継がれた意志
瓦礫と血の匂いに満ちた路地裏。
焼け落ちた市場の向こう、治療院の外で、クラフトとキールは並んで立っていた。
朝の冷たい風が吹き抜けるたびに、焦げた木材と乾いた土埃の匂いが鼻を刺す。
遠くでは、行き場を失った民たちが道端にうずくまり、うなだれていた。
傍らには、リリーがただ一人、ブラスの亡骸の前に膝をつき、動かないでいた。
クラフトは、拳を握りしめたまま、静かに呟いた。
「……結局、こうなったな」
キールは、わずかに肩をすくめた。
「ええ……」
短い返事だったが、その声には、深い疲労と悔しさが滲んでいた。
クラフトは続ける。
「俺は……間違っていたのか?」
キールは、少しだけ顔を上げ、夜明け前の曇った空を見上げた。
そして、ゆっくりと言った。
「違いますよ。あなた一人が間違ったわけじゃない」
クラフトは眉をひそめる。
キールは、ため息混じりに続けた。
「理想だけじゃ、救えなかった。合理性だけでも、救えなかった。」
「私たちは、どちらも信じて……どちらにも裏切られた」
クラフトは、拳をさらに固く握りしめる。
キールはふっと、かすかに笑った。
「それでも……私は、あなたに……世界に、まだ希望が残ってるかもしれないって、そう思うんです」
クラフトは目を見開き、キールを見つめた。
その視線には、怒りも悲しみもなかった。
クラフトとキールは、立ち尽くしたまま、しばらく何も言葉を交わせずにいた。
やがて、キールが静かに口を開く。
「……私は、合理だけを信じ失敗した。あのヴェルシュトラで、それしか社会を変えられないと思った」
クラフトは、かすかに眉を動かす。
「お前がそんなことを言うとはな」
キールは、苦笑するように肩をすくめた。
「ヴェルシュトラにいれば、嫌でも思い知らされますからね」
クラフトはふっと息を吐き、前を向いたままぽつりと言う。
「……お前も、苦労したんだな」
二人の間に、再び沈黙が落ちた。
瓦礫の隙間から、焦げた木片が風に転がる。
ふと、キールが小さく息を吐いた。
「……社会とか言いながら、ただ孤児院の子供たちを救いたかっただけなんです」
クラフトは、静かにキールを見た。
「……そうか」
キールは続ける。
「……前に報酬の話をしたとき、覚えてますか?実は孤児院に回してたんですよ。」
「院長は本当に経営が下手で、苦しいのにどんどん子供たちを拾っていく」
「自分でも、分かりませんでした。なんでこんなことしてるのか……馬鹿みたいでしょう?」
キールは、自嘲気味に笑った。
しかし、クラフトは顔をしかめることも、呆れることもなかった。
握りしめていた拳を、知らぬ間にほどいていた。
不思議そうに、けれど否定せず、キールを見つめた。
「いや、お前らしいと思っただけだけど」
ぽつりと、何のてらいもない、いつものクラフトの声。
「だってお前、口は悪いけど昔っからずっと……優しかったし」
キールは、不意を突かれたように言葉を失った。
そして、静かに——ほんの少しだけ、目を伏せた。
──昔、孤児院の前でリディアに言われたことがある。
『あなたらしくないけど、あなたらしいね』
そう笑った彼女の顔を、今でも覚えている。
あのときも、どうしてそんなことを言えるのか分からなかった。
矛盾している自分を、どうして許すように笑えたのか。
それでも、リディアは笑った。
そして今、クラフトも、同じことを言った。
……なんなんですか。
合理的でもないし、論理にも合わない。
こんなこと、説明なんかできるはずがないのに。
なのに。
近くにいたはずの二人──リディアとクラフトは、何も言わずに、それを受け止めていた。
否定も、分析もせずに。
真逆の価値観を持つクラフトでさえ、だ。
キールは、ふっと息を吐いた。
諦めたように、あるいは、初めて肩の力を抜いたように。
皮肉だな、とキールは思った。
ずっと探していたものは、初めから、すぐそばにあったのだと。
キールは、ふっと細く息を吐いた。
「……そうですか」
目を伏せたまま、小さな声で続ける。
「なら、せめて……次は、ちゃんと、救えるようにしたいですね」
その言葉を聞いたクラフトは、拳を強く握りしめた。
まだ終わっていない。
ブラスが命を懸けたこの場所で、立ち止まるわけにはいかない。
「——俺たちがやるべきことは、もう決まってる」
小さく、しかし力強く呟いた。
クラフトは瓦礫の向こう、かすかに差し始めた朝の光を見上げる。
「もう一度だ。……ブラスが見たかった世界を、俺たちの手で」
キールはわずかに目を細め、そして、静かに頷いた。
「ええ。合理性も、理想も、両方抱えて、です」
二人の影が、ゆっくりと並ぶ。
荒れ果てた街の中、瓦礫と焦げ跡の向こう側で——
クラフトとキールは、たしかに同じ未来を見据え始めていた。
安置所、リリーは、ブラスの亡骸の前にしゃがみ込んだまま、動かなかった。
両手は膝の上で震えていた。
指の間からは、乾いた血と涙の跡が見える。
リリーは、ゆっくりと腰の小さなナイフに手を伸ばした。
その動きに、誰もが息を呑んだ。
細い刃が月明かりに鈍く光る。
(……もう、いいよね)
リリーの目は、静かだった。
涙はもう、流れていない。
ただ、夜の底に沈むように、静かだった。
彼女は、ナイフを逆手に持つ。
その刃先を、自分の喉元へ——ではなく。
静かに、髪へと向けた。
リリーは、肩にかかる長い髪を束ねると、ためらいなく刃を入れた。
シャリッ——
乾いた音が、夜に響く。
髪が、ざらりと地面に落ちた。
リディアに似せるように伸ばしていた長い髪。
あの日、憧れだった姉の面影。
それを、リリーは自らの手で断ち切った。
(——もう、私は誰の代わりでもない)
(私は……私の道を行く)
手に握った短い刃を見つめ、リリーは深く息を吐いた。
そして、立ち上がった。
目は真っ赤に腫れ、涙で滲んでいる。
けれど、その背筋はまっすぐだった。
治療院の扉を、勢いよく開く。
「——クラフト、キール!」
リリーは叫んだ。
声に震えはなかった。
「オラクスのところ、行くわよ!」
朝焼けが、肩までの短い髪を照らしていた。
リリーはもう、姉の影の中にはいなかった。
——ただ、リリー自身として、歩き始めていた。
クラフトは、一瞬だけ目を見開いた。
そして、静かに、深く頷いた。
キールは、ふっと小さく笑った。
理屈じゃない。そんなものじゃない。
だが、それで十分だった。




