立っていた。
「……何で、あんたがここに?」
リディアは警戒の目を向ける。
オラクスは肩をすくめ、楽しげに微笑んだ。
「さぁねぇ。風の流れってやつかな?」
「……またそんな適当なことを」
「ま、俺は情報屋だからね。こういう“風向き”を読むのは仕事みたいなもんさ」
リディアは胡散臭そうに彼を見つめたが、オラクスは意に介さず、のんびりと道の先を見やる。
「それにしても、ロフタの町に向かうとは……まるで、嵐の夜に灯の消えた海を渡るようなものだ」
オラクスは、空を仰ぎながらぼそりと呟く。
「足元に広がるのは暗く深い海。どこまでも続く闇の中で、どこへ向かうかも分からず、それでも前に進む。」
彼はゆっくりとリディアの方へ視線を戻し、どこか憐れむような笑みを浮かべる。
「その海の底には何がある?金か?希望か?それとも、ただの絶望か?」
「……何が言いたいの?」
リディアが眉をひそめると、オラクスの表情がふと変わる。
冗談めかした軽さが消え、彼の目が真剣な色を帯びた。
「行くんじゃない。ろくなことにならない」
「……珍しく真剣ね」
「真剣だとも」
オラクスはふっと息を吐き、低い声で続ける。
「ここで止められるなら、止めたいくらいさ」
「……どうして?」
「理由を聞くか? それでも行くなら、知らない方が幸せかもね」
「……何それ」
「まぁ、忠告はした。あとはお前さんの勝手さ」
オラクスは肩をすくめると、あっさりとその場を後にした。
リディアはしばらく彼の背中を見送っていたが、やがて静かに歩き出す。
もう、迷っている時間はない。
ロフタの町へ——。
町の入り口に足を踏み入れた瞬間、リディアはその変わり果てた光景に息を呑んだ。
かつては賑わいを見せていた市場の跡地には、今や荒れ果てた屋台の残骸だけが残り、崩れかけた建物の間を痩せ細った犬がうろついていた。
壁には剥がれかけたポスターが張られ、どこからともなくかすれた呻き声のようなものが聞こえてくる。
「……ひどい」
昔、母がこの町で工房を構えていたことを思い出しながら、リディアは奥へと進んだ。
かつての工房は、今はただの民家になっているようだった。
知らない住人の生活感が滲んでいるその建物を見つめながら、リディアはかすかに唇を噛む。
——母が残した場所も、時の流れとともに変わる。
だが、今は振り返っている暇はない。
リディアは足を踏み出し、目的の場所へ向かった。
薄暗い店内には、古びた帳簿が積まれ、壁際には数人の受付係が座っていた。
カウンターの向こうには書類をめくる音だけが響き、そこには奇妙な静けさが漂っていた。
「……学費のために契約を結びたいんです」
リディアの言葉に、受付の男は無表情で頷く。
しかし、彼は書類をめくるうちに、眉をひそめた。
「……これは」
「何か問題でも?」
「希望額に対して、あなたのスキルの担保では……到底、条件が合いませんね」
リディアの喉がひりつく。
「そこを何とか——」
「お困りのようですね」
その時、不意に奥から静かな声が響いた。
ゆっくりと歩いてきたのは、 洗練された身なりをした男 だった。
スラリとした体格、丁寧に整えられた黒髪、そして—— 妙に冷たい目 。
リディアは無意識に背筋を伸ばした。
男は淡々とした足取りで近づき、受付の男の肩を軽く叩いた。
「こちらのお客様を、私が直接対応しましょう」
「は……はい、かしこまりました」
受付の男は恐縮するように頭を下げ、リディアに向き直る。
「では、お客様……奥の部屋へどうぞ」
リディアの胸が、高鳴る。
特別な条件——それさえ飲めば、希望の金額を手にすることができる。
男に導かれるまま、リディアは静かに奥の部屋へと歩き出した。
奥の部屋は、先ほどの薄暗い店内とは異なり、妙に整然としていた。
机の上には分厚い契約書が置かれ、重厚な椅子が整然と並んでいる。
男は椅子を引き、リディアを座らせると、静かに微笑んだ。
「……お嬢さんは、大金が必要だとか」
「……はい」
「いいでしょう。お望みの額をお出ししましょう。ただし——」
男は、指で机をトントンと叩きながら続ける。
「特別な条件があります」
リディアの心臓が、一瞬だけ強く跳ねた。
「……条件?」
「ええ。通常の契約ではとてもお貸しできる金額ではない。ですが、あなたがこの条件を飲めるのなら、望むだけの金額をご用意しましょう」
男は淡々と契約書をめくりながら、静かに言った。
「その前に、この契約の内容については、他言無用でお願いしたい」
リディアは眉をひそめる。
「どういう意味?」
「詳細な条件をお伝えする前に、一つスキルをかけさせていただきます。契約の詳細を口にできないようにする、簡単な処置ですよ。違反者には……少々、心地の悪い罰が待っていますがね」
男は微かに口元を歪め、書類の隅を指でトントンと叩いた。
リディアの喉がひりつく。
「……そんなスキル、本当に必要なんですか?」
「ええ、もちろん」
男は笑みを崩さないまま、さらりと答える。
「こちらとしても、お客様の大切な契約がうっかり漏れるのは避けたいのでね。さあ、始めましょう」
その瞬間、リディアの視界がぐらりと揺れた。
胸の奥が妙に詰まり、冷たい感覚が全身を包み込む。
——何かが、体の中に入り込んでくる。
「……っ!」
声をあげようとしたが、喉が強く締め付けられたように言葉にならない。
瞬間的に、意識の奥に奇妙な感覚が生まれた。
(……何かを、話しちゃいけない?)
