第三話 放浪
(くそっ、あの野郎どこ行きやがった?)
眩く明るい極楽から暗く冷たい世界に変わり、リュウセイは戸惑いつつまばたきした。雨模様だけれど空がある。地獄じゃない。居場所はまだ分からないが、その一点だけでかなり気が晴れる。
(さみぃー しっかし、ここ何処よ?)
雨に加え、夜のようだ。
冬の入りを感じさせる、底冷えの寒さである。
キョロキョロと見回し、自分が橋のたもとにいると知る。
道幅の広いコンクリート製の橋で、沢山の車が行き交っている。
リュウセイの足下も、アスファルトで舗装された歩道だ。
川幅が広く、ここからは向こう岸が見えない。
(? もしかして、見覚えある場所か?)
この川の匂いや風景は、流星の記憶の片隅に残っていた。
向こうに光る鉄塔も、見覚えがある。
もしかすると、元の世界に戻ってきたようだ。
(俺、戻ってきた? あいつ、意外と良い奴じゃねえか)
さっきの悪態はすっかり忘れ、リュウセイはお釈迦様に感謝する。
(あ、この大きな道路に沿って行けば、山川田駅に着くな)
高校中退してからは家も飛び出し、住所不定で知り合いのところを泊まり歩いていた。この道は、その時通った記憶がある。
地元に戻るのは久しぶりだ。でも知り合いには仲間だけじゃなくて、ヤバい奴らも多い。また揉めて死ぬのだけは、勘弁して欲しい。
リュウセイの家は、山川田駅から私鉄で二駅先の楓沼駅近くにある。
徒歩三十分くらいか。母親に会えば、何とかなるだろう。
(しっかし、ずぶ濡れだし、歩き辛え……)
傘もないし、服も着ていないし、靴も履いていない。
地獄ではずっと半裸だったから気にしないが、立てないのは問題だ。
起き上がろうとしても足が踏ん張れず、直ぐに四つん這いに戻る。
(何だ? 腰が弱くなったか?)
痛みは無いから、怪我では無さそうだ。
恥ずかしいが、背に腹は変えられぬ。
リュウセイは、駅に向かって歩き始めた。
街には明かりが灯され、人の往来もある。
向こうから歩いて来るのは普通の人間達で、ホッとする。
だが人間と遭遇して、更におかしな点に気付き始める。
リュウセイの視線が、彼らの膝ぐらいの高さしかない。
誰も彼も、巨人のように大きく、見上げないと顔が分からない。
子供みたいな目線になっている。
四つん這いの格好もあわせて、奇妙な気分だ。
だが久しぶりの娑婆で嬉しい気持ちが勝り、リュウセイは深く考えなかった。
(うわ、痛え! 雨が目に入った!)
雨粒が目に入り、痛くて手で拭う。
その時、リュウセイは初めて現実を知る。
(マジっ! 俺の手、犬!)
それは正にプニプニして適度な硬さが心地よい、肉球であった。
鋭い爪も、生えている。
ペットの肉球を触るのは楽しいが、自分の手にあると妙な気分だ。
リュウセイはショックで硬直し、立ち止まった。
恐る恐る下を向くと、リュウセイの体は雨に濡れた犬の毛皮に包まれていた。
お尻に、違和感がある。試しにヒョイっとすると、反応して尻尾が動く。
少し先に、すでに閉店した一面ガラス張りの洋品店がある。
自分の姿を見るために、リュウセイは駆けて行った。
四つ足でも、速く走れる。
そしてガラスに映るリュウセイの姿は、紛うごとなく犬だった。
……
もう、否定できない。リュウセイは犬になったのだ。
(ヤベえ、俺、犬なんだ……)
せっかく人間界に戻ってきたのに、犬では嬉しさ半分である。
(しっかし、ぶっさ……)
リュウセイは、まじまじと自分自身を見つめる。
お世辞にも、格好いいとは言えない。むしろ、ブサイクだ。左目に黒く縁取られている模様が、情けなさに一層拍車をかけていた。毛の色もまだらで、どうみても雑種だろう。
人間の頃は鏡の前にずっと立って自分の顔を飽きずに見ていたリュウセイだが、こんな間抜けな犬面は、二度と見たくなかった。
(くそ、あの野郎、ふっざけんな!)
お釈迦様への感謝の気持ちは、すっかり消えた。
怒りの気持ちが沸き起こり、『ワンワン!』と思わず吠える。
すると通行人達が驚き、リュウセイの存在に気づき始めた。
「野良犬じゃん、ヤバくない?」
近くを通った女子高生達の、ヒソヒソ声がする。
スマホで撮影する兄ちゃんもいた。
どうやら駅の近くまで来たらしく、人通りが増えてきた。
帰宅ラッシュの時間みたいだ。
だんだんと人間から胡散臭い目で見られ始め、困惑する。
(こりゃ、やべえ。離れるか)
山川田駅まで行けば何とかなると思っていたが、それは人間の場合だ。
とにかく、今は人間に近づかない方が良い。危険過ぎる。
リュウセイはそそくさと小さな路地に入り、ブルブルと震えた。
水滴が、まわりに飛び散る。ゴミ箱が無造作に置かれ、すえた臭いがする。
屋根はないから、冷たい雨が相変わらずリュウセイに降り注ぐ。
(ふー、ヤベエな、これ)
リュウセイは、今からどうして良いか、分からなかった。
誰かを頼ろうにも、犬では意思疎通もできない。
生憎、犬に知り合いはいない。
記憶が確かなら、この山川田駅は繁華街で人通りも多い。
そうなると保健所の人が来て、捕まる危険度も高くなる。
(保健所行きだけは、避けねえとヤベえ)
「おい、あっちいけ。シッシ」
裏口の扉が開き、人が出てきた。ゴミ捨てに来たようだ。
当然ながら邪魔なリュウセイは追い立てられ、仕方なくまた通りに出る。
駅近くのショッピングセンターまでやって来た。小さい頃母親に連れられてゲームをやってた思い出がある。中学校の頃も、時々友達と遊びに来ていた。懐かしい気分になるが、この姿では、追い出されるだけだろう。
『クーン、クーン……』
リュウセイは、哀れに鳴いて街を彷徨った。
全てを打ち砕かれ、情けなくて泣きたい気分だ。
こんなことなら蜘蛛の糸なんて上るんじゃなかったと、今更ながら後悔した。
「邪魔だ、どけ!」
『キャイーン!』
(いってぇ……)
酔っ払いに蹴っ飛ばされ、ヨロヨロと他の路地へ行く。
(腹へった…… このまま死ぬのか?)
さっきまで死んでいたけれど、また死んで地獄には戻りたくない。
もう何が何だか分からず、混乱するリュウセイであった。
思考も鈍り、気づくと、目の前に人間が立っていた。
また蹴られるかと怯えたリュウセイは、警戒して後退りする。
だがその人間はそのまま腰をおろし、リュウセイの高さまで視線を落とした。
傘をリュウセイにも向けてくれて、雨をしのげる。
リュウセイは恐る恐る顔を上げると、その人間は女性だった。
「あら、迷子なの?」
『ワン?』
初めて好意的な人間に出会い、リュウセイは舌を出し、勢いよく尻尾をふった。