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季節が、また静かに巡っていた。
星が瞬いていたあの夜から、いくつかの季節が流れた。
アイノールとの対話の記憶は、もう遠くの出来事のように思える。
だが、あの対話が確かに“何か”を変えたことを、彼らは日々の中で感じ始めていた。
監査機関本部——
キールは分厚い書類の山を片手に、深く椅子に腰を沈めていた。
日々寄せられる報告、審査、提案、苦情——そして、今日もまた面接。
「次の方、どうぞ」
扉が軋む。現れたのは、いかにも寡黙そうな中年の男。無言でキールの前に座る。
「……なぜ、監査機関で働こうと?」
しばしの沈黙の後、男はぽつりと答える。
「……正義のためです」
キールは軽く眉を動かす。
「あなたの“正義”とは?」
「……おばあちゃんの荷物を持ったり、泣いてる子におやつをあげたり……そういうことです」
キールは眉間にしわを寄せ、指を組んだまま静かに問う。
「質問を変えます。あなたが“良いこと”をして、それで誰かを傷つける場合、あなたはどうしますか?」
男は即答した。
「……でも、正義だから大丈夫です」
キールは無言のまま頭を抱えた。
「……わかりました。後日、結果をご連絡します」
男が去ったあと、部屋にはしばらく沈黙が残った。
キールは手元のメモに何かを書きつけながら、ぼそりと呟いた。
「……全くダメだ。監査に向いてない。正義感だけあるが、柔軟性がない……これだから理想主義者は」
椅子にもたれ、しばし目を閉じる。
「——だが、組織にとっての“ノイズ”としては悪くない。毒にも薬にもなる……使い方次第か」
深いため息。
「……私は、こういうタイプに絡まれる運命なんですかね」
訓練場。
訓練場の一角。
石畳の上に置かれた長椅子に、場違いなほど分厚い本が広げられていた。
その本を片手に、眉間にしわを寄せているのは、ブラス。
背筋を伸ばしながら難しげに呟く。
「……なるほど、今週は水の気の巡りが強いから、運命が揺れやすい……?」
隣には巨大な斧。
しかし今の彼にとって、その武器はあくまで“読み物の合間に軽く振る程度”のものらしい。
ガチャリ、と訓練場の扉が開いた。
「やっぱりここにいたか」
バルトが現れた。かつて共に戦った相棒の登場にも、ブラスはあまり驚いた様子を見せない。
「おう、バルト。どうした?」
「ちょっとな。話があって来た」
バルトはブラスの隣に腰を下ろし、まっすぐ前を見つめたまま言う。
「新しいギルドを立ち上げようと思ってる。普通のギルドじゃ対処できない、厄介な依頼だけを専門で受けるギルドだ」
「へぇ」
「そこでだ。ブラス——もう一度、一緒に戦わないか?」
静かな沈黙。
ブラスは本を閉じ、少し目を伏せてから言った。
「……いやぁ。俺、スキル使えなくなっちまったからな。今は“占い師”になるための勉強してんだよ」
「はっ?」
バルトの声が、素で裏返った。
「今できるのはこれくらいだ」
ブラスは言うと、立ち上がり、傍らの斧を手に取る。軽く振った——その一撃は空気を裂き、すぐそばの石壁に風圧が走る。
バァン。
石壁が、見事に崩れ落ちた。
バルトは目を見開いた。
「……斧を軽く振っただけ、だよな?」
「なんか、斧が前より軽いんだよな。あの戦いで、どっか壊れたか?」
「違う!ブラス、お前……スキルの概念を超越したんだよ!肉体そのものが常識を超えたんだ!」
「え、そうか?」
急に誇らしげになるブラス。
大きな胸を張り、満足そうに腕を組む。
「なんだよ、俺……超えてたのか」
「さすがだブラス!」
バルトは笑いながら立ち上がった。
ブラスは腕を組み、しばし黙って考える——
「そうだな……占いだけじゃ退屈だしな。よし、やるか。で、名前は?」
「ギルド名か……威厳があって、強そうなやつがいいな……」
「“マッスルマジック”でよくね?」
「……マッスルマジック……いい響きだな」
こうして、ブラスとバルトによる新しいギルド《マッスルマジック》が誕生した。
その噂はすぐに広まり、レギスをはじめとした元ヴェルシュトラの精鋭たちも彼らを追って加わっていく。
かつての英雄たちは、今また別の形で“次の時代”を支える存在となっていた。
筋肉と魔導、そして若干の占術を携えながら——。
アカデミアの一室、黒板の前。
リリーがチョークを持つ手を止めた瞬間、黒板にはびっしりと数式が書き込まれていた。
