守りたい未来、踏み出したい夢
夜の静寂に包まれた街を、リリーは車椅子を走らせるようにして駆けていた。
家の扉を飛び出したときは、ただただ怒りと悲しみでいっぱいだった。涙が滲んだ視界を振り払うように、無我夢中で進んだ。
だけど、気づいた時には、広場の入り口で動けなくなっていた。
「え……?」
少し傾斜になっている場所で、車輪が敷石の隙間に引っかかってしまったのだ。
「そんな……なんで……!」
焦りと苛立ちがこみ上げる。両手で力いっぱい車輪を押し、引いてみる。何度も、何度も。
けれど、車椅子は動かない。
「もうっ……動いてよ……!」
強く押しすぎたせいで、わずかに前後に揺れるものの、決して抜け出せない。そのたびに体のバランスが崩れ、余計に焦る。
——私は、一人じゃ外出すらままならない——
その現実が、心にのしかかる。
怒りが次第に消えていく。代わりに、自分の無力さが突きつけられた気がして、静かに唇を噛んだ。
「……っ」
もう、何もかも嫌になりそうだった。
そんな時、ふと誰かの足音が近づいてくる。
「何してるんだ?」
穏やかな声がした。
リリーが顔を上げると、そこにはクラフトが立っていた。
彼は少し驚いたようにリリーを見つめたあと、そっと車椅子の様子を見て、無言のままゆっくりと後ろから押した。
ガタン、と小さな衝撃とともに車椅子が動き、リリーは開放された。
「これでよし、と」
クラフトはさりげなく手を離し、リリーの正面に回った。
「何かあったのか?」
その言葉に、リリーは一瞬口を噤んだ。でも、言葉を詰まらせたままでは、胸の奥が苦しくなるばかりだった。
「……お姉ちゃんに、酷いこと言っちゃった」
視線を落とし、ぽつりと零す。
「大喧嘩して……ひどいことを……。お姉ちゃんのこと、大嫌いだって……」
涙が込み上げそうになり、慌てて腕で拭う。
クラフトは、何も言わなかった。ただ、リリーの話を静かに聞いていた。
その沈黙が、少しだけ救いになった。
ふと、リリーの視線が広場の中央にある大きな銅像へと向く。
「ねぇ……クラフト。この銅像って、誰?」
クラフトもゆっくりと視線を向け、少し目を細めた。
「……英雄アイノール」
「アイノール……?」
「ヴェルシュトラの創設者で、アカデミアを作った人だ」
リリーは銅像を見上げる。堂々とした立ち姿、どこか誇り高い表情。
「この人が……」
「すごい人なのね」
リリーの呟きに、クラフトは小さく笑った。
「あぁ。貴族が独占していたスキルを、誰でも使えるようにした英雄だ」
「スキルが……独占されてたの?」
「昔はな。貴族だけがスキルを持ち、一般人は手に入れることすらできなかったんだ。でもアイノールは、それを変えようとした」
クラフトの声は穏やかだった。だが、話すにつれて、その声音には少しずつ熱がこもっていった。
「最初は、不可能だって誰もが言っていた。貴族はもちろん、一般人の中にもアイノールを信じない人はいた。でも……彼は諦めなかった。次第に周囲を巻き込んで、不可能を可能にしたんだ」
リリーはじっとクラフトを見つめた。
「詳しいんだね」
クラフトは少し照れくさそうに笑った。
「子供の頃から好きだったんだ、彼の英雄譚が」
彼は夜風に髪を揺らしながら、静かに続けた。
「アカデミアに入ってからは、彼の歴史をもっと知りたくて、本を読み漁った。リリーも、入学したら図書室に行ってみるといい。本は世界を広げるからな」
「……本が、世界を広げる……」
リリーはゆっくりと銅像を見つめる。
堂々と立つアイノールの姿。彼はかつて、周囲の反対を押し切って、不可能を可能にした。
その強さは、どこから生まれたのだろう。
「……アイノールも、最初から強かったの?」
リリーがぽつりと尋ねると、クラフトは少し驚いたように目を瞬かせた。
そして、ゆっくりと首を横に振る。
「いや……きっと、そうじゃなかった」
「でも、強くなったんだ」
「……そうだよね」
リリーは、車椅子を強く握りしめる。
「……ありがとう、クラフト」
クラフトは優しく微笑んだ。
「いいんだ。気をつけて帰れよ」
リリーは小さく頷くと、再び銅像を見つめた。
――アイノールは、周囲の反対を押し切って、不可能を可能にした。
だったら、自分も……?
