秩序の創造者と、その異物
ヴェルシュトラの重厚な正門をくぐり抜けた瞬間だった。
クラフト、リリー、キールの三人を前にして、守衛たちは一斉に直立し——まるで、彼らの到着を待っていたかのように——静かに道を開いた。
その異様な光景に、リリーは思わず小声を漏らした。
「……なんで……?」
キールもわずかに眉をひそめた。
「本来なら、警備を強化していてもおかしくないはずだ。まるで、歓迎でもするような……」
だが、クラフトは無言だった。
動揺する二人とは対照的に、彼は一切立ち止まらず、まっすぐ本部の奥へと歩を進めていた。
まるで、これが当然だとでも言わんばかりに。
石造りの廊下を抜け、案内もなく執務棟の階段を登る。
階段の途中で、リリーが声をかけた。
「クラフト……本当に、大丈夫?」
クラフトは答えなかった。ただ一度だけ、彼女の方へと目を向ける。
その瞳に、迷いはなかった。
執務室の前に立つと、守衛が無言で頭を下げた。
そして、扉をゆっくりと開く。
中には、すでに一人の男がいた。
黒衣をまとい、書類にも目をやらず、深い椅子に座ったまま、まっすぐクラフトたちを見つめている。
——ギルド長アイノールだった。
すでにすべてを知っていたかのような、静かで確信に満ちた眼差し。
執務室には緊張の空気が張り詰め、風も音も、そこには存在しないかのようだった。
重厚な執務室の扉が、ゆっくりと閉まりきる前に。
その奥から響いたのは、静かで重い声だった。
「クラフト。お前だけ、通れ」
アイノールは席を立たず、ただ椅子から冷たく告げた。
リリーの顔が引きつる。
「……どういうこと?」
怒りを抑えきれない声だった。
アイノールはその問いに目もくれず、冷徹な声で言い放つ。
「有象無象には興味はない」
キールの目が細められる。その瞳の奥にあるのは、怒りでも憎しみでもなく、研ぎ澄まされた冷笑だった。
「……それは光栄ですね。さすが、“人の命を食って” 無駄に長生きしてるだけのことはあります」
リリーが一歩前に出る。怒りに震える声で、必死に言葉を吐き出した。
「私たちは、有象無象じゃない……!」
だが、それを制するように、クラフトが手を伸ばした。
「リリー」
その声は静かで、けれど強かった。
リリーはその目を見た。そこに浮かぶ覚悟と、揺るがぬ意志を感じ取る。
やがて、悔しそうに唇を噛み、俯いたまま言った。
「……分かった」
キールはしばらく沈黙していたが、ふっと肩をすくめ、目を伏せて笑った。
「……英雄になる気はないのに、こんな時だけ英雄みたいな真似をする。……らしくないですよ」
小声で、しかし確かに続ける。
「……戻ってきてください。“有象無象”が、心配してるんですから」
リリーの肩が、かすかに震えていた。
クラフトは一歩前へ進み、執務室の奥へと足を踏み出す。
その背中越しに、低く応じた。
「俺は英雄じゃない。でも……ここまで歩いてきた以上、逃げるわけにはいかない」
扉が静かに閉じる音が、空気を切り裂くように響いた。
クラフトが一歩、執務室の奥へと足を踏み入れると、背後で重い扉が低く響きながら閉ざされた。
その音が、世界の雑音すべてを遮断したかのように、部屋の中は静まり返る。
広い執務室の中央。重厚な椅子に腰かけた男が、静かに背を向けていた。
かつて「英雄」と呼ばれたその後ろ姿。
だが今、その背中から感じるのは——威光ではなく、圧倒的な“支配”だった。
胸の奥がざわついた。何かが軋むように、ゆっくりと熱を帯びていく。
アイノールが静かに口を開く。
「さて、話そうか。クラフト」
その穏やかな声に返すように、クラフトは懐から書類の束を取り出し、無造作に机へと叩きつけた。
ばさり、と音を立てて散らばった紙片。その中の一枚が滑り、アイノールの前にぴたりと収まる。
そこには、リディアの署名。そして、「寿命吸収」の条項。アイノールの名が、最後に刻まれていた。
クラフトは怒りを噛み殺すように叫んだ。
「お前の作った秩序の仕組みは、こんなものだったのか!!」
