秩序の皮が剥がれる頃
ヴェルシュトラ本部の旗が、ようやく少し傾き始めた頃だった。
表向きにはまだ“秩序”を保っているように見えながらも、内側では静かに、しかし確実に崩れていく音がしていた。
そして、その音を、誰よりも静かに聴いていたのが——
ギルドの二階に身を置く、あの男だった。
キールは窓際の椅子に腰をかけ、手元にある報告の束を淡々と読み終えると、静かに目を閉じた。
頭の中で、記憶と照合が始まる。各地の市場で流れた噂の断片、街角で拾われた言葉、すれ違いざまに発せられた疑問。それらを、点ではなく線として繋ぎ、波として捉える。
「噂の拡散速度……三日で市街地全域。否定反応の加速、予定より五日早い。混乱の臨界点まで、あと……二日と半日といったところでしょうか」
……想定より、ずっと速い。
キールは報告書をじっと見つめる。
かつて、王都で広まった一つの流言が、市場を暴落させた記録がある。
今は“紙”がある……となれば、制御はさらに難しい。
噂、煽動、言葉の力。それらが秩序を変える時代が、再び来るのかもしれない。
「……もはや、警戒すべきはスキルより“情報”そのものか」
キールの表情に、一瞬だけ、焦燥がよぎった。
キールは立ち上がり、窓の外に目を向ける。
そこに見えるのは、まだ表面上は平静を装う街——だが、確実に揺らぎ始めている。
「そろそろ“秩序”の化けの皮が剥がれる頃ですね」
手に持った書類の端を握りしめ、キールは低く呟いた。
「……キール、どこまで計算してたの?」
リリーの声が背後から届く。警戒とも不安ともつかない色が混ざっていた。
キールは振り返らずに、肩をすくめる。
「さあ? ただの情報の流れを少し調整しただけですよ。風向きを少し変えた程度のことです」
そして、今度はリリーの方を見て——ふっと笑った。
「ただ、彼らが自分で転ぶように、道を“整えた”だけです」
その目に揺らぎはなかった。だが、どこか寂しげな冷静さもあった。
そのとき、部屋の扉が開いた。
クラフトが額の汗を拭いながら入ってきた。すぐに問い詰める様子でもなく、ただ不思議そうに考え込んでいる。
「なあ、なんか最近さ……ヴェルシュトラの悪い噂、やたら広まってるよな?」
「さあ?」
キールは涼しい顔で微笑み、窓の外を眺めた。
「噂というものは、風のように広がるものですから。誰が始めたかなんて、分からないですよ」
リリーが一瞬ぴくりと肩を跳ねさせたが、すぐに声を張って割り込んだ。
「「そっ、そうよ! きっと誰かがヴェルシュトラに恨みでもあったのよ! ……そ、それよりクラフト、新しい魔道具、試作したの! 自信作よ!」
クラフトは目を瞬かせる。
「へぇ、そうなのか。どんなのだ?」
「ほこほこエクスプレス!」
リリーは胸を張って答えると、勢いよく語り始めた。
「私ね、思ったの。お布団を干した時の、あのお日様の匂いって、最高に癒し効果あるでしょ? でね、今回はその考えを発展させたの!」
「つまりね、襲いかかってくるモンスターに、こっそりこの香りを嗅がせるの。ふわ〜って! そしたらモンスターも『あれ……おやすみの時間……?』ってなって、ちょっと油断するはずなのよ!」
クラフトはちょっと困ったように笑った。
「あっ、あぁ……なるほどな。うん、いいと思うぞ」
リリーは誇らしげに笑った。
「でしょ!? しかもね、香りを飛ばすのに風のエッセンスをベースに……って思ったんだけど、やっぱり“干し立ての暖かさ”を再現するには炎属性の力が必要で!」
そのとき、扉の奥からブラスがひょっこり顔を出した。
「……あー、あれか。大変だったな、まったく」
クラフトが目を丸くする。
「大変?」
ブラスは肩をすくめながら部屋に入ってきた。
「消火班に駆り出されてな。水かぶって冷えた身体で片づけまで手伝わされたぞ」
リリーは目を逸らし、まるで「私は壁です」とでも言いたげな表情で、小さく息を吐いた。
「そ、そんなことも……あったような……なかったような」
キールが静かに補足する。
「……大火災でしたね。水系スキル持ちを三人呼んで、消火体制を整える羽目になりました」
リリー、さらに小声になる。
「……まさかあんなことになるとは……思ってなかったんです……」
