訓練場の悪魔と、止まった時間
酒場での会話はどんどんと盛り上がっていった。
ふと、リリーは興味津々な様子でブラスを見上げた。
「ねえ、ブラス。お姉ちゃんたちとどうやって知り合ったの?」
「おお、それが気になるのか?」ブラスは豪快に笑いながら、酒杯を掲げた。「まぁ、聞いて驚けよ。こいつらとの出会いは、なかなかの伝説だったんだぜ?」
クラフトが苦笑しながら肩をすくめる。「伝説っていうか……まぁ、俺たちにとっては忘れられない出来事ではあるな」
「そうね、忘れたくても忘れられないわ……」リディアが遠い目をする。
「私たちがまだ駆け出しだった頃の話です」キールが淡々と続けた。「簡単な依頼のはずだったのですが——」
——数年前、クラフト、リディア、キールの三人は、まだ駆け出しの冒険者だった。
彼らが初めて受けた依頼は、ただの物資運搬。街から街へ荷物を届けるだけの簡単な仕事だった。
「でも、あの時の俺たちはまだ未熟だった」クラフトが苦笑する。「道を間違えて、気づいたら魔物の縄張りに入り込んでたんだよ」
「しかも、よりによって相手は《ブラッドウルフ》の群れだったのよね……」リディアが肩を落とす。「囲まれた時のあの絶望感、今でも忘れられないわ」
「そのまま逃げることもできず、戦うしかなかったのですが……」キールがため息をつく。「——まぁ、結果は散々でしたね」
クラフトは背中をかきながら、遠い目をする。
「俺は腕を噛まれるし、リディアは魔力切れでへたり込むし、キールは最後は杖一本で戦う羽目になったしな……」
「もう、全滅寸前だったわよ……!」
リディアがぐったりとテーブルに突っ伏す。
リリーが興味津々で身を乗り出す。
「で? で? そこからどうやって生き延びたの?」
クラフトとリディアが揃って、ブラスを指差した。
「——そこに、通りすがりの大男がいまして」
リリーが期待するように見ている。
——ボロボロになった三人が追い詰められた時、たまたまその場を通りかかったブラスだった。
「お前ら、見るに見かねて助けてやったんだよなぁ……いや、マジで惨かったぞ」ブラスは腕を組みながら苦笑する。
「俺が駆けつけた時には、クラフトは血まみれ、リディアは地面に座り込んで息も絶え絶え、キールに至っては——」
「私は杖を振り回してましたね」キールが淡々と言う。
「そうそう! お前、魔法職なのに、狼相手に杖で殴りかかってたんだよな!」
「そうするしかなかったんです」キールは渋々と肩をすくめる。
「魔力が切れて、敵はまだ生きている。ならば……杖しかないでしょう」
「まぁ、あの時のお前、必死すぎて敵も怯んでたけどな!」
ブラスが大笑いする。
「俺が駆けつけて一掃した時の、三人の顔よ! もう、生き残ったのが奇跡って感じだったぜ!」
「そう言われると反論できないわね……」リディアが肩をすくめる。
キールは遠い目をしながら、あの時の光景を思い出したように淡々と続ける。
「突然ブラッドウルフたちが次々と吹っ飛んでいって。これは新種のオーガがやってきたのかと」
「おいおい、新種ってなんだよ!」ブラスが憮然とした表情で突っ込む。
「当時の私たちには、それくらいの衝撃でしたよ」キールは肩をすくめる。「自分たちが必死に戦っても倒せなかった相手が、一瞬で片付いたわけですからね」
「お前らが弱すぎたんだろ!」
「まぁ、それ以来、俺はこの三人を放っておけなくなっちまったってわけだ」ブラスは豪快に笑いながら、酒をあおった。「お前ら、今じゃすっかり成長したが……あの時は本当にひどかったぜ!」
みんなが笑っている。たわいもない話をして、楽しい時間が流れていく。
リリーが今度はクラフトを見つめる。
「そういえば……クラフトもアカデミアを卒業してるんだよね? しかも、いい成績で。でも、どうしてヴェルシュトラには行かなかったの?」
クラフトは少し考え、「キールとリディア、三人で冒険するのが昔からの夢だったんだ」と答えた。
「それに……ヴェルシュトラは親父が働いててさ。話を聞いてると、どうも組織の人間として働くのは合わないかなって思ったんだ」
「親父さんがヴェルシュトラ……!?」
ブラスが唐突に驚いたように身を乗り出した。
「名前は?」
「グラウスだけど、知ってるのか?」
ブラスの顔が一気に青ざめる。