何を——?
それを考えようとすると、頭の奥がじんじんと痛む。
リディアは、震える指でテーブルを掴んだ。
男はそんな彼女を見つめ、満足げに頷く。
「大丈夫、すぐに慣れますよ。それでは、契約を続けましょう」
その言葉とともに、男は書類をリディアの前に差し出す。
リディアは紙面を見つめ、目を細めた。
そこには、確かに法外な金額が記されていた。
——けれど、条件の欄を見た瞬間、息が詰まる。
(……これは)
何かが、おかしい。
けれど——
それでも、これだけの金額があればアカデミアの学費なんて簡単に......
リディアは、深く息を吸い込むと、迷いを振り払い、静かに頷いた。
「契約、します」
男は満足げに笑い、ペンを手渡す。
「ご決断、ありがとうございます」
リディアは、震える指でペンを握ると、署名欄にそっと名前を記した。
インクが紙に滲む。
それは、決して戻れない未来への、最初の一筆だった。
ロフタの町を抜けたリディアは、ひときわ洗練された雰囲気のスキル店の前で足を止めた。
金細工の看板が夜の風に揺れ、扉の横には「希少スキル専門店」の文字が刻まれている。
ここなら——間違いなく神経再生のスキルが手に入る。
彼女は意を決して、扉を押し開けた。
店内はまるで宝飾店のような整然とした空間だった。ガラスケースの中にはスキルが刻まれた羊皮紙が丁寧に収められ、一枚ずつ魔力の封印が施されている。
カウンターの奥には、白い手袋をはめた細身の男性店員が控えていた。
彼はリディアを一瞥すると、営業スマイルを浮かべる。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなスキルをお探しでしょうか?」
リディアはためらわずに口を開く。
「神経再生のスキルを」
店員の動きが一瞬止まる。
「……神経再生でございますか?」
口調こそ変わらないが、リディアの身なりをさりげなく値踏みするような視線が一瞬、走った。
それも当然だろう。
この店は高級店。神経再生のスキルは、治癒系スキルの中でも特に高度で、価格も群を抜いている。
店員は流れるような動作で帳簿をめくりながら、やんわりと尋ねた。
「失礼ですが……ご予算は?」
リディアは懐から金貨の詰まった袋を取り出し、カウンターの上に置いた。
金貨が擦れ合い、澄んだ音を響かせる。
店員の表情が、わずかに変わった。
「……承知いたしました」
彼はすぐに棚の奥へと向かい、慎重に羊皮紙を選び出す。
「こちらが、即効性のある神経再生のスキルになります。負傷した神経組織を活性化させ、短期間で回復を促すものです」
リディアは羊皮紙を手に取った。
これが——リリーの未来を変える力。
「……ありがとうございます」
店員は一礼しながら、白い手袋越しに帳簿へとサインを記し、代金を数え始める。
しかし、彼は金貨の重さを確かめたあと、ふとリディアを見つめた。
「お客様——差し出がましいようですが」
リディアは顔を上げる。
「……はい?」
店員は一瞬、言葉を選ぶように目を伏せ、それから穏やかに言った。
「本当に、よろしいのですか?」
リディアはその言葉の意味を瞬時に悟り、すぐに微笑を作った。
「ええ。問題ないわ」
店員はしばらくリディアの瞳を見つめたが、やがて微かに頷き、静かに礼をする。
「……承知いたしました。それでは、またのご来店を」
リディアは羊皮紙をしっかりと抱え、店を後にした。
扉を開けた瞬間、冷たい夜風が頬を撫でる。
リディアはゆっくりと息を吐いた。
(——大丈夫。これで、リリーは歩ける)
そう、強く自分に言い聞かせながら、夜の街道へと歩き出した。
早朝、冷たい空気をまといながら家を出たはずなのに、帰ってきた頃にはすでに日は傾きかけていた。長い一日だった。けれど、リディアの手の中には確かにある。リリーの未来を拓くための、奇跡のスキルが——。
お読みいただき、ありがとうございました。
小さな物語ですが、どこかに残るものがあれば嬉しいです。
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