審判の槍と、逆らう剣
ギルド長のその表情に、怒りも焦りもない。ただ、深い思案と、冷徹な覚悟だけが宿っている。
彼の視線の先では、ブラスが狂気のような勢いで兵士たちを薙ぎ倒していた。
無尽蔵とも思える力、狂戦士のごとき斧撃。
普通なら、ここで「叩き潰せ」と命令するところだろう。
(……惜しい)
深く、静かに息を吐いた。
「……寿命を削ってまで、立ち上がるか」
その声音に、わずかに哀惜が滲む。
しかし、すぐに無感情な静寂へと沈んでいく。
「——その覚悟。その誇り。……確かに、認めよう」
一拍の間。
だが、と続けた声には、鉄のような硬さが宿っていた。
「意志だけでは、世界は守れない」
黒衣の袖が風に揺れた。
次の瞬間、空に無数の魔槍が浮かび上がる。
その手のひらは、まるで神の審判を下す者のように冷たい。
「だから、私は沈める」
「お前が燃やした命ごと——この手で」
空が震える。
重低音を響かせながら、空中に、一本、また一本と、禍々しい魔力の槍が生まれていく。
黒く、鋭く、光すら歪めるそれは、ただそこに存在するだけで、空気を震わせ、地面を軋ませた。
兵士たちが一斉に顔を上げ、恐怖に息を呑む。
数十本、いや数百本。
空は、魔槍によって埋め尽くされた。
「《魔槍》——」
低く、静かな声で、ギルド長は呟いた。
ブラスに向けてではない。
ただ、この場のすべてに対する宣告のように。
「——制圧する」
黒衣の裾が、無音の中でわずかに揺れた。
そして、魔槍たちが、地獄の雨のごとく、ゆっくりと標的へ向けて軌道を定め始めた。
その標的——
戦場を、たった一人で、狂ったように突き進む、ブラスだった。
ブラスは、血の気の引くような圧力に立ち尽くし、
それでも、にやりと口角を上げた。
(……なるほどな)
(あれを全部、防がなきゃならねえってわけだ)
ブラスは肺の奥から血を吐きながら、
己の全魔力を盾に集中させる。
「《阿修羅》継続発動」
ごきり、と骨が鳴る。
限界を超えた肉体に、再びあの狂気のスキルが点火された。
代償は——さらに寿命七年。
ブラスはわずかに笑う。もはや笑うしかなかった。
(いいぜ……どうせ、使い切る気でいた)
「《剛壁の構え》!!!」
ブラスは、大地に盾を叩きつけた。
轟音とともに、盾から魔力が放射状に広がり、彼の周囲を覆う。
あらゆる筋肉が軋み、血管が張り裂けそうになる。
だが、足を止める気はなかった。
(……かかってこい)
(全部、受け止めてやるよ……!!)
頭上では、ギルド長の放った魔槍たちが、まさに降り注がんとしていた。
クラフトたちは、瓦礫の街を、血のにじむような走りで突き進んでいた
破壊された街並みが、左右に広がる。
砕けた瓦礫、焼け焦げた建物の残骸、崩れ落ちた石造りの街灯。
その隙間に、あちらこちらで転がる小さな結晶——
クラフトたちが、共に作った魔導石だった。
「……これが、俺の……」
走りながら、クラフトは喉の奥で呟いた。
(これが、俺の“理想”の結果なのか……?)
胸が、締めつけられる。
目を背けたくなる。足を止めたくなる。
だが——
(今は……!)
クラフトは、歯を食いしばった。
(今は、ブラスのところへ!!)
