市場の戦略、戦場の戦略
ギルドでゴブリン討伐の依頼を受けたノクスの面々は、市場で装備を整えることにした。
市場は活気に満ち、露店の間を行き交う人々の声が賑やかに響く。焼き立てのパンの香りが漂い、武具や道具を売る商人たちが威勢よく客引きをしていた。
リディアが露店の前で立ち止まり、じっと品物を見比べる。
それを見たクラフトとキールは、顔を見合わせて苦笑した。
「……始まるな。」
クラフトが小さく呟く。
「今日も市場の価格相場を変えてしまうんですね……。」
キールが軽く肩をすくめる。
リディアは品物を見比べながら、慎重に必要な物を選んでいく。
「回復ポーションはこれね。」
そう言って、リディアは大瓶の回復ポーションを手に取る。
「そんなに必要か?」
クラフトが眉を上げると、リディアは微笑んだ。
「大瓶のほうが割安なの。後で小瓶に小分けして使うわ。」
「なるほど。確かに、一本あたりのコストを抑えられますね」
キールが感心したように頷いた。
「こういうのは積み重ねよ。無駄を省けば、長期的に見て大きな差になるわ。」
リディアはさらに松明や保存食を手に取った。
「松明はそのまま使い捨てるのはもったいないわね。」
リディアが携行油の瓶を手に取り、慎重に量を確認する。
「継ぎ足し用の携行油を買えば、一本の松明を何度も使えるのよ。そのほうがコストも抑えられるし、いざという時に油だけを火種にすることもできるわ。」
「今回もさすがだったな、これで資金に余裕が出るよ」
クラフトが満足そうに微笑む
だが、リディアは不思議そうに首をかしげた。
「何言ってるの、ここからが本番じゃない。」
リディアが店主を呼ぶと、奥から親しげな笑顔が現れた。
「おっ、リディアちゃんか。元気にしてたかい? でも今日はおまけしないぞ〜?」
俺の名前はロイ、この市場で二十年商いを続けてきた。
初めは何もかもが手探りで、泣きながら帳簿をつけた夜もある。
「ううん、大丈夫。今日はただの買い物よ、これからちょうどゴブリン退治にいくの」
「そうなのか!それは物入りだな!」
だが、ようやく“金は回して初めて金を産む”という理屈が、頭じゃなく腹に落ちてきた。
今では、値段の一割を見ただけで仕入れ先の余裕まで読めるようになったつもりだ。
……そう、“つもり”だった。
「ねぇ、とある道具屋さんがね。“新鮮なゴブリンの爪が手に入らない”って言ってたの、聞いたことある?」
——その言葉が、皮膚に刺さった。
「……っ!?」
リディアが店主を呼ぶと、店の奥から馴染みのある笑顔が現れた。
何かが背中を這い上がる感覚。
まさか、と言葉が喉につかえて出てこない。
「知ってる? その“新鮮なゴブリンの爪”って……水虫に、効くらしいの」
また、刺された。
心臓の鼓動が一瞬遅れて聞こえるような、妙な違和感。
「……ま、まさかお前……それ……どこで……」
あの夜の会話、確かに誰にも聞かれていなかったはずだ。
妻がいない隙に、ぽろっとこぼしただけ……それなのに。
リディアが一歩、こちらに近づく。
——なぜだろう。
少女のはずなのに、瞳の奥に“商売人としての戦いの場数”を見た気がした。
この市場には、たまに“人外の目を持つ者”が現れる。
すべてを見透かすような、洞察と慈悲が混ざり合った、あまりにも静かな眼差し。
「ねぇ……お嬢さん、5歳になったんでしょう? おめでとう」
それが——トドメだった。
血の気が引く。
まるで、静かに首を絞められているような感覚。
俺は目を逸らす。
でもその視線は逃げても逃げても、背後からじっと追ってくる。
「……っ……一割引でどうだ……」
「水虫って、感染るのよ。子供にも」
「っっっっ……!」
“自分が狩る側”だと信じて疑わなかったこの市場で、いま、俺は初めて“狩られる”恐怖を知った。
「に、二割……!いや、三割だ……!」
「私は何も知らないわ。ただ、可哀想よね。痒いのに我慢しなきゃいけないなんて」
その声に、もう抗う力は残っていなかった。
指先が震える。
レジの奥に伸ばした手は、商品ではなく“降参”を差し出していた。
「……四割……! 四割で、頼む……!」
「まぁまぁってところね」
リディアは小さく頷き、まるでお茶を一服終えた後のような、落ち着いた笑みを浮かべた。思っていたよりも、ずっとスムーズだった。
そこには、呆れ顔のクラフトが立っていた。
「……お前、それ脅迫って言葉、知ってるか?」
クラフトが眉をひそめてぼそりと呟く。
リディアは目をぱちくりさせ、まるで心外だと言わんばかりに笑った。
「ひどいわね。私はただ、世間話をしただけよ?」
「それ、店主の心に深く刺さってたぞ。たぶん治る前に胃に穴が空く」
「じゃあ、胃薬のついでに、また行こうかしら」
リディアは無邪気にウィンクをしてみせた。
「さて、これで準備は整ったわね。」
ブラスが腕を組みながら感心する。
「お前、ほんとしっかりしてるな。けど、何かそこまでする理由があるのか?」
リディアは迷いなく答えた。
「あるわよ。リリーのアカデミアの入学金、まだ全部貯まりきったわけじゃないんだから。」
