赤黒き誓い
瓦礫と血の匂いに満ちた路地裏。
クラフトたちは必死にブラスを運び込んだ。
彼の体は重く、そして驚くほど冷たかった。
地面に横たえたとき、誰もが息を呑む。
ブラスの腹には、盾ごと貫通した深い傷。
止まるはずもない出血が、赤黒い池を作り始めていた。
「ブラス!! しっかりしろ、ブラス!!」
クラフトが叫び、ポーションの瓶を取り出して無理やり飲ませた。
しかし——
傷口は、ひとつも癒えない。
クラフトの手が震えた。
「なんでだよ……!! なんで治らないんだよ……!!」
瓦礫を掻き分けるようにして、ポーションの瓶を探す。
祈るように、ただ一心に。
だが、キールが冷静に声を上げた。
「オーガの血です! ブラスさんなら、持っているはずです!」
クラフトはすぐに、ブラスの腰に縛り付けられていた小瓶を見つけた。
震える手でそれを取り、傷口に注ぐ。
しばらくして——
どろりとした赤い液体に、出血が収まっていく。
それでも、傷が塞がる気配はなかった。
(くそ……これ以上、何もできねぇのか……!?)
焦りと絶望が胸を締めつけた、そのとき。
「……よぉ……クラフト、キール、リリー……」
かすかな声が聞こえた。
クラフトたちが顔を上げると、
そこには、力なく、それでも微笑もうとするブラスの顔があった。
リリーは泣きながら、必死に言葉を紡いだ。
「ブラス!! ブラス!! 私……まだ、まだ……ブラスに教えてもらってないこと、たくさん……たくさんあるんだから……!!」
その声に、ブラスはかすかに苦笑した。
「バカヤロウ……リリー……もう、お前は十分強いよ」
掠れる声だった。
けれど、確かに、あたたかかった。
「本当に、強くなった。……あとは、お前だけの道を見つけるだけだ」
リリーは嗚咽を堪えきれず、ただ何度も首を振った。
そんなリリーを見つめながら、ブラスはクラフトへと顔を向ける。
「悪いな、クラフト……魔導石、あんなことに使っちまってよ……」
クラフトは、怒鳴るように叫んだ。
「あぁ!!! 本当にそうだ馬鹿野郎!!!」
拳を握り締め、叫び、そして笑った。
「だからこの後の酒代は全部お前がもて!!! じゃなきゃ許さねぇ!!!」
ブラスも、苦しそうに、それでも心からの笑みを浮かべた。
「……ああ、任せとけ」
次に、ブラスはキールへと視線を移した。
「キール……クラフトとリリーを頼む。冷静に、全体を見渡せるお前の目が……こいつらには、必要だ」
キールはその言葉に、歯を食いしばった。
「ふざけるな……! それは、あなたの役目だろ……!」
震える声で、押し殺すように言った。
だがブラスは、優しく、まるですべてを受け入れたような目で、ただ、笑っていた。
ブラスの呼吸は、今にも途切れそうだった。
クラフトとキールが必死に血を止めようとする。
リリーは震える手で、何度もオーガの血を小瓶から飲ませようとする。
だが——
(……違う)
ブラスは、うっすらと開いた瞳で思った。
(……まだだ。まだ、やることが……ある)
ブラスは、血の気が引く指先を震わせ、かすかに唇を開いた。
その瞬間——
内臓がひきちぎられるような激痛が走る。
「……ッが……!」
喉の奥から嗚咽とも絶叫ともつかない音が漏れた。
舌が痺れ、呼吸が奪われる。
まるで——見えない鎖で、魂ごと締め上げられるようだった。
口外禁止スキル。
それはただ言葉を封じるものではない。
真実に近づくたび、思考を崩壊させる。
理性を断ち切り、意志を砕こうとする呪い。
頭の中で警鐘が鳴る。
「話すな」「忘れろ」「従え」と——何百もの声が一斉に押し寄せてくる。
血管が膨張し、皮膚の下で爆ぜそうになる。
それでも、ブラスは——
(黙って……たまるかよ……)
奥歯を砕かんばかりに噛み締め、口内にあふれる血を無視して——
「……ロフタの街の……魔契約……!!」
叫んだ。
それは悲鳴に近いかすれ声だったが、確かに届いた。
クラフトの瞳が、激しく見開かれる。
次の瞬間、第二波の苦痛が脳を襲う。
(クソが……もう一回だけ……!)
