秩序と怒り
「ブラスさん、こっちです!」
レギスの兵士のひとりが、瓦礫の陰から手を振る。息を切らせながら駆け寄ったブラスは、軽く片手を上げた。
「助かる!」
次の瞬間、その巨体が再び動き出す。レギス兵の指し示した小道を抜け、ヴェルシュトラ本陣の側面へと飛び出したブラスは、そのまま突撃を開始する。
「うわっ……!? ブラスだ!」「あれが……あの“ヴェルシュトラのオーガ”……!」
本陣の戦士たちの間に走る動揺。それを切り裂くように、ブラスの大斧が唸りを上げる。鎧ごと叩き伏せられる兵士、盾ごと吹き飛ばされる前衛。その進路を阻むものは、ことごとく無力化されていった。
「なっ……!?」
戦場の奥、帳の向こうから顔を覗かせたハイネセンが、驚愕と共に叫ぶ。
「なぜ、お前がここにいるッッ!!?」
敵の拠点に、しかも単独で突入してきた男。それがブラスであることを理解した瞬間、ハイネセンの顔色が変わった。
ブラスは戦士たちを払いながら、余裕すら見せて吼える。
「さすが本陣の連中……!やっと手加減しなくて済むぜ!」
目を細め、血の気を湛えた笑みを浮かべながら、叫ぶ。
「おい、お前ら……俺、いまから“本気”出すからよォ!」
「死にたくなけりゃ——全力で、防げッ!!」
その一言と同時に、地が揺れた。爆風のように空気が押し出され、斧の一閃が兵士をまとめてなぎ倒す。
ハイネセンの取り巻きが次々に地に伏していく。その光景に唇を噛みながら、ハイネセンは後退を始める。
だが、ブラスの追撃は止まらない。斧を担ぎ、じりじりと距離を詰めていくその姿は、まるで迫る嵐。
声を荒げるハイネセンの目の前で、部下たちが次々と倒れていく。ブラスの進撃に、本陣が崩れ始めていた。
そして、ついにハイネセンの目の前まで迫ったブラスが、斧を地に下ろし、低く語りかけた。
「よぉ、ハイネセン。お前、前に言ってたよな……」
「自分は“使われる”側じゃない。“利用する”側だってよォ」
その目は鋭く、しかしどこか挑戦的に笑っていた。
「だったらな——」
「俺もよ、“お前”を利用しに来てやったぜェ!!!」
「なに……!? レギスの連中裏切ったのか!?」
ハイネセンは、目の前から聞こえてくる倒れる音に眉をしかめた。
——まるで、床が抜けていくように、じわじわと自分の足元が崩れていく感覚に襲われていた。
ヴェルシュトラの外縁、黒い尖塔の影に、黒衣の男が立っていた。
風すら遠慮するような静寂の中、彼は黙して街を見下ろしている。
本陣に突入するブラスの姿。
混乱する戦線。
鳴り響く咆哮と、瓦礫の破片。
すべてを、その瞳は見据えていた。
「……しくじったな、ハイネセン」
ギルド長は、低く呟いた。
だがその声に、怒りも焦りもなかった。
あるのはただ、“見誤ったもの”への哀しみに似た色だった。
「——人の意志を、数字と管理だけで測ろうとしたか。まだ若いな」
彼の眼差しの先では、兵士たちが崩れ、指示を失ったまま押し戻されていた。
「誇りを奪われた兵は、剣を手放す。利用された者は、己の正義を探し始める」
「そして、見捨てられた民は、怒りとともに立ち上がる」
黒衣の端が風にたなびく。
その手が、静かに宙を撫でた。
「クラフトの魔導石も、ただの技術だと思っていたのだろう」
「だがあれは——“意思を刻んだ石”だった。誰かの祈りが、怒りが、あの石に流れ込んでいた」
ギルド長は目を細める。
「……そして、貴族制を倒したと信じて疑わなかった我々の傲慢が…………赤雷の再来か」
「あの男が、まだこの世界に牙を残していたとはな」
一歩、前へと踏み出す。
「忘れられた怨念。封じたはずの過去。あれはもう、死んだと思っていた——」
「だが、老兵は生きていた。牙を研ぎ、燃えるような恨みを……ずっと」
その足元から、風が巻き起こる。
ただ立っているだけ。
それだけなのに、空気が軋み、兵士たちの背が震える。
魔力が——練られていた。
だが、それは溜め込まれた爆発的なものではない。
極めて静かに、整然と、無音で構築された支配の力。
圧倒的な精度で、一つひとつの魔力が律動し始める。
「……クソ、頭が痛ぇ。何だよ……あの魔力。まるで、戦場ごと“握られてる”みてぇだ……」
ブラスの戦士としての経験が、警鐘を鳴らしていた。これは技術ではない。力の行使ですらない。
「支配」だ。秩序という名の圧力が、空から落ちてくるような感覚。
ギルド長は、指先を一度、横に払った。
「——スキル発動」
《破防の手》《貫通支援》《戦意昂揚》《撃速の印》……
その瞬間、兵士たちの武器が青白く発光する。
《一撃の構え》《体術拡張》《斬撃維持》《支援同期》《視野拡張》……
術式が連続で発動されるたび、ヴェルシュトラの兵士たちの動きが揃っていく。
呼吸が、足運びが、反応速度が——
すべて、完璧に“同調”していく。
《身法調律》《重心安定》《陣形圧縮》《補助集中》《攻防自動》……
兵士一人ひとりが、ひとつの生命体のように機能し始める。
「何個スキル使うんだよ……全身フル装備じゃねぇか。
なんつう贅沢な体だなぁ、おい。英雄様の凱旋ってか」
ブラスは口元で笑った。だが、その笑みには、戦士としての直感が宿っていた。
それは畏れ——いや、覚悟に近いものだった。
まるで“国家の意志”そのもの。
だが、ギルド長の表情は、浮かばなかった。
「……やはり、我々は“理念”ではなく、“秩序”しか残せなかったか」
そして、ひとつ、深く息を吐いた。
「ならば、せめて最後まで沈めてみせよう。亡霊も、怒りも、誇りも——この手で」
次の瞬間、戦場全体が——再び、ヴェルシュトラの制御下に入り始めていた。