「グラウスおじさん、すっごく優しいのよ」
リディアが笑顔で言った。
「いつも私とリリーのこと気にかけてくれて、昔お菓子を作ってくれたこともあったわ!」
「孤児院の子供たちにも分け隔てなく接していましたし、後で知りましたが、援助もしてくれていたようです」
キールが淡々と付け加えた。
ブラスの顔色はさらに青ざめ、震え始める。
「そうだよね、グラウスおじさん元気にしてるかな?」
リリーが笑顔で尋ねる。
「……ああ。でももう金も貯まったし、引退するってさ。老後は畑でも耕しながら、ゆっくり過ごすって言ってたよ」
ブラスの視界が、遠のく。
彼の頭の中で、記憶が蘇る。
新人戦士たちの間で、伝説として語り継がれる存在——
「訓練場の悪魔、グラウス」
彼の訓練は、過酷なんて生易しいものではなかった。
もはや拷問と区別がつかないレベル だった。
72時間の不眠不休戦闘——
「これは精神鍛錬だ!」と叫びながら、眠りかけた訓練生に水をぶっかけ、起きた瞬間に戦闘開始。
眠気で足元がふらつけば、「お前は寝る前に敵に許可を取るのか?」と凄まじい圧をかけられる。
装備なしでのモンスター討伐——
「装備に頼るな!」の一言とともに、全裸同然の状態でモンスターの群れに放り込まれる。
なお、戦いが終わる頃には、モンスターの方が 「こいつらのほうがヤバい」と目を逸らしていた。
鎧を着たままの水中脱出訓練——
「水の中でも冷静でいろ」と言いながら、訓練生を鎧ごと湖に沈める。
泡がぷくぷくと浮いてきても、「まだ生きてるな」と腕を組んで見守る鬼教官。
なお、溺れかけると 「水を飲め! 内側から攻略しろ!!」 という謎の激励が飛んでくる。
だが、何よりも恐ろしいのは、グラウスの冷酷無比な観察眼 だった。
彼は、訓練生の限界を秒単位で正確に把握し、まさに 「死ぬ一歩手前」 で助けてくる。
つまり、死なない程度に死ぬほど追い込まれる。
肉体だけでなく、精神も徹底的に叩き直される。
「泣くな、怒るな、喚くな。お前の不出来は俺のせいじゃない」
この台詞とともに、感情すら鍛え上げられる。
ヴェルシュトラの戦士には、二種類の人間がいる。
「訓練場の悪魔に 鍛えられた者 」
そして——
「逃げた者 」
ブラスは椅子からずり落ちそうになりながら、震える手でクラフトのグラスを持ち上げた。
「まさか……まさか訓練場の悪魔……いえ、グラウス様のご子息様だったとは……!」
ブラスはすっと背筋を伸ばし、グラスを両手で差し出した。
「お飲み物のおかわり、いかがでしょうか?」
「……ブラス?」
「いやいや、グラウス様のご子息ともなれば、これは当然の礼儀というもので……」
「いや、親父、別にそんな偉い立場でもないけど……」
「偉いとかじゃねえ!! お前の親父は『恐怖』なんだ!!」
ブラスの震えは止まらない。
「そんなに怖い人だったのか……?」
ブラスはわずかに口を開き、かすれた声でつぶやいた。
「……お前、ヴェルシュトラに入らなくて、本当に正解だったぞ……」
キールは腕を組みながら、じっとブラスの様子を観察し、淡々と呟く。
「……ブラスがここまで怯える相手、初めて見ましたね」
リディアは首を傾げながら、驚いたように問いかけた。
「えっ、グラウスおじさんってそんな怖い人だったの?」
リリーは、まったくピンときていない様子で、少し考え込むように言う。
「そうかな? すごく優しかったけど……」
ブラスの顔には、明らかに 過去のトラウマを思い出した者 の表情が浮かんでいる。
その手は、震えながらも酒杯を離さず、ギリギリと握りしめる。
「俺の人生で一番長い半年は、あの人の訓練だったんだ!!!」
「半年がまるで十年のようだったぜ……!」
リリーは得心がいったように頷く
「わかった! きっとおじさん、みんなの憧れの存在だったんだね!」
酒場の空気は、次第に賑やかさを増していった。
ブラスの訓練地獄の話で一通り大笑いした後も、次々と話題が飛び交う。
みんなが笑っている。たわいもない話をして、楽しい時間が流れていく。
酒場の喧騒と温かな灯りの中で、彼らはただ、仲間と語り合い、笑い合い、
まるでこの幸せな時間が永遠に続くかのように、何の不安もなく時間を過ごしていた。
今だけは、誰もがそれを信じていた。
この時間が、いつまでも続くと。




