友がくれた終わりなき命
「スキル市場を管理し、社会を安定させる。……それが、最初の目的だった」
オラクスは静かに言った。
「だが、やがてヴェルシュトラは、“管理するための支配機構”になった」
クラフトは唇を噛み締める。
「お前は……止めなかったのか?」
オラクスは、わずかに目を伏せた。
「止められるわけがないさ」
「ヴェルシュトラができたとき、俺はアイツに言ったんだ」
「“俺の役目はここまでだ。これから先、お前がどうするかはもう知らない”ってな」
かすかに、肩をすくめる。
「もうな、残りの寿命も、長くはなかったんだ」
「だから俺は……ただ、ひっそりと生きることにした」
「情報屋なんて、適当な肩書きで……人知れず、余生を過ごそうと思っただけさ」
オラクスは、かすかな笑みを浮かべた。
「世界を変える気なんて、もう、とうに捨ててたよ」
その言葉には、哀しみでも後悔でもない。
ただ、どこか優しい諦念だけが宿っていた。
クラフトは、腕を組んだまま難しい顔をしていた。
「……寿命を共有したっていうのは、分かったよ」
「でも……それだったら、辻褄が合わない」
キールも鋭く続ける。
「共有しただけなら、今ごろアイノールも……あなたも、もう死んでいるはずだ」
リリーが不安げにオラクスを見つめた。
オラクスは、苦く笑った。
「その通りさ」
「そこからだよ。すべてがおかしくなり始めたのは」
静かに、彼は話し始めた。
「……アイツが寿命が尽きると悟ったのは、革命が終わって十年、ようやく安定の兆しが見え始めた頃だった」
「もし、あのときアイツが死ねば、せっかく作った秩序もすぐに崩れる。世界はまた、力と暴力に支配される」
「だから——アイツは、死刑囚たちから寿命を吸い取り始めた」
リリーが小さく息を呑む。
オラクスは目を伏せ、重い声で続けた。
「最初は、ほんのわずかだけだった。本当に、必要最低限だけ。……それでも、俺は分かった」
「アイツの中で、なにかが決定的に壊れたんだと」
クラフトは眉をひそめた。
「死刑囚の寿命を吸い、社会を延命する」
その時、オラクスはふと、苦笑した。
「……俺はな。革命が終わったとき、もう全部終わったと思ったんだよ」
「仲間はたくさん死んだ。勝ったはずなのに、誰も心から笑ってなかった」
「だから、あとは静かに、時代を見守るだけだと……」
「残りわずかな自分の寿命も、アイツと分け合って、終わるはずだった」
「何も変わらなくても、せめて、時代の最後を見届けられればそれでいい……そう思ってた」
クラフトは、ぐっと喉を鳴らした。
オラクスは、ゆっくりと首を振る。
「でもな」
「アイツが寿命吸収を始めたとき……共有していた俺にも、その寿命が流れ込んできたんだ」
静かな吐息。
「……終わらない寿命を押し付けられた」
「何十年生きるのかも分からない。何百年生きるのかも分からない」
「俺は、もう死ねない存在になった」
リリーが顔をこわばらせる。
オラクスの声は、かすかに震えていた。
「アイツが……アイツがそんなことをするなんて、思ってなかった」
「友だったんだ。革命を共に起こした、たった一人の、心から信じた相棒だったんだ」
「そのアイツが、自分の手で、俺に“終わりを与えない”選択をした」
「……あれほど、悲しかったことはない」
「それでも——あいつを恨む気にはなれなかった。」
オラクスは、目を細めた。
「最初は……寿命吸収は本当に、最後の手段だったはずなんだ」
「ヴェルシュトラを維持するためだけに。誰にも知られずに、ほんの少しだけ時間を稼ぐために」
だが、とオラクスは顔を上げた。
「……だが、社会が安定するにつれて、死刑囚も減った
そこに付け込んだのが、ハイネセンだった」
キールの眉がぴくりと動く。
「ハイネセン……」
「そう」
オラクスは頷いた。
「アイツは、ヴェルシュトラに入った時から狙っていたんだ」
「制度の隙間を突き、寿命の取引を仕組みに組み込む」
「寿命を担保にロフタの町の魔契約システム——それを作ったのは、ハイネセンだ」
「表向きは“救済のため”って顔をしてな」
キールが、低く唸った。
「……つまり、ロフタの町で起きていたことは……」
「ヴェルシュトラの正式なシステムになっていた」
「それでも、止められなかった。止めるための仕組みなんて、最初から用意されてなかったんだ」
