戦場の亡霊
ブラスが進めば、道ができる。
ブラスが叫べば、隊列が整う。
ブラスが立っている限り、誰一人として後退しようとはしなかった。
——だが。
それでも。
「……やっぱり、近づけば近づくほど、“マシな連中”が出てくるな」
ヴェルシュトラ本部を目前にして、敵の反撃は露骨に変わり始めていた。
兵の質が違う。連携が違う。スキルの精度も、戦術理解も段違いだった。
ひと振りで吹き飛んでいた敵が、いまは二手三手をかけねば倒れない。
「殺さずに止めろ、か……やれやれ、骨が折れるぜ……」
斧を振るうたびに、筋肉が軋む音が聞こえるようだった。斧が当たる寸前に力を抜く“殺さない撃ち方”は、正確無比なコントロールを要求する。相手が強ければ強いほど、理性と戦闘勘の両方を酷使せねばならなかった。
——戦線は、徐々に歪みはじめていた。
「ブラスさん! 右翼、崩れます!!」
「左翼、弾幕が薄い! 支援が追いついてません!」
戦場のあちこちから飛んでくる報告に、ブラスは舌打ちをこらえながら斧を振るった。
「くそっ……右翼は前進させすぎた、左翼前線は魔力切れか……」
右腕はまだ動く。息も乱れてはいない。だが、それでも——思考が追いつかない。
(……足りねぇ。腕でも、足でもねぇ。頭が……追いつかねぇ)
戦いながら、敵の配置を読み、味方の損耗を判断し、指示を出す。それを同時に処理しようとするには、いかにブラスとて荷が重すぎた。
(どこだ……次の崩れは……誰を動かせば補える……!?)
斧は止まらない。だが、その裏で、彼の思考はパンク寸前だった。斬り伏せるごとに、指揮官としての責任が脳を圧迫していく。
(予想よりヴェルシュトラの順応が早い、俺ひとりで足りると思った……甘かったか……!?)
「三列目、下がれ! 左翼、援護に回せ!」
叫ぶ声も、次第に精細を欠き始める。
その瞬間——。
ヴェルシュトラ軍の遠距離隊から放たれたスキルの一斉射が、革命軍の後方を襲った。
「っ……!!」
轟音と共に土煙が巻き上がり、爆風に巻き込まれた数人が宙を舞う。
「うわあああああっ!」
「どこだ、どこから撃ってきた!?」
混乱の渦が、後方を飲み込む。秩序は音を立てて崩れ始め、前衛にもその動揺が波紋のように伝わってきていた。
(立て直すか……? 一旦引くか?)
ブラスは必死に脳内で戦況を組み直す。
(無理だ……ここで引いたら、確実に追撃される。損害が倍になる。なら——)
(なら、強引にでも……こじ開けるしか——)
その時だった。
「——貴様らぁ!!!!!」
空気を裂くような怒声が響き渡った。
一瞬で、騒がしかった革命軍の後方が静まり返る。
呆然と振り返る兵士たちの視線の先にいたのは——
ボロボロのローブに鋲付きの肩当て、腰に錆びた剣を携えた、あの小柄な痴呆老人だった。
「クレイン……?」
群衆が戸惑いに満ちた目を交わす中、老人は構わず壇のような残骸の上に登り、腕を振り上げた。
「7番隊、負傷者を後方に下がらせろ!! 3番隊、左翼に回り、右翼は後退しつつ敵の誘導を行え!!」
「4番隊、魔導石の補給! 繋げぇ、繋げるんじゃ! 誰かが倒れても、次が続けば、それが軍だろうが!!」
その場にいた全員が、言葉を失っていた。
命令は、なぜか核心を突いていた。何より、混乱の中に一本の道筋を作り出していた。
「……おい、聞こえただろ! ジジイの言う通りに動け!!」
ブラスが咆哮する。
「早くしろ!!全滅するぞ!!」
兵士たちが我に返るように、動き出す。
命令は、明瞭だった。誰もがその通りに動いた。崩れていた隊列が、少しずつ——確実に再構成されていく。
「ったく……最近の若いもんはモンスターばかり相手にしおって……集団対人戦の“なんたるか”もわかっとらんとは情けない!」
クレインが、口を尖らせながら叫んだ。
その姿は、どう見ても“痴呆老人”にしか見えなかった。が、戦場はなぜかその言葉に従って、再び動き始めていた。
クレインの声に従って、乱れていた陣形が息を吹き返していく。
怒号一つで戦場を制するその姿は、まさに百戦錬磨の“本物の指揮官”のそれだった。