アイノールは眉ひとつ動かさず、書類に目を落とす。
「……ほう。これは懐かしい書類だ」
その無感動な口調に、クラフトの怒りがさらに燃え上がる。
「お前の支配がどれほどの人間を苦しめたか、分かってるのか!? リディアは……! 他の連中は……! 残された人たちは……!」
アイノールは静かに頷いた。
「分かっている」
その一言に、クラフトの怒声が爆ぜる。
「分かっていたのに、なぜ……!?」
拳を握りしめたまま、歯を食いしばる。ブラスの死、リディアの犠牲、すべての重さがのしかかる。
「お前は……間接的にリディアを殺したんだぞ……!」
アイノールはわずかにまぶたを伏せ、静かに答えた。
「……その通りだな」
「……お前は、これで満足なのか?」
アイノールは書類をじっと見つめ、やがて目を閉じた。
そして、口を開いた。
「クラフト。お前は“革命”を憎んでいるな」
その言葉に、クラフトは眉を寄せる。
「……は?」
「革命とは、秩序の破壊だ。破壊の先にあるのは、混乱だ」
「貴族制を倒し、社会を維持するために、私は“秩序”を作らなければならなかった」
「だから……スキルを売買する社会を?」
「そうだ」
アイノールは椅子に身を預けながら、静かに続ける。
「スキルを資本とし、意志の強さで未来を勝ち取れる世界。それが“希望”だと私は思った」
「だがその意志を持たぬ者が淘汰されるのも、また必然」
クラフトは口を結び、拳をさらに握り締めた。
「それが……お前の言い訳か?」
「私は、強い意志を持ち、この世界を前へと進める人間を育てたかった」
「お前のようにな、クラフト」
クラフトは一瞬、言葉を失った。
「……!?」
アイノールは、初めてその目をまっすぐにクラフトへと向けた。
「お前は今、ここに立っている。この社会がなければ、お前のような人間は生まれなかった」
「私は、お前のような“異物”を生むために、この世界を創ったんだよ」
アイノールは、ゆっくりと机に肘をつき、クラフトを見据えた。
その目には、かつて“革命家”だった男の残り火が、まだかすかに灯っている。
「クラフト、お前はこの時代を変える覚悟があるのか?」
「自らが英雄となり、犠牲を厭わず、新たな時代を築く意志の力があるのか?」
問われるや、クラフトは即座に応じた。
「俺は、英雄にはならない
あんたのやり方じゃ、変えられなかった場所に、俺は立つ」
「……俺たち“みんな”で、この社会を変えていくんだ」
クラフトの拳が微かに震えた。
怒りはまだ胸の奥でくすぶっていた。だが、それを無理に押し殺しながら、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「……俺も、昔は——」
「お前みたいな人間になりたかった」
その一言に、アイノールの目がわずかに細められる。
クラフトの声は、低く、しかし確かだった。
「でも……俺は、あんたが創ったこの世界の“現実”を見たんだ」
そこで、言葉が震えた。
拳を握る。爪が手のひらに食い込む。
「“意志が強い”だけじゃ、どうにもならない現実を!」
「リディアも、ブラスも、戦った。でも……結果は……!」
アイノールは短く答える。
「それが、現実だ」
その言葉に、クラフトの瞳が揺れる。だが、視線は逸らさなかった。
「お前は急激な革命はダメだと言った。俺もそう思う」
「だったら……俺は、少しずつで良い
みんなと社会を変えることで革命を起こす」
沈黙が落ちる。
その答えに、アイノールは薄く笑う。
アイノールは机の上に視線を落としたまま、わずかに口角を動かす。
それは嘲りでも、笑みでもなかった。ただ、何かを諦める時の、人間的な動作に過ぎなかった。
「……話にならん。もう少し気概があるかと思ったが、ただの子供の夢想か」
その声には、確かに微かな悲しみがあった。長い年月の中で幾度も裏切られた“期待”が、静かに沈殿していた。
クラフトは一歩、前へと進んだ。
「なら、俺を試してみろよ」
その言葉に、アイノールの指がぴくりと動いた。
空気が変わった。




