——完、そしてほんとの完
病室には、柔らかな陽射しが差し込んでいた。
高台に建てられた静かな病院。
その一室には、少し前まで誰かが笑っていた名残が残っていた。
クラフトのベッドの脇には、折り鶴と、手作りのカード。
そのどれもが、幼い筆跡で彩られている。
扉の外では、二人の若い女性が肩を寄せ合って並び、そっと病室を後にするところだった。
笑顔を作りながら、ドアが閉まるのを見届ける。
——そして、ドアが静かに閉まった瞬間。
その一人が、堪えきれなくなったように泣き崩れた。
「ダメだよ、泣いちゃ。先生が心配するから……って、言ってたじゃない。
“涙を流すより、言葉にするほうが大事”って」
もう一人が、涙を拭う彼女の背をそっと撫でながら囁く。
それは、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
1人の女性がそのやり取りを少し離れた場所から静かに見つめていた。
微かに目元が緩み、胸の奥で小さく息を吐く。
——ちゃんと、伝わってる。
やや緩やかな歩幅。
慎ましやかな衣装の裾が風に揺れ、白髪に混じる金色の名残が、光を受けて淡く煌めく。
皺の刻まれた頬には、今もなお変わらぬ優しさが宿っていた。
その姿は、かつて共に歩んだ者たちを思い出させる。
扉の前で一瞬、足が止まる。
目の前の空間に残された教え子たちの涙。
そして、笑顔で見送った背中。
それを見届けた彼女は、そっと瞼を閉じ、ひとつ深く息を吐いた。
——クラフト、大丈夫。ちゃんと伝わってる。
あなたの言葉も、あなたの願いも。
そう言うかのように、彼女は静かに扉を開けた。
ドアをノックせずに、そっと開ける。
中には、やや痩せた体をベッドに横たえたクラフトがいた。
だが、その表情には弱さではなく、穏やかさがあった。
クラフトは、ゆっくりと目を開け、微笑んだ。
「……久しぶりだな、リリー」
リリーも、柔らかく微笑む。
「こないだ来たばかりじゃない」
「一年ぐらい前じゃなかったか?」
「歳をとるとね、一年は一週間の方程式が成り立つのよ」
クラフトは喉の奥で小さく笑った。
「……一年は一年だろ」
病室の窓辺に、風がそっとカーテンを揺らしていた。
リリーは椅子に腰かけたまま、静かにクラフトの横顔を見つめていた。
ふと、クラフトの目が、彼女の左手にとまる。
薬指には、控えめながらも光を帯びた指輪があった。
クラフトは少しだけ目を細めて、声をかけた。
「……ブラスは最近、どうしてる?」
リリーはその問いに、ふふっと微笑みを浮かべた。
「相変わらずよ。現役バリバリ」
「今は別の国に遠征中。……この前なんて、“またオーガの血を土産に持って帰る”って」
「……やめてくれ、ほんとに」
クラフトは、視線を横にそらした。
病室の壁際には、すでに瓶詰めされたオーガの血がいくつも並んでいた。
色とりどりのラベルには、すべて手書きのメッセージ付き。
「気持ちだけ受け取ると……伝えてくれ。絶対に」
「伝えておくわ」
リリーはくすくすと笑いながらも、優しい声でそう答えた。
「……キールは? 最近来てるの?」
「来てるとも。毎月のようにな」
クラフトはベッドにもたれかかりながら、どこかおかしそうに言った。
「相変わらず皮肉ばっかりだよ。……むしろ年取って、皮肉の切れ味が増してるぞ」
「ふふ、目に浮かぶわ」
「あとな」
クラフトは目尻に少し笑いをにじませながら続けた。
「毎月、匿名で寄付が届くんだよな。……なぜか、学校の運営費と一緒に、“事業計画改善案”が添付されてる」
「……本当に匿名なの?」
「あぁ、“個人的な見解であり、組織の方針を代表するものではありません”って書いてある」
リリーは思わず吹き出した。
「……キールらしいわね」
ふたりの間に、小さな笑いが灯る。
それは昔と同じで、けれど歳月を経たからこそのあたたかさがあった。
風が再びカーテンを揺らし、陽射しが病室をやさしく照らしていた。
リリーが、そっと声を落とす。
「……あなたの学校の卒業生たち、もう色んなところで活躍してるわよ」
クラフトは何も言わない。ただ、口元にかすかな笑みが浮かぶ。
「キールもね。監査機関を完全に軌道に乗せたわ。」
リリーは一つ息をつくと、少しだけ遠くを見るように言った。
「私の魔導石の研究も、次の世代に託す準備ができた。……ようやく、ね」
クラフトは、ゆっくりと目を開け、そしてまたそっと閉じる。
「……そうか」
その一言には、安堵と名残の入り混じった響きがあった。
しばし沈黙が流れたのち、リリーはわずかに身を乗り出す。
「……クラフト。やっぱり、私が研究しているモンスターの血液を使った再生医療は、受けないのよね?」
クラフトは目を開け、やわらかな笑みを浮かべた。
「……ああ。気づいたんだ。最近はいつも、昔の仲間たちのことばかり思い出してる」
彼はゆっくりと視線を天井に向ける。
「……そんな俺が、“次の世界”に手を出すのは、違う気がしてな。
……もう、俺が語らなくても、