両目から血の涙がにじみはじめる。
息をするたび、肺が焼ける。
「……アイノール……!!」
体の奥底が灼けるように熱い。
神経が一本一本、千切れていく。
だが——ブラスの瞳は、なおも揺らがなかった。
「……寿命……」
血と痛みに染まった声。
それはもはや、命の最後の残響だった。
リリーが泣きながら手を握る。
ブラスは、かすかな笑みを浮かべた。
そして、最後に——
「……あとは……オラクスに……聞け……そして……決めろ……」
その言葉を残し、ブラスは再び意識を失った。
「ブラス!!!」
クラフトが叫んだ。
「治療院だ!! 運ぶぞ!!!」
リリーは泣きながら、オーガの血を何度も、何度も小瓶から飲ませ続けた。
キールは肩を貸し、クラフトと共にブラスを支えながら走り出す。
——その時、ブラスの意識の底で、静かに言葉が響いていた。
(……本当に、楽しかった)
(初めは……なんとなくで、助けただけだった)
(でも……こいつらが、どんどん成長していって……)
(気づいたら……自然に、笑えるようになってたんだ)
(……不思議だよな)
(こいつらといると……まだ、冒険者として駆け出したあの時に……戻れた気がしたんだ)
(……本当に……ありがとうな)
——そして、ブラスは深い眠りへと落ちていった。
治療院の扉を、クラフトが勢いよく蹴り開けた。
「先生!! こいつを!! ブラスを助けてくれ!!」
老齢の治療士が、静かに顔を上げる。
深い皺に刻まれた瞳は、冷静だった。
クラフトたちは必死にブラスを担ぎ込む。
リリーは泣きながら、震える手でオーガの血の瓶を押し当てる。
「お願いだ!! ポーションもある! 金もある! スキルだって、命だって、なんでも出すから!!」
クラフトの叫びが、室内に響く。
老治療士は、黙ってブラスの腹部に手を当てた。
そして、わずかに眉をしかめる。
「……血は、止まっておるな」
クラフトの目に、一瞬だけ希望の光が灯る。
「なら……!! 助かるんだな!?」
だが、治療士は首を横に振った。
「違う。……止まったのは、外側だけじゃ」
「内臓が、もう……」
言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「……命を繋ぐ器が、すでに、壊れておる」
「いくらオーガの血を流し込もうと、スキルで応急を施そうと……」
「……もはや、手の施しようはない」
クラフトは、立ち尽くした。
「そ、そんな……」
リリーが、悲鳴のように泣き崩れる。
「違う……違う!!」
リリーが震える声で叫んだ。
「だって、オーガの血を使った! ちゃんと止血できた! 助けられるって、言ってた!!」
理屈を並べる。必死に、自分に言い聞かせるように。
「だから……だから、助かるはずなんだよ……!!」
だが——
老治療士は、静かに言った。
「……亡くなられておる。早く、降ろしてやりなさい」
治療士の静かな首振りが、すべてを否定した。
その言葉は、刃物よりも冷たく、重かった。
理解してしまった瞬間、リリーの顔から血の気が引く。
「う、うそよ……うそよおおおお!!!」
張りつめた理性が、粉々に砕け散った。
リリーは叫び、泣き、床に崩れ落ちた。
まるで、世界が彼女一人を取り残していくかのように。
キールの拳が、ぶるぶると震えた。
何も言えず、ただ唇を噛み締めるしかなかった。
クラフトは、崩れ落ちるように膝をついた。
「……なんでだよ」
クラフトの手が、ブラスの肩に触れる。
その体温は、すでに僅かしか感じられなかった。
ブラスは、俺にとってただの仲間じゃなかった。
戦場で背中を預けられる、ただそれだけじゃない。
迷ったとき、立ち止まったとき、折れかけたとき——
あいつは、必ず俺を叱り、笑い、導いてくれた。
何度も、俺の背中を押してくれた、たった一人の、本物の戦士だった。
——そのブラスが、今、静かに旅を終えた。




