知略の夜、包囲を破る策を
渓谷の戦場。クラフトが吹き飛ばされた瞬間、キールとリディアが硬直する中、ブラスだけが即座に状況判断し次の行動に移っていた。
「クラフト!!」
リディアの悲鳴が響く。
だが、それよりも早く——
「撤退するぞ!」
ブラスの思考には一切迷いがない。
クラフトが動けない。リディアとキールはまだ戦えるが、包囲されている。ラットロードは狡猾で、次の一手を見据えている。グリスラットたちはすぐに意識を取り戻し、再び襲いかかってくるだろう。
「リディア、キール、行くぞ!」
指示を出しながら、すでにブラスはクラフトの身体を抱え上げていた。
「っ……くそっ!」
キールが歯を食いしばりながら、拳を固く握る。
背後では、ラットロードが冷静にこちらを見下ろしていた。
——「こいつは俺たちを弄んでいる。時間が経てば自分達が有利になって行くことをわかってやがる」
ブラスは一瞬だけ振り返り、ラットロードと視線を交わした。
ラットロードはクラフト達を観察しながら喉を低く鳴らした。クックッ……という不快な音が響く。グリスラットたちの動きも、即座に襲いかかるわけではない。
「今のうちだ!」
ブラスは即座に決断し、草原へと向かって全力で駆け出した。
退路があるうちに逃げる。
戦況が崩れる前に仕切り直す。
——生きて戻る。今は、それしかない。
逃走の最中、月明かりに照らされた草原を、必死で駆け抜ける。
リディアが先導し、キールが殿を務める。ブラスはクラフトを抱えながらも、その巨体で衝撃を吸収し、地面を蹴るたびに土埃が舞い上がる。
そんな中——
「くそっ!」
キールが珍しく、苛立ちを露わにした。
この敗北は許されない。
モンスター相手に「知略」で負けるなど、キールにとっては屈辱だった。
だが——
「ん? なんか言ったか?」
ブラスが不意に振り向く。
その顔は、いつもの陽気さを装っているが両耳から血が流れていた。
「っ……なんでもありません」
キールは、溢れ出した感情を押し殺した。
鼓膜が破れているが、まるで何もなかったかのように振る舞うブラス。
ブラスは、代償を払ってもなお、仲間を守るために動いている。
それを見たキールは、拳を握りしめながら、そっと目を伏せた。
夜——野営地にて
渓谷から少し離れた森の中、木々の間に小さな焚き火が揺れている。
クラフトは仰向けに寝かされ、リディアがポーションを手にして彼のそばに座っていた。
「クラフト、飲める?」
クラフトはゆっくりと目を開け、痛みをこらえながら頷いた。
「……すまない、助かった」
リディアは微笑むが、その表情はどこか強張っている。
「ブラス、あなたも」
「おお、ありがとな!」
ブラスは豪快にポーションを受け取り、ゴクリと一気に飲み干す。
その瞬間、裂けた耳の傷がじわりと閉じていった。
「ふぅー……やっぱ、回復ポーションは効くな!」
だが、野営地の空気は重いままだった。
どんよりとした沈黙が漂い、焚き火のパチパチという音だけが夜の静寂の中で響いている。
キールは、無言のまま炎をじっと見つめていた。
「……モンスターに策で負けるなんて」
小さく呟いたその声は、いつもの冷静さとは違い、わずかに悔しさが滲んでいた。
クラフトもまた、腕を組み、顔を伏せたまま考え込んでいた。
(結局……また俺は、何もできなかった)
思い出すのは、オーガとの戦い。
あの時も、今回も——ブラスがいなかったら、俺たちは全滅していた。
アカデミアの首席卒業?
そんなもの、一体何の役に立った?