「アイツも、もはや“選択”なんてできなかった」
「生き延びるために、ただ静かに、他人の命を吸い続けるしかなかった」
静寂が、場を包んだ。
焦げた市場跡を吹き抜ける冷たい風だけが、乾いた音を立てていた。
リリーが顔を伏せ、拳を握りしめる。
クラフトも、口を固く結び、黙ったままオラクスを見つめた。
オラクスは、ふっと、かすかに肩をすくめた。
「……そして五年前。ロフタの町で、それに気づいたバカが一人、立ち上がった」
「——ブラスだ」
クラフトが、目を見開く。
「アイツは気づいた。寿命の取引の裏側に、アイノールがいることに」
「だが、口外禁止のスキルをかけられた。何も言えず、何もできず」
「それでも、最初は必死に抗った。変えようと、足掻いた」
オラクスは、遠い目をして呟いた。
「……でもな。アイツ一人じゃ、どうにもならなかった」
「そして、諦めたんだ」
「ヴェルシュトラを、離れるしかなかった」
重い沈黙が、場を包んだ。
リリーの声は、震えていた。
「じゃ……じゃあ、お姉ちゃんは……自殺じゃなくて……」
言い終える前に、唇がわななく。瞳が潤み、だがそれでも言葉を絞り出した。
「……寿命を、取られた……ってことなの?」
オラクスは目を伏せ、静かに頷いた。
「……あぁ。おそらく、根こそぎ持っていかれたんだろう」
その声に、怒りも戸惑いもなかった。ただ、長く現実を見つめてきた者の、乾いた確信があった。
「普通は、あそこまで寿命を吸わない。契約直後に人が死ねば、不自然だ。ロフタの町の運営に支障が出る」
「……でも、あのときは違った」
そう言って、オラクスはふと目線を落とす。ゆっくりと、リリーの足元に視線を送った。
リリーは、一瞬理解が追いつかなかった。
だが、次の瞬間——彼女の瞳が見開かれる。
「まさか……」
リディアが、自分の足の治療のために寿命を差し出した。
そう——ほとんど、すべてを。
その事実が、鋭利な刃のように胸を刺した。
涙はこぼれない。ただ、胸の奥が張り裂けそうに痛んだ。だが、リリーは堪えた。ぎゅっと唇を結び、嗚咽を飲み込む。
クラフトが、低く、静かに言った。
「……もういい。オラクス、わかった」
低く抑えられた声には、その奥底には激しい激情が渦巻いていた。拳を握りしめるその手には、怒りと無力さが滲んでいる。
キールも、黙って歯を食いしばっていた。
「……お姉ちゃんが……私の未来を、命で買ってくれた……」
リリーは、ようやくその事実を抱きしめた。血のように重く、でも……もう、目をそらせなかった。
言葉など、もはや無意味だった。
部屋の空気が、重く沈んでいた。
リディアという存在が、ただ優しかったわけじゃない。
彼女は、あらゆる痛みと引き換えに、自分のすべてを差し出していた。
——リリーの、未来ために。
クラフトの手には、一枚の書類が握られていた。
それは、オラクスから密かに渡されたものだった。
かつてリディアの死後に見つけた契約書とは別物——
そこには、彼女の寿命が“魔契約”によって根こそぎ奪われた事実が、はっきりと記されていた。
クラフトは、視線を落としたまま、低く呟く。
「……ヴェルシュトラに行く」
その一言に、空気が張り詰めた。
キールが素早く反応する。
「クラフト、あなたの立場を考えてください。今ヴェルシュトラに乗り込めば、革命の関係者として捕まります!」
その声には、焦燥と理性の両方が込められていた。
リリーも、声を震わせて言葉を重ねる。
「そうよ……! バカなこと言わないで……!」
クラフトは、二人の視線を黙って受け止めるだけだった。
その沈黙を破ったのは、オラクスだった。
彼は相変わらず、つかみどころのない笑みを浮かべながら言った。
「大丈夫だと思うよぉ、今の君たちならねぇ」
リリーが目を丸くする。
「……どういうこと?」
オラクスはわずかに遠くを見るような目をして、肩をすくめる。
「世界の流れが変わり始めてる。そういう時ってね、常識とか制度とか、すぐにガタガタになるもんさ。行けば分かるよ、きっとねぇ」
キールはこめかみに手を当て、溜め息をついた。
「……オラクスの“分かる”は、いつだって信用できない」
それでも、クラフトは一歩も引かなかった。
真っ直ぐに前を見据え、静かに頷く。
「それでも行く」
その瞳には、もはや迷いはなかった。




