伯爵夫人は愛しの旦那様からキスをして欲しいので、魚のキスを釣りに行きます
空気が澄み切った朝、伯爵夫人アリーシア・シゲンは夫ラックス・シゲンを玄関で見送る。
ラックスは宮廷で財務に携わる仕事に就いており、これは毎朝の日課である。
「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
アリーシアはほんのわずか唇を突き出す。
これは『行ってきますのキスをしてちょうだい』の合図。
しかし、ラックスは全く気付かず、ドアを開けて出かけてしまった。
「……」
残されたアリーシアは不満げに頬を膨らませる。
「キスして欲しいのに……」
***
昼下がり。雲が太陽の光を程よく遮る穏やかな午後だった。
アリーシアは王都内のカフェで、友人である伯爵夫人ジェンナ・トロップと紅茶を嗜む。
二人とも麗しい見た目をしており、周囲の注目を集めている。
「あの人が私を愛してくれているのか分からないわ」
アリーシアが愚痴をこぼす。
「いつも無表情で、めったなことじゃ笑わないし……」
「あなたの旦那様は“鋼鉄伯爵”なんて異名があるくらいだしねえ」
アリーシアの夫ラックスは喜怒哀楽を表情に出さないことで有名であった。
黒髪に、鋭くも凛々しい眼を持ち、文句なしの美丈夫であるが、冷たい印象も受ける。
そのため、社交界では彼を“鋼鉄伯爵”などと呼ぶ人間もいる。
「だけど、愛してないってことはないでしょ。町中で暴れ牛に襲われそうになったあなたを身を挺してかばってくれたこともあるんでしょ? 愛してなきゃそんなことしないわよ」
「それは……そうだけど」
友人のフォローにも、アリーシアの表情は重い。
「でも……食事の時も、一緒に散歩する時も、ほとんど笑ってくれないし……それに……」
「それに?」
「今日だって、行ってきますのキスしてって唇を出したのに、してくれなかった……」
「……」
呆れた様子を見せるジェンナ。
「あなた、そんなことして欲しかったの……」
「そうよ! 昔からの憧れよ! お出かけの時のキスは!」
「だったら、普通に頼んでみたら? 『キスして』って」
これにアリーシアは首を振る。
「伯爵夫人ともあろう者が、堂々とキスしてだなんて言えるわけないでしょ!」
「カフェで『キスされたい』って大声で言うのは、伯爵夫人としてどうなの」
「とにかく、キスをしてって直接言わずにキスされたいのよ! どうすればいいと思う!?」
親友の無茶な悩みに、ジェンナは色々と案を出してみる。
「言うのが嫌なら手紙で……」
「手紙も恥ずかしいわ!」
「暗号で伝えるとか……」
「密偵じゃないんだから!」
「だったらテレパシー……」
「そんなの使えないわよ!」
「じゃあ……魚の“キス”を料理して、魚料理を出してみるとか!」
ジェンナとしては自分でも何を言ってるんだろうと思う珍案であったが――
「それだわ!」
「え!?」
アリーシアが乗ってきた。
「そうよ! 魚のキスで、キスしてアピールよ! その手があったわ! さすがジェンナ、私の親友だわ!」
「え、ええ……?」
困惑するジェンナに紅茶代を差し出し、アリーシアは立ち上がる。
「そうと決まれば、釣りの準備をしなきゃ! キスを釣ってくるわ!」
優雅なドレス姿でカフェから走り去っていくアリーシアを見て、ジェンナは笑った。
「ああいう娘だから、鋼鉄伯爵様の妻が務まるんでしょうけどね」
***
一時間後、アリーシアは王都近くにある海の岩場にいた。
磯釣りのためだ。
この岩場は“釣りの聖地”とも呼ばれており、今日も数多くの釣り人が訪れている。
そんな中、一人ドレス姿で釣りをするアリーシアは、かなり異質であった。明らかに浮いている。
もっとも当人はそんなことは全く気にせず、釣り糸についた浮きを眺めている。
「さあ、キスを釣るわよ! キスのために!」
はりきって釣り糸を海に垂らすアリーシアに、一人の中年釣り人が近づく。
「俺も釣りをやって長えけど、あんたみたいな釣り人を見るのは初めてだな」
「あら、光栄だわ」
「褒めてるわけじゃないが……」
こんなドレス姿の貴婦人に釣りができるとは思えない。
しかし、何か得体の知れないものを感じた釣り人は、アリーシアの様子をちらちらと窺っていた。
アリーシアの釣り糸に反応がある。
「……ん」
釣り竿がぐいぐい引っ張られる。
「どうすればいいのかしら!?」
「引っ張れ! 釣り上げるんだ!」思わず叫ぶ中年釣り人。
