金貨の償い
街全体を覆っていた喧騒が、ようやく幾分落ち着きを取り戻しつつある頃。だが、空気はまだ重かった。戦後の混乱の余韻が、冷たい日差しの中にじっとりと残っている。
「チッ……やはり術式は破られたか。……さすが、アイノール様だ」
小さく舌打ちしながらも、ハイネセンの顔には焦りの色はなかった。
「……だが、まぁ及第点だな」
笑みを浮かべ、肩をすくめる。
「“身代わり”がそのまま罪を背負って死んでくれれば、もっと良かったが……。贅沢は言えんか」
曲がり角に差しかかると、ハイネセンは大通りの方向に視線をやり、すぐに顔をしかめた。
「……大通りはまずいな。混雑してるだろうし、目立つ。少し遠回りになるが、こっちだな」
そう呟いて足を止めることなく、脇道に身を滑り込ませる。
「……匂うな、クズどもの匂いだ」
ゴミにまみれた路地に鼻をひくつかせながらも、その足取りは軽い。むしろ愉快そうですらあった。
「さて、どの国に行こうか。こういう時のためにパイプはいくつも用意してある。さすがに、“あの方”にもここまでの事態は読めまい」
そしてふいに、思い出したように笑った。
「……それに、寿命吸収。あれは実にいい。儲かる。とにかく、儲かる!!!」
「死を仕組みに組み込む……まさに芸術だよ、あれは」
黒く歪んだ満面の笑みを浮かべたそのとき——
路地の突き当たりに差し掛かった。
「ふむ、こっちではないか——」
言い終わる前だった。
ゴシャッ。
鈍い衝撃が、後頭部を襲った。
瞬間、視界が揺れ、何かが砕けるような音——ガラスが割れたような乾いた音が、耳の奥に響いた。
ハイネセンの足元が、音もなく崩れた。
陽が少し傾き始めた裏路地。瓦礫と煤にまみれたその場所で、ハイネセンは突如として後頭部に鈍い衝撃を受け、崩れるように地面に倒れた。
「……ッ、なんだ……?」
ふらつく意識の中、ハイネセンは這うようにして身を起こし、振り返る。
そこには、伸びきった髭にやつれた顔、小汚い外套をまとった一人の男が立っていた。男の手には割れた酒瓶が握られ、虚ろな瞳がハイネセンを見下ろしている。その目は、どこか現実ではないものを見ているかのようだった。
ギシ……ギシ……
男は、無言のままゆっくりと一歩ずつ歩み寄ってくる。
「だ、誰だ!? 貴様……! 私に何の恨みがあって……!」
ハイネセンは後ずさる。しかしすぐ背中に硬い感触。突き当たりの壁だった。これ以上は逃げられない。
男はさらに一歩、また一歩と近づいてくる。
その顔を見て、ハイネセンは青ざめた。
「……ノイン……?」
かつて自らが専売契約の責任をすべて押しつけ、ヴェルシュトラから追放した男の名が、口をついて漏れた。
「や、やあ……ノイン君じゃないか。元気そうで……よかったよ」
笑顔を取り繕うが、声は震えていた。ノインの目は変わらない。虚ろで、遠くを見ているようで、しかし確かにハイネセンだけを捉えている。
「どうしたのかな、こんなところで……」
咄嗟にハイネセンは金貨の袋を取り出し、ノインの足元に投げつけた。
「これで……な? もう、忘れようじゃないか。君も、大変だっただろう?」
「いや、元気なようでよかったよ! 君ほどの男が、あんな理不尽な目に遭うなんて……私もあの時は、本当に、胸が痛んだよ」
「でもね? あれは上層部の判断だったんだ。私は、むしろ君を庇おうと——いや、信じてた。本当だとも!」
「ほら、それを受け取ってくれ。償いだよ。君には、ちゃんと報いたいと思っていたんだ。ずっと、ずっとな……」
ノインは無言で金貨の袋を拾い上げた。
ハイネセンは安堵の息を漏らし、再び口を開く。
「そうそう、それでいい。これからまた……」
——ガスッ。
金貨の袋が、容赦なくハイネセンの顔面に振り下ろされた。
「が……っ!? な、なんで……っ」
そして再び振り下ろす。
「金だ……ど……どうして?……」
何度も、何度も、無言で、機械的に。
ハイネセンの顔は見る影もなく崩れ、やがて完全に動かなくなった。
それでもノインは、動きを止めなかった。
崩れた身体から、すでに血の気が引いていく。
やがて、ノインは金貨の袋をぽとりと落とすと、ふらふらとその場を立ち去った。
歩き方は酔漢のようでありながら、不思議なほど静かだった。
——そして、ただひとつの思念だけが、死にゆく脳裏に微かに浮かんでいた。
「人間ってのは、ほんとに……効率悪いな」
それは言葉にならず、ただ沈んでいった。
命が途切れたあともなお、最後まで“理解”ではなく“計算”で世界を見ていた者の、あまりにも冷たい終わりだった。