(俺は、仲間を守ることすらできない……)
ラットロードは、ただの「強いモンスター」ではなかった。
指揮を取り、計画的に包囲し、そして致命的な隙を演出する。
まるで、俺たちの行動を最初から読んでいたかのように。
「俺たちは……獲物にされていたんだ」
クラフトの声は、悔しさと自己嫌悪に満ちていた。
リディアは、そんなクラフトの様子をじっと見つめながら、唇を強く噛みしめる。
声をかけたかったが、何を言えばいいのか分からなかった。
結局、彼女もまた、何もできなかったのだ。
焚き火の炎だけが、ただ静かに揺れていた——。
そんな時——
「なっ!」
突然、ブラスが勢いよく立ち上がった。
「派手なスキルも、捨てたもんじゃねぇだろ!」
ニッと笑い、斧を肩に担ぐ。
「耳は痛ぇし、鼓膜もぶっ壊れたがな!」
沈んだ空気をどうにか吹き飛ばそうと、ブラスはあえていつも通りの豪快さを見せた。
「そ…そうね」
リディアも、無理に微笑む。
ぎこちない笑顔だったが——
それでも、仲間のために笑おうとした。
焚き火の炎が、揺れながら彼らの顔を照らしていた。
このままでは終われない。
必ず、奴らを倒す——。
焚き火の炎が小さく揺れる。
沈黙が支配する野営地で、誰もが思考に沈んでいた。
闇夜の中、遠くから微かに渓谷の風が鳴る音が聞こえる。
どれくらいの時間が経っただろうか。
沈黙を破ったのは、クラフトだった。
「正面からぶつかったらマズいな」
低く、だが確信を持った声だった。
「数が多すぎるし、ラットロードも頭が切れる」
言葉を受け、ブラスが腕を組んで唸る。
「強行突破したら、こっちが餌にされるだけだな」
再び沈黙。
誰もが分かっている。
真正面から挑めば、勝ち目はない。
だが、逃げるわけにもいかない。
「……長期戦で行きましょう」
キールが静かに口を開いた。
「長期戦?」クラフトが眉をひそめる。
「ちょっと待って!」リディアがすぐに反論する。
「グリスラットはすごい速さで繁殖していくんでしょ? 時間をかけてたら、こっちがやられるわ」
「確かにな」ブラスも頷く。
「ラットロードは俺たちを見逃した。あいつは時間をかければ有利になることをわかってやがる」
「だからこそ、そこを利用するんです」
キールが炎を見つめながら、冷静に続けた。
「グリスラットはラットロードの支配下では規律的に動く。それを逆手に取る」
「どういうことだ?」クラフトが問いかける。
「まず、巣穴の出入り口を確認し、食料の供給を完全に断ちます」
「つまり、兵糧攻めってことか?」ブラスが確認するように言った。
「その通りです」キールが頷く。
「さらに、巣穴の地形を利用し、水攻めを仕掛けます」
「新たな出口を掘られたら?」
クラフトが思いついた疑問を口にすると、キールはすぐに答えた。
「あの渓谷の岩盤はかなり硬い。防御のためにあそこに巣を作ったんだと思いますが、新たな出口を掘るより先に食料が尽きるでしょう」
「なるほど……。じゃあ、巣穴の出入り口を特定して封じ込めれば、奴らの動きを完全に抑えられるってことか」
クラフトが納得したように頷く。
「ちょっと待って」リディアが手を挙げる。
「でも、水責めしている穴から敵が飛び出してきたらどうするの?」
「それこそ思う壺です」キールが冷静に答える。
「出口を包囲しながら、一匹ずつ仕留められる。それに、捕縛糸を周囲に張れば、逃げ出した敵も後からトドメを刺せるでしょう」
キールの作戦に、全員が納得するように頷いた。
クラフトは焚き火を見つめながら、静かに口を開いた。
「……でも、巣穴のどこに水を流せばいい? 出口がいくつあるかもわからないのに」
クラフトの指摘に、誰もすぐに答えられなかった。
その沈黙を破ったのは——
「……だったら、調べるしかないわね」
リディアだった。
キールが少し驚いたように彼女を見つめる。
「そうですね、たしかに巣穴の構造を把握する必要がありますね」
「わかった、やろう」クラフトが即答する。
「……お前、それマジでやる気か?」ブラスが信じられないというような顔をした。
「あの数がいる巣穴だ、かなりの大規模だぞ」
「やらなきゃダメでしょ」リディアが真っ直ぐに言い切る。
「適当に水を流しても、うまくいかなかったら無駄になるだけ」
キールは彼女の言葉を聞いて、再び焚き火の炎をじっと見つめる。
——確かに、その通りだ。
巣穴の構造を正確に把握しなければ、作戦の成功はない。
だが、それを調べるには時間がかかる。
つまり、夜を徹しての調査が必要になる——。
「……」
全員が沈黙したまま、それが必要なことだと悟っていた。
そして、静かに頷き合う。
お読みいただき、ありがとうございました。
小さな物語ですが、どこかに残るものがあれば嬉しいです。
※もし続きを読みたいと思っていただけたら、評価やブクマでお知らせください。