「分かったわ! でやぁっ!」
鮮やかな赤みを帯びた鯛を釣り上げることができた。
釣り人は自分のことのように喜ぶ。
「こりゃすげえ! 鯛だ! ここじゃ滅多に釣れねえのに!」
しかし、アリーシアは鯛を一目見ると、
「んー、キャッチアンドリリース」
あっさり放してしまった。
「なんで!?」
「だって、私が釣りたいのは鯛じゃないのよ」
「だからってリリースすることもないのに……」
再び釣りに集中するアリーシア。まもなく竿に反応がある。
「今度こそ!」
「イカだ! これもここらじゃなかなか釣れねえぜ!」
興奮する釣り人だったが、アリーシアは渋い表情である。
「キャッチアンドリリース」
「またかよ!?」
彼女はキスにしか興味がないのだった。
その後も――
「おおっ、カレイだ!」
「キャッチアンドリリース」
「マグロだ! でけえぞ!」
「キャッチアンドリリース」
「まさかのリュウグウノツカイ!?」
「キャッチアンドリリース」
順調に釣果を重ねつつ、アリーシアは焦る。
なぜなら本命のキスが釣れないから。
「私ったら才能がないのかしら……」
「そんなことはねえと思うけど……」
ため息をつくアリーシアを釣り人が励ます。
「ただ待ってるだけじゃなく、時には場所を変えてみるのもいいかもな」
「ええ、やってみる!」
先輩のアドバイスを受け入れつつ、アリーシアは釣りを続ける。
そして、ついに――
「キスだわ!」
30センチほどのキスが釣れた。
鱗が白く光り、健康的な、程よく太った美しいキスである。
「よかったな、姉ちゃん!」
「ありがとう! あなたのことは忘れないわ!」
見事キスを釣ったアリーシアは意気揚々と帰宅する。
あとはキスをさばいて、キス料理を出せば、夫ラックスは『これはキス料理……なるほど、“行ってきますのキス”をして欲しいんだな。貴族の夫人らしく慎ましく、可愛らしいメッセージだ』と気づくはず。
彼女の計画はあと一歩というところまで進んでいた。
***
自宅に戻ったアリーシアは調理を開始する。
貴族の身分であるアリーシアだが、料理は決して人任せにせず、腕前はプロのコックも舌を巻くほどである。
程なくして、キスのムニエルが出来上がった。
これを夕食に出せば、彼女の計画は完了となる。夫の帰宅を今か今かと待ちわびるアリーシアであった。
夜になり、ラックスが帰ってきた。
ラックスはスーツから私服に着替えつつ、アリーシアの手料理を一目見るなり、
「今日は魚料理かい」
と反応する。
「いい匂いがする。美味しそうな魚だ」
無表情だが、喜びは感じられる言葉だ。
反応は上々なのだが、アリーシアは嫌な予感がする。
もしかして、ラックスはあまり魚に詳しくなく、これがキス料理だと気づいていない?
魚の種類がキスだと分からなければ意味がない。
しかし、「キス料理」と伝えてしまったら、アリーシアからすれば言葉で『キスして』と告げることと同じになってしまう。伝えることはできない。
「美味しいよ、この魚」
「……ありがと」
残さず食べてくれたが、あくまでキスを“魚”と表現するラックス。
全然伝わってない……アリーシアは心の中でため息をつく。
夫からのキスのために海まで出かけキスを釣ったアリーシアの挑戦は徒労に終わった。
***
翌朝、出かけようとするラックスを、アリーシアが見送る。
「行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
昨日と全く同じ光景。
アリーシアも一晩経ったことで、昨日の失敗からは立ち直っている。
すると突然、ラックスがアリーシアに顔を寄せた。
「……? どうしたの?」
そのままラックスがアリーシアの頬にキスをする。
「え!? え……え!?」
全身に甘みのある刺激を感じつつ、アリーシアは困惑する。
「昨晩のキス料理……美味しかったよ」
ラックスの言葉に、アリーシアは目を丸くする。
夫はあの魚がキスだと気づいていたし、妻が料理に込めたメッセージはちゃんと伝わっていたのだ。
「ああ、それと私は鈍感でね。やはり言葉で分かりやすく伝えてもらった方がありがたい」
めったに見せない不敵な笑みを見せると、ラックスはドアを開けて、颯爽と出勤する。
一人残されたアリーシアは驚きのあまりぺたりと腰を下ろし、耳まで顔を真っ赤にして、こう叫んだ。
「……やられたっ!」
完
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