前だけを見据えて、さらに速度を上げる。
その時だった。
「こっちです!」
キールが叫び、指差した。
彼は瓦礫の間を縫うように、狭い裏道を指し示している。
クラフトがそちらへ向かおうとしたとき——
バルトとキールの目が、かすかに合った。
互いに、言葉は交わさない。
だがその視線だけで、伝わるものがあった。
(——行け)
(ブラスのもとへ)
バルトの無言の促しに、クラフトは頷き、全力で裏道へと駆け込んだ。
後ろでは、バルトが静かに剣を引き抜き、追ってくる敵兵たちを迎え撃つ体勢を取る。
(任せたぞ……)
クラフトは、もう振り返らなかった。
裂けるような胸の痛みを抱えたまま、ブラスのもとへと走り続けた。
そして、小道の先——
瓦礫を踏み越え、開けた視界の向こうに、それはあった。
そして小道を抜け駆けつけたクラフトたちの目に飛び込んできたのは——
盾ごと腹を貫かれ、なお立ち続けるブラスの姿だった。
「……ブラス……?」
リリーが、短く、そして絶望に満ちた悲鳴を上げた。る。
「いやっ……いやあああああ!! ブラスッ!!」
叫びながら、駆け寄ろうとするリリーをキールが必死に押し留める。
その瞬間、空が再び青白く染まる。
《魔槍》——第二射。
空を覆い尽くすほどの、無数の魔力の槍。
それが、今まさに放たれようとしていた。
クラフトは、ほとんど無意識のうちに、前へ飛び出していた。
「クラフト!!! ダメです!!!」
キールの怒声が響く。
だが、クラフトの耳には届かなかった。
——いや、すでに意識が別の領域へと沈んでいた。
(……静かだ)
(前に、キマイラと戦ったときも、そうだった)
世界が、音を失った。
すべての情報が、ゆっくりと、確かに頭の中へ流れ込んでくる。
無数の槍。
すべてが同時に、こちらへ向かって放たれる。
(防ぐ? ——論外だ)
(いなす? ——無理だろ)
(なら——)
(なら、ほどけろ)
一つひとつを、力ずくでどうこうしようとするな。
力の流れそのものを、根本から断ち切るしかない。
クラフトは両腕を開き、胸の奥から魔力を一気に噴き上げた。
魔導石を加工する時に培った、超精密な魔力制御。
それを、戦場で応用する。
「——散れ!!」
クラフトの魔力が、空へ向かって解き放たれた。
ギルド長は、わずかに目を細める。
「ほう……“同調発動”の応用か?」
興味深げに呟く。
「しかも、この規模のスキルの前で——」
「常軌を逸しているな……」
「さて、どこまで持つか」
黒衣の袖が風に揺れる。
空中に煌めく無数の魔槍と、
それを背負った、一人の若き覚悟の対峙。
クラフトは、次々と降り注ぐ魔槍に向かって、無言で剣を振るった。
一撃。二撃。三撃。
剣先が魔力の奔流に触れるたび、槍の形が崩れ、霧散していった
意識は澄んでいた。
思考は静かに、しかし確実に研ぎ澄まされていく。
(——この剣、使い手の呼吸を読み取ってくれる……)
クラフトは、胸の奥で小さく呟いた。
(エルマーさん、ありがとう……)
すべては、焼け跡の工房で託された、この剣のおかげだった。
だが、どれだけ凌いでも限界は近い。
その瞬間だった。
「《捕縛糸》!!」
伸びた捕縛糸が、絡みつくようにブラスの体を引き寄せ、盾ごと安全圏へと救い出した。
そして——
リリーが、震える声で叫んだ。
「おねえちゃん、お願い……クラフトを守って!!」
リリーの両手の中、リディアの形見である魔導石が淡く輝き、《閃光炎》の術式が展開される。
疾る光が、一直線にギルド長へと向かっていった。
閃光と爆炎。
ギルド長の動きが、わずかに止まる。
その刹那。
リリーの手にあった魔導石は、使用回数を超え——
小さな音を立て、砕け散った。
「今だ、クラフト!!」
キールの叫びが響く。
クラフトは剣を収め、リリーとブラスを抱えるようにして、爆煙の中を駆け出した。
次の瞬間、三人の姿は、瓦礫の陰に消えた。




