三歳の大晦日
三歳のユイナは大晦日も仕事だ。もう二十年も三歳をやっているので、かき入れどきには慣れている。
後輩の美里が帳簿を開いて難しい顔をしている。ユイナは後ろからポンと肩を叩き、代わろうか、と言った。
「美里ちゃん、昨日も残業だったでしょ。私は予定もないし、あとはやるよ」
「でも、自分でやらないと後でいろいろ……あっ、お疲れ様です」
係長がやってきて、二人は会釈をする。係長は今年の売り上げと物価高と円安との関係を話し、美里は自分の見解を交えて相槌を打っている。
ユイナは時報を聞くように耳だけ貸しながら、デスクに残してきたいちごクッキーのことを考えていた。あれは今年の新商品の中でも一番おいしかった。
仕事帰り、大晦日が誕生日の芽衣ちゃんを囲んで、小学生たちが歌を歌っていた。女の子たちは着飾って、中にはメイクをしている子もいる。男の子たちは隅のほうで手を叩いていた。
「ユイナ、遅かったじゃん。もうケーキ切っちゃったよ」
「あ、ごめん。今終わったところで」
ユイナは三歳なので、子供たちの集まりにも参加しなければならないのだ。
「で、どっちに入るの?」
「え。どっちって」
「あたしに付くのか、芽衣ちゃんに付くのか。はやく決めてよ」
髪を三色に染めた絵梨ちゃんが腕組みをして言った。
またか、とユイナは思う。誕生日会とは名ばかりで、子供が集まるとたいてい、クラスのリーダー格とそれ以外の派閥に分かれて悪口の言い合いになるのだ。
ユイナは絵梨ちゃんのチームに入り、周りの子たちの話にうんうんとうなずきながら、時々芽衣ちゃんのところへ行き、誕生日会の主役を立てつつ、階段のところでたむろしている男子たちの話も聞いた。
「ユイナって、自分だけが可愛いと思ってんだろ」
いやらしい目をした茶髪の男子にそう言われ、ユイナは返事をせずに食べ逃したケーキのことを思った。砂糖菓子の人形を誰が食べたか、おめでとうと書かれたチョコのプレートを誰が食べたか、そんなことで子供たちは夜まで飽きずに揉めている。
ようやく家に帰る時間になると、バスの前で友達の雫が困っていた。雫は高校の時の同級生で、十九歳の時まではユイナと同じ年だった。
「どうしたの? そのバス乗るんじゃないの」
「あ、ユイナ……ほら見てよ」
雫はバスの乗車口を小さく指差した。
若い男が乗務員に詰め寄り、何か怒鳴っている。行きたい場所へ行けないのか、料金が思ったのと違うのか、言っている内容はよくわからない。
「あの人よく見かけるの。あたしの行く先々、なんかいつもいて」
「えー、怖いね。別のバスにすれば?」
「別のバスなんてわからないし……歩きじゃ遠いし」
この後エス四十五のバスも来ます、と乗務員がアナウンスをした。やった、とユイナは言った。
「エス四十五に乗れるよ」
「でも……そのバスわからないし」
「ちょっと遠回りだけど、雫の家の近くの病院を通るからそこで降りられるよ。いつのもバスとは経路が違うけど、終点は同じなんだよ」
「そっか。ありがとう」
雫が不安だと言うので、バスが来るまでユイナはそばにいた。高校時代の友達やテストのことをいろいろ話したけれど、雫はほとんど覚えていなかった。
バスに乗っていった雫を見送り、すっかり暗くなった道をユイナは歩いた。家まではまだ遠い。
「今年もお疲れ様です、ユイナさん」
ポケットから白いクマのぬいぐるみが顔を出し、低くかすれた声で言った。
「うん。あなたもね」
「私は一日中ごろごろしてるだけですから。ユイナさんのような働き者、ほかに見たことないですよ」
そうかな、とユイナは言った。
仕事はうまくいっているのかわからない。難しい話もわからない。人の気持ちもわからない。
ただ存在して、日々をやり過ごしているだけだ。
「私はね、きっと野生のゴリラなんだ。人間はみんなガラス細工で、私はその間をうまく通り抜ける訓練をしてるんだよ。毎日毎日、ただ壊さないように、それだけを繰り返してる」
「そうですかねえ。私には他の人間たちが野生のナマケモノの群れに見えますよ。ユイナさんは苦労性ですから、飼育員の仕事まで引き受けてしまわないか心配です」
「そんなことないって。私だって楽して生きる気まんまんだよ」
ユイナはクマの頭を撫でた。このクマは中年のおじさんの声で喋るけれど、とても触り心地がよい。洗い立ての毛布のようで、撫でていると心が温まってくる。
「十九歳に戻りたいですか」
「どうだろう。わからない。クマさんがいてくれるなら何歳でもいいよ」
昔は十九歳だった。ある日突然三歳になるまでは、毎日おしゃれをして、将来のことを考えて、世間話をしたり、道ゆくカップルに憧れたり、車の免許をとろうか考えたりしていた。
急に何もかもがわからなくなる、あんな恐怖は二度と味わいたくない。
やりたい仕事も、生きていくのに必要な貯金の量も、自分のしていることが正しいのか間違っているのか、全部真っ暗になるあの感覚は、もう二度とごめんだ。
三歳になっていてよかった。もう考えなくていい。
「年賀状どれくらい来るかなあ」
「ユイナさんより可愛く作れる人はいませんよ」
「そうかもね。でもまあ、楽しみだよ」
友達はみんな三十歳や四十歳になって、子供の入学式や卒業式の写真を載せて送ってくれる。仕事がなくなってしまった人もいる。離婚してしまった人もいる。ユイナが三歳でいる間に、たくさんの時間が流れていく。
「お正月休み、もっと長くとればよかったですのに」
「うん。少し疲れ気味かな。でも早く仕事に戻らないと、いろいろ忘れちゃうから」
来年も行く場所がある。ポケットに入れたクマをこっそり撫でながら、居られる場所がある。それだけでユイナは生きていける。三歳の賃金で働き、三歳の頭で考え、三歳の笑顔で接客をして、三歳の手で表計算ソフトを使い、三歳の体力で人の群れをすり抜けて走る、この日常がユイナは嫌いではなかった。
「来年もよろしくね、クマさん」
「はい、ユイナさん。明日はお餅でも焼きましょう」
半月に近い月が、ユイナの行く手を淡いレモン色に照らしていた。
おわり