“語り合うこと”の大切さを伝えてくれる奴らが、いるからさ」
リリーは言葉を返せず、ただ小さく唇を噛む。
その指先が、膝の上でかすかに震えた。
「あなたがいなくなったら……寂しいわね」
その言葉は、まるでこぼれるように小さく、静かに落ちた。
クラフトは、しばらく黙っていた。
そしてゆっくりと首を振る。
「……でも、それは正しくない」
リリーは目を伏せたまま、わずかに頷いた。
「……そうね」
外では、どこかで鳥が鳴いていた。
季節が巡り、命が移り変わる音のようだった。
やがてリリーが、静かに言葉を紡ぐ。
「あなたの時代が終わって、私の時代も終わる。でも……それは、“誰かが新しい未来を作る”合図なのよね」
クラフトは、微笑んだ。
力強くではない。けれど確かに、優しさと希望に満ちた表情で。
「……そうだな」
そのひとことのあと、しばらく、静かな時間が流れた。
何も足さず、何も削らず、ただそこにあるだけの時間。
そして、クラフトは——
満足そうに微笑んだ。
その笑みは、どこまでも穏やかで、あたたかく、
これまで歩いてきた長い旅路に、そっと終止符を打つような笑みだった。
もう、彼は何も言わなかった。
言葉にしなければならないことは、もうどこにも残っていなかったのだ。
ただ、静かに。
クラフトは目を閉じた。
しばらくして、リリーが病室のドアをそっと開けた。
もう振り返らなかった。
言葉にしてしまえば、何かが壊れそうだったから。
廊下に出ると、光があふれていた。
目の前の窓に広がるのは、深く澄んだ青空。
雲ひとつない空に、太陽がまばゆく照りつけている。
午後の空気は暖かく、どこか祝福のような明るさを帯びていた。
それは、クラフトが生きた時代の終わりを告げる光であり、
新しい時代の真ん中に立っていることを知らせる光でもあった。
誰か一人の名前は、やがて歴史の隅に埋もれていくかもしれない。
けれど、その人が遺した意思や言葉、灯した火は——
たしかに、次の世代へと受け継がれていく。
クラフトの歩いた道を、どこかでまた、誰かが歩いている。
午後の光に包まれながら、誰かが小さな一歩を踏み出していた。
それが、彼の遺したものだとは、きっと誰も気づかないままに。
——完——
……と思われた、その直後だった。
「クラフトさん!」
病室のドアが勢いよく開き、看護師が少し息を切らしながら入ってきた。
「国際便で、大きい荷物が届いたんですけど……液体っぽくて、なんか……すごく臭くて……!」
クラフトは、ベッドの上で頭を抱えた。
「……まさか……オーガの……またか……!」
扉の隙間からもう一人の看護師が顔を出す。
「クラフトさん、お手紙も届いてます! あっ……!」
足元で、封筒が手を滑り、ばらばらと中身が床に散らばった。
「“学校の経営体系について”……」
「“教育者の育成計画の草案”……」
「“設備の減価償却について”……」
最後に、一枚だけ残った紙には、こう書かれていた。
“個人的な見解であり、組織の方針を代表するものではありません”
クラフトはベッドの枕に顔を押し付け、呻いた。
「頼む……最後ぐらい……静かにしてくれ……」
そして、窓の外の空は晴れわたり、
今日もまた、新しい一日がはじまっていた。
——ほんとの完——
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
最初は5万字くらいの短い話にするつもりだったのですが……
蓋を開けてみれば、35万字を超える物語になっていました。
とても長い物語になりました。
そして、これが私にとって初めて書いた小説でもあります。
正直、構成力の拙さでテンポが悪いと感じた方もいたかもしれません。
右往左往しながら書いたにもかかわらず、ここまで付き合ってくださったことに、心から感謝しています。
ちなみに、「なぜ自分が小説を書こうと思ったのか」については、noteにまとめています。もしご興味があれば、こちらも読んでいただけたら嬉しいです。
▶︎キャリアの裏で、僕はずっと罪悪感に潰されていた。
https://note.com/kenpo3/n/n89f0683a39e8
この物語では、あえて勧善懲悪の構図を避け、「正解のない問い」を描こうとしました。
誰が正しくて、誰が間違っているか——
そんな単純な線引きができない世界を描くことで、
少しでも何かを「考えるきっかけ」に、あるいは「誰かと対話するきっかけ」になれたら嬉しいです。
もし感想やご意見、そして批判があれば、ぜひ聞かせてください。
一方的な発信ではなく、読者の皆さんとこの物語を通じて対話できることが、何よりの嬉しいです。
……と、少し真面目な話が続いてしまったので、最後に一つだけ。
次回作では反省を活かして、
丸坊主のおっさんが異世界に転生し、キューティクルが最強の力とされる世界で、
美しいお姉さんたちに囲まれながら、爽快に敵をバッタバッタとなぎ倒す予定です。(たぶん)
こちらもよろしければ、ぜひお付き合いください。
改めて、ありがとうございました。