ブラスがやれやれと肩をすくめて言う。
「で、なんでか知らねぇが、俺も“連帯責任”とかで一緒に怒られたんだが?」
リリーはぷるぷると肩を震わせながら、椅子の背もたれの陰にすっと隠れようとする。
「反省しております……大変申し訳ございませんでした……」
クラフトは深くため息をつくと、呆れを込めて吐き捨てた。
「……で、また訓練場の修繕費、誰が出すんだ?」
いつも通り、ノクスの面々が例によってくだらない話題で笑っていた。
だがそのやりとりは、不思議と、温かく、愛おしかった。
馬鹿げていて、役に立たなくて、けれど、こうしたどうでもいい時間こそが——
本当に“守るべきもの”なのかもしれない。
その様子を、キールはじっと見ていた。
クラフトの背を見つめながら、キールは静かに呟いた。
「さて。あの理想主義者が、最後まで気づかないなら——それでいい」
風がひとつ、窓のすき間から吹き込んで、紙が一枚だけふわりと舞い上がった。
「彼が信じる未来が続くなら、それで……十分だ」
その言葉に、誰も返さなかった。
ただ、静かに、崩れゆくものと芽吹き始めるものの間で、新しい時代の気配が確かに混じり合っていた。
季節が、ふた巡り目に差しかかった頃。
街の風景は、少しずつ、しかし確かに変わり始めていた。
ヴェルシュトラの影響力は、静かに、しかし確実に薄れていった。
それは、崩壊ではなかった。
むしろ、ゆっくりとした“時代の転換”だった。
変化は、日常の中に溶け込むように始まった。
市場の一角で、興奮気味な男の声が響く。
「おい、またエルマーがやったぞ! スキルを組み合わせて、鉄より硬くて軽い合金を作ったんだってよ!」
「へえ、本当かよ……また魔導石の応用か?」
「らしいぞ。火加減と圧縮率をスキルで調整してんだと」
そのすぐ隣では、別の話題が飛び交っていた。
「新しくできた治療院、知ってるか? 治療費が信じられないくらい安いんだってさ。魔導石を使って、最低限の施術でも回復できるようにしたんだとか」
そして、広場では子供たちがはしゃいでいた。
「うちのお母さん、リリーの『せんたっ子』使ってる! すっごいんだから! 水とスキルで服が勝手に回ってるんだよ!」
「ゴミゴミバスターもすげぇぞ! おれの家、昨日お父さんがそれで家中のホコリ全部吸い取ってた!」
石畳の裏路地、洗濯物を干しながら腰を下ろした老婆たちが、陽だまりの中で茶をすする。
「あたしらの時代は、スキルを持ってなきゃ、ただの荷物よ」
「今じゃ魔導石ってのがあって、年寄りでもちょっとは“役に立てる”気がするねぇ」
「立派じゃなくていい。ただ、見捨てられずに済むってだけで、ありがたい話さね」
そんな声が、街のあちこちで聞こえるようになった。
かつて「スキルは選ばれた者の所有物」であり、「個人の能力」で競うものだった。
だが今、それは「誰でも使える道具」へと、その姿を変えようとしていた。
「スキルを持つ者」だけが優位に立つ時代は、静かに、しかし確かに終わろうとしていた。
だが、ヴェルシュトラは最後まで抗い続けた。
価格を下げ、契約条件を緩和し、支持者を繋ぎとめるために必死だった。
だがそれは、堰を切った川を逆流させようとするようなものだった。
スキルレンタルという“新しい時代の波”は、容赦なく旧来の仕組みを飲み込んでいく。
もはやスキルは、“特別な者だけのもの”ではなかった。
努力と資本の競争から、創造と発明の競争へ——
それこそが、時代の本質的な転換だった。
そしてヴェルシュトラは、その変化に追いつけなかった。
彼らは、時代に取り残されたのだ。
けれど、この動きが本当に「新たな時代の幕開け」となるのか。
それとも、熱に浮かされた一時の流行に過ぎないのか——
それを見極めるべく、ひとりの男が静かに歩みを進めていた。
黒の上着に身を包んだその人物は、群衆に紛れることもなく、ただまっすぐに、ある場所へ向かっていた。
アイノール。
その眼差しは、かつて国家すら黙らせた鋭さを湛えたまま。
だが、そこにあったのは怒りではなかった。
彼は確かめに来たのだ。
この時代の先に立つ者が、本当に“任せられる存在”なのかどうかを。
最後に、時代の担い手としての資質を見極めるために。