混乱していた革命軍の陣が、徐々に——だが確実に整っていく。
その怒声一つで、後方の指示が通り、負傷者の搬送が始まり、魔導石の補給がなされる。
そして今、彼は再び声を張り上げた。
「おい、そこの——オーガのなりそこないィ!!」
突如放たれた罵声に、前線で敵を蹴散らしていたブラスが顔をしかめた。
「……はァ!? 俺か!?」
斧を担ぎなおしながら振り返るブラスに、クレインは涼しい顔で錫杖を振り上げる。
「これで好きに暴れてええぞ。陣形はこっちがもたせる。のびのびやってこい!!」
一瞬の静寂。だが、次の瞬間ブラスの顔に獰猛な笑みが広がった。
「助かるぜ、ジジイ……!」
そして再び前へ——豪腕が風を裂き、咆哮が戦列を揺らす。
だが今回は違った。ブラスの突撃に合わせて、後方が寸分の狂いもなく動いた。
前線の変化に即応して、隊列がうねる。後衛が弧を描き、魔法支援が斜線を断ち切る。
まるで——軍勢そのものが、ひとつの“生命体”となって動いているかのようだった。
革命軍はもはや、素人の寄せ集めではない。
クレインの咆哮とブラスの突撃が、戦場を塗り替え始めていた。
「さて、もうひと押ししてやるかのぅ……」
クレインは唇の端に老獪な笑みを浮かべながら、剣を軽く叩いた。
「——《波紋探知》」
空気に微かな震動が走る。老人の瞳が、戦場の全景を見透かしたように細められた。
「ふむ……敵の配置は理解。補給線も——ほう?」
耳を澄ませば、金属とガラスの擦れる音が断続的に聞こえる。その音源を視線で追い、クレインは鼻を鳴らした。
「ポーション……じゃな。って、こやつら……まさかポーションをそのまま瓶で運搬しとるのか!?」
溜め息とともにクレインは小石を拾い上げる。
「——《精密投擲》」
ピシュッ。
乾いた音とともに、最初の瓶が粉砕された。
小石一つで命中させる。それは熟練の域を通り越した精度だった。
——実際に放たれたのは、街角の石畳から拾ったただの小石。
数秒後、二発目が放たれる。石は角度を変えながら空を裂き、隣接する建物の壁を一度跳ねてから、見事に補給班の手元を撃ち抜いた。
三発目は、誰にも視認できないほど高く、放物線を描いて屋根越しの背後からポーション瓶に命中した。
破裂音と液体の飛び散る音が続く。
「な、なんだ……!? どこから投げて……!?」
混乱したヴェルシュトラの兵士が振り返るが、誰の姿もない。発射位置が見当たらない。それほどまでに、精度と角度の計算が常軌を逸していた。
クレインは、狙った獲物を完全に捕らえていた。地形を読み、遮蔽物を逆手に取り、流れるように投げては当てる。
まるで、戦場そのものが彼の掌の上にあるかのような支配感。
「……戦場にポーション持って突っ立っとるなど、的になりたいと喚いておるようなもんじゃ」
老人の手元には、まだ石が残っていた。
彼の表情は穏やかだが、その目だけは獣のように冷え切っていた。
「まったく、不用心じゃのぅ……」
クレインは鼻で笑いながら、投擲を続けた。
補給線が乱れ、ポーションの残骸が戦場に散らばる。
「で……前線の指揮官が馬に乗って、のうのうと前に出とるとは……。まるで戦争ごっこじゃのぅ。いかにヴェルシュトラが腑抜けたか、よう分かるわ」
嘆息とともに、小石をもうひとつ指で弾く。
ピシィッ——!
それは馬の後脚、尻のちょうど神経の集まる部位に命中した。次の瞬間、戦場に響いたのは、甲高い馬のいななきと、指揮官の悲鳴だった。
「う、うおおおっ!?」
馬は突然暴れだし、前線の整列を乱しながら暴走を始める。その勢いに引きずられ、隊列が次々と崩れ、後衛にまで波が広がる。
戦場に混乱が走った。
前衛の兵士たちは動揺し、命令の伝達もままならず、隊列がみるみる崩壊していく。
「……退けっ! 一旦下がれ!!」
ヴェルシュトラの副官が叫ぶ声が、遠くからかすかに聞こえた。
ヴェルシュトラの軍勢は、次第に後退を始めていた。
クレインは、小石をひとつ、ふたつ指の間で転がしながら、ゆっくりと笑った。
「おやおや、戦争ごっこはもう終わりかいのぅ……?」