ブラスがああ、あの子かと頷いた。
「そういや、前に見たときは車椅子だったな。」
「ええ。でも、本人は気にしてないわ。むしろ前向きに頑張ってる。」
「それならいいが……お前も無理しすぎんなよ。」
「あの子が頑張ってるんだもの、姉として当然よ」
荷を背負い直しながら、クラフトが深く息を吸う。
「……行くか」
一同が頷き、街を後にする。
──そして、山道。
砕けた岩肌の間を縫うように続く細道を、ノクスの四人はゆっくりと進んでいた。
昼とは打って変わって、森の中は涼しく、鳥のさえずりと風の音だけが耳を満たしていく。
何気ない会話の合間にクラフトがふと思い出したように言った。
「そういえばさ、ブラス。お前ってアカデミア出身じゃないよな? どうやってヴェルシュトラに入ったんだ?」
「ん? ……ああ、俺か」
ブラスは斧を担ぎ直しながら、口元に苦笑を浮かべた。
どこか懐かしく、そして少しだけ苦い記憶を思い出すように。
「“羽交い締めスカウト”だな」
「は? 何それ」
リディアが思わず眉をひそめる。
「親父がな、そこそこ有名な武道家でさ。俺、小さい頃からずっと鍛えられてたんだよ」
ブラスの声は、いつになく穏やかだった。
「……あの人、ほとんど喋らない無口な奴でさ。俺が何か話しかけても、“うむ”とか“もう一度やれ”とか、それくらいしか返してくれなかったんだ」
斧を肩に担ぎながら、ブラスはゆっくりと空を見上げる。
「でもな、稽古だけは、親父がちゃんと向き合ってくれる時間だった。拳を交わしてる時だけ、親父が俺のことを見てるって、そう思えたんだよな」
ほんのわずか、表情に柔らかさが浮かぶ。
「だから、楽しかったんだ。毎日、黙々と殴り合ってただけだけどな」
その言葉に、しんとした空気が流れる。
ブラスの過去を語る声には、どこか温度があって、仲間たちも思わず耳を傾けていた。
「でな、12歳くらいの頃かな。ふと気づいたんだよ。親父の怪我が……増えていっててさ」
「怪我ですか?」
キールが不思議そうにブラスを見つめる。
ブラスは肩をすくめながら、まるで他人事のように話し続ける。
「最初はちょっとした打ち身だった。でも、だんだん青あざが増えていって、顔がパンパンに腫れて、とうとう前歯がなくなっててさ」
少しだけ言葉を探して——
「そういえば、その頃からだったかな……」
斧を持つ手がゆっくり止まる。
「稽古の合間に、やたら“ちょっと休憩”って言い出すようになってな。やたら便所にこもるんだよ、親父。長いときは一時間くらい」
「……それ、完全に現実逃避よ」リディアがぽつりと呟いた。
「いや親父はそんなヤワじゃねぇ......多分、年を取ると膀胱も疲れるんだよ」
ブラスは首をかしげながら、真面目にそう語った。
「まあでも、不思議なこともあったぜ? 親父に蹴られても、殴られても、まったく痛くないんだよなぁ。あの頃、防御がすっげぇ上達したんだと思う」
「……ブラス。お前、それ防御じゃない」
クラフトが、恐る恐る口を開いた。
「で、ある日親父が“……私の武に捧げた人生は一体……”とかぶつぶつ言い出してさ」
ブラスはどこか懐かしそうに、少しだけ目を伏せた。
「それから、しばらくしてだったな。ヴェルシュトラから使者が来た。“お子さんを譲ってください”ってな。俺、気づいたら羽交い締めにされてて……気づいたら馬車の上だった」
笑うように話すその声に、どこか寂しげな響きが混じる。
「……俺さ、親父のこと、大好きだったんだよ」
ぽつりとこぼれたその一言に、仲間たちの足が止まる。
「離れたくなんてなかった。でも……あのとき親父、初めて笑ってたんだ。満面の笑みで」
斧を握る手が、わずかに震える。
「俺は思ったよ。獅子は子を谷に突き落とすって、そういうことなのかって……。親父なりに、俺のことを“旅立たせてくれた”んだってさ」
その横顔には、いつもの豪快さはなかった。
……ほんの一瞬、涙が滲んだ気がした。
「……あれは、きっと……最後まで、俺の成長を喜んでくれた顔だったんだろうな」
その場に、しんと静けさが広がる。
……ほんの一瞬、誰もがそのまま口を閉ざすと思われた、その時だった。
「状況から判断する限り、あなたの父親はあなたを――売っ」
「キールちょっと!!!」
リディアが叫びながら、キールの口を物理的に塞いだ。
「キール、今だけは黙っててくれ……頼む」
クラフトが苦い顔で額を押さえる。
「……? なぜ止められるのか、理解できません。事実を述べようとしただけですが」
「そこが問題なのよ!!!」
リディアが全力でツッコむ。
ブラスはというと、涙目のまま空を見上げながら、
「……親父の笑顔……間違ってなかった……はず……」
と、遠い目をしていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
小さな物語ですが、どこかに残るものがあれば嬉しいです。
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