数式、と呼んでいいのかさえ怪しい。
記号、図形、時々ハートマーク——
そして中央に、なぜか“空腹=可愛い√魔力”という一文が堂々と鎮座していた。
「つまりですね」
リリーはくるりと振り返り、満面の笑みで言った。
「空腹と可愛いには魔力の相関関係があるってことが、これで証明されたわけなんです!」
教室の空気が一瞬止まる。
前列に座っていた老教授が、震える手でメガネを持ち上げる。
「ま、待たんかい……リリー君、その数式は一体……」
「えっと、午前中にお腹がすいて機嫌が悪くなる子が多いっていう実験と、
甘いものを食べると笑顔になる=可愛いオーラが出る=魔力が活性化する、という現象を……」
「い、いやしかし! そもそもその理論式の左辺と右辺で、次元が……概念が……!」
老教授は頭を抱え、黒板を見上げる。だがその視線はすでに虚ろだった。
「そして、これを応用してできたのが——」
リリーがくるりと手を広げた先には、ころころと丸い揚げたてのドーナッツがベルトコンベアで次々と転がってくる小型の装置。
「その名も!《ドーナツクールくん.ver12.6》です!」
教授、絶句。
「な、なんで……プロセスも理論もめちゃくちゃじゃ……なのに、なぜ完成するんじゃ……」
唖然としながら、教授は椅子に崩れ落ちる。
「……我がアカデミアの矜持が……計算式の美が……!」
リリーはぽん、と教授の肩にドーナッツを置くと、にっこりと微笑んだ。
「でも、ちゃんと美味しいよ?」
教授は力なく項垂れたまま、甘い香りの湯気だけが教室を満たしていく。
夕刻の陽が傾き始め、街に長い影が落ちていた。
クラフトは、いつものように帳簿の整理をしていた。
魔導石の在庫数、納品先、支払い状況——数ヶ月前までは考えられなかったほど、整った流通網。
「……生産も、販売も整ったな」
その言葉には、安堵というより、次へ進む覚悟の色が濃かった。
そのときだった。木製の扉が、コツンと控えめに鳴った。
「……久しぶりだな、我が盟友よ。
この魂の工房——まさか手放すとはな。風の噂で耳にしたぞ。次なる使命へ旅立つと……!」
現れたのは、黒衣をまとった男。
頭に巻いた布、腰の装飾、黒のマント——黒炎の使徒だった。
クラフトは目を細めて、ゆっくりと立ち上がった。
「あぁ。次に……やらなきゃいけないことがあるからな」
窓の外に目をやる。
夕焼けの光が工房の机を斜めに照らし、削りかけの魔導石が柔らかく輝いていた。
黒炎の使徒は一歩だけ前に出て、胸元から小さな封筒を差し出した。
「……これを受け取ってくれ。
深淵の誓約書——いや、世俗の言葉で言えば“結婚式の招待状”だ。
我が心を共にする者と、ついに契約を結ぶ時が来たのだ……!」
クラフトの目が少し見開かれ、次の瞬間には柔らかな笑みが浮かんだ。
「そうか……おめでとう、黒炎の使徒さん」
男は数秒だけ黙った。そして、どこか吹っ切れたように言葉を紡いだ。
「……お、俺……あのしゃ、喋り方じゃないと……こ、言葉がつっかえて上手く話せなくてさ……で、でも、このへ、変な喋り方でも……ば、爆速ロバのみんなが手伝ってくれて……な、なんとか、やれてるんだ」
目線を逸らすようにして、それでも真っすぐな声で続けた。
「こんな喋り方だけど、それでも、い、良いかもって思えたんだ……そ、そう思えたのは……く、クラフト……お前のおかげだ、あ、ありがとう」
クラフトは少し目を伏せ、ゆっくりと息を吐いてから言葉を返した。
「俺もだよ。俺は不器用だからさ。……みんなの助けがなかったら、ここまで来れなかった」
優しく、まっすぐに続ける。
「初めて魔導石を受け取ってくれて、寄付までしてくれて、仲間まで集めてくれて。だから……お礼を言うのは俺のほうだ」
二人の間に、静かで心地よい沈黙が流れた。
夕日が、店内を柔らかく照らしていた。
そして、黒炎の使徒は小さく笑った。
「ユーク、だよ。……お、俺の……本当の名前。……ま、またな」
扉が静かに閉まり、再び訪れた静寂の中で。
クラフトはふと、微笑みながら呟いた。
「……ユーク、か」
その名を口にした瞬間、胸の奥に小さな火が灯るのを感じた。
言葉にできない何かが、確かにそこにあった。
クラフトは机の上に残された最後の帳簿に手を伸ばし、静かに目を閉じた。
そして、もう一度だけ、かすかに笑った。
「……行くか。“次”の場所へ」