そう思った瞬間、少しだけ胸の奥に、温かな灯がともった気がした。
リリーは静かに家路へと向かった。
夜の空は澄み渡り、星がきらめいていた。
夜が更ける頃、リリーは帰ってきた。
扉が静かに開き、小さな足音が部屋を横切る。
リディアは振り返り、声をかけるべきか迷った。
しかし、リリーのほうが先に口を開いた。
「……さっきは、ごめんなさい」
その言葉だけを残し、リリーはそのまま寝室へ向かった。
扉が閉まる音が静かに響く。
——リディアも、謝りたかった。
けれど、お互いに言葉を交わすにはまだ少し時間が必要だった。
ギクシャクした空気が、部屋の中に微かに漂っていた。
翌朝。
まだ陽が昇りはじめた頃、リディアはそっとベッドを抜け出した。
——母さん、絶対にリリーを幸せにする。
それは、自分が生きる意味だった。
母の最期の願いを、自分が叶えなければならない。
リディアはそっと布団を整え、音を立てないようにドアを開ける。
まだ街が眠る中、彼女は一人、家を出た。
冷たい風が頬を撫でるが、それよりも胸を締め付ける焦燥感のほうが痛かった。
——お金が足りない。
どれだけ計算しても、どれだけ削っても、アカデミアの学費には到底届かない。
リリーには「リリーの入学祝いに、何かいいものがないか探してくるね。」と言って家を出たが、その言葉の裏に焦りを隠していた。
最初に訪れたのは、街でも最も大きな魔契約業者だった。
「……学費のための契約ですか」
事務的な声が響く。
「はい。できるだけ早く、まとまった金額を借りたいんです」
カウンター越しに座る男は、無表情のまま書類をめくる。
やがて、リディアのスキルを確認し、鼻を鳴らした。
「……なるほど。これは厳しいですね」
「……希望額に対して、現状の担保では三割ほどしか貸し付けできません」
「え……?」
リディアの喉が乾く。
「どういう意味ですか?」
「リディアさんの持っているスキル……実用性は高いですが、市場価値は低い。高額融資には適しません」
「それでも、何とか……!」
リディアは息を呑んだ。
男は淡々とした調子で言う。
「もっと高価なスキルを担保にするか、あなた自身のスキルを売ることですね」
リディアの指が無意識に震えた。
スキルを売れば、リリーを守る力を失う。
「他に方法は……?」
「ありません」
そう言われ、リディアは黙って立ち上がった。
ここがダメなら、次だ。
——結局、彼女は夜が更けるまで街を彷徨い、あらゆる魔契約業者を回った。
しかし、どこも同じだった。
担保にできるスキルの市場価値が低すぎる。
それが全てだった。
「魔契約で足りない分、何としないとリリーの将来が…」
リリーの呟きを冷たい夜風掻き消し、焦燥感を煽る。
「……もう、祖父の親戚のほうを当たるしかない……」
「……もう、祖父の親戚のほうを当たるしかない……」
ふと、鞄の中にしまっていた紙束の存在を思い出す。
入学手続きの際、アカデミアから渡された家系図。
リディアはその紙を取り出し、震える指で一つひとつの名前をなぞった。
お読みいただき、ありがとうございました。
小さな物語ですが、どこかに残るものがあれば嬉しいです。
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