第二十一話 美女の涙は尊い
氷黒の言葉を受けて、光里は辺りを見渡す。
目の前にある団地は四階建ての鉄筋コンクリートで、昭和の遺物と言った風情だ。白い壁はすっかり蔦で覆われ、奥に続く道もアスファルトはひび割れて、背丈より高い草があちこち伸びている。その風景は、光里の祖母宅と似ていた。だが向かいの山には煌々と明かりが灯る住宅地があり、残酷なコントラストを際立たせている。
「これでも、住んでた頃はピカピカだったんだぜ。居心地も悪くなかった。奥に小さな公園があって、ガキの頃はブランコや滑り台で仲間と遊んでたな。野球をやれるくらいの広場もあった。あいつらとは、ここを出てから全然会ってねえけどな」
昔を懐かしむような氷黒の言葉に、光里もブチも聞き入っていた。
「もちろん、良い思い出ばかりじゃない。親父は酔っ払いで、夫婦喧嘩もしょっちゅう。理由なく殴られたのも、一度や二度じゃねえ。アネキ二人で男は俺だけだったから、八つ当たりにちょうど良かったんだろうよ」
「そうなんですか……」
そんな経験の無い光里の声には、同情も入っているようだ。
「どこの家も、そんなもんよ。仲が悪い家族なんてザラさ。今じゃアネキ達もどうなってるか知らねえしな。あ、そうだ、地区対抗の運動会もあったな。俺は馬鹿だけど足は早かったから、団地のチームとして頑張ったよ。正月には皆で餅付きもした。五十年経ってこうなるなんて、住んでいた奴らは誰も思わなかったろうな」
「ええ、まぁ……」
氷黒の自虐的な言葉に、光里は言い返せなかった。
「中学を出ると、群馬にあった寮付きの工場で有無を言わさず働かされた。けど喧嘩して一ヶ月で辞めたよ。家にはアネキが子供二人かかえて出戻ってたから、帰る場所も無くなった。そっからは伝手を頼った放浪の日々さ。野宿同然の暮らしもしたし、ここより酷え環境もあった。でもな、何とかなるもんだ。遠くの家族より近くの他人よ」
クゥ〜
(何だか、俺と似てんな)
ブチも、氷黒の境遇に親近感を持つ。リュウセイも似た状況で家を出た。片親の母親は帰ってこない時も良くあったし、家族の絆は希薄だ。女と付き合っても、家族を持ちたい感情なんてこれっぽっちも無かった。
「人生なんてそんなもんだ。家なんて、簡単に壊れる。用事があって東北にも行ってきたが、酷いもんだったぜ。どんな豪邸も、津波と地震の前にはガラクタよ。金目の物が沢山あって、お世話になったけどな。原発立ち入り禁止域の方が壊れてない分、楽だったな。世の中、そうやって回ってるんだ。仏さん達も、人助けできて喜んでるだろうよ」
ウゥ〜! ウゥ〜!
(あいつら、そんな良い奴じゃねえぞ!)
極楽や地獄を知るブチは、反論の余地が大いにあった。
「都会だってな、同じだ。醜い遺産相続や借金し過ぎたバカ共のせいで、もう建てられない消えた豪邸なんか沢山あるのさ。とにかく、住めば都よ。金を渡すんだから、不自由はしねえ。両親を思い出したくて、家を譲れない気持ちも分かる。だが、どうせ何処に行っても変わんねえよ。あんたの中に、両親は生きているんだ。家じゃねえ」
(良い話でまとめんじゃねえ!!)
ブチは氷黒の意図に反論すべく、モガモガ動く。
「で、でも……」
光里は否定しつつも、先ほどより弱いトーンになった。
「何もよ、直ぐ出てけって訳じゃねえんだ。俺も仕事だから、クライアントにやりましたって証拠を出したいのよ。で、相談なんだけど、この紙にサインしてもらえねえか?」
そう言って、氷黒はポケットから紙を取り出し、広げた。
氷黒が光里に近づき、良く見せる。
「ここに、ですか……」
それはA4一枚で、【土地譲渡に関する証明書】と書かれていた。
「そうだ。本契約じゃねえから、その気になりゃ、断っても構わねえ。こっちも、ここまでやりましたって伝えれば仕事が終わる。お姉ちゃんもこんなオッさんに絡まれねえし、お互いハッピーって訳さ」
ウゴウゴッ!
(ヒカリ、騙されるな!)
氷黒の言葉に反応し、ブチはまた手足を動かしてもがく。悪い奴らの良くやる手口だ。最初の入り口を簡単にして弱みを握り、次から次に新たな手を繰り出してくる。確かに氷黒はここでお役御免だろう。だがこの書類を持って次にやって来るのは、ヤクザかそれに近い野郎達だ。ヒカリが手に負える相手じゃない。
もがき苦しむブチをよそに、光里は立ち尽くしてじっと無言で考えていた。家を売るのも嫌だが、ブチが助かるならと葛藤しているようだ。
やがて決心したように顔を上げ、氷黒に向かって言った。
「分かりました。サインします」
その言葉に、氷黒も笑みが溢れる。
ウグゥウ!!
(やめとけ! 良いことねえぞ!)
ブチは必死に訴えるが、その思いは届かない。
「助かるよ、お姉ちゃん。こんな夜更けに悪かった。明日も仕事あるだろうしな。じゃあ、ここにサインしてくれ」
丁寧に下敷きとボールペン込みで、光里に渡す。
やはり決心が鈍るのか動作は遅かったものの、光里はサインした。
「よし、これで終わりだ。じゃあ、わんころを返すぜ」
そう言って、氷黒はブチの縄を解いた。
そして、この一瞬を逃すブチではなかった。
ワンワンワンッ!!!
「痛え! てめえ、このっ!」
勢いよく、ブチは氷黒に爪を立てる。氷黒は口輪を外さなかったが、思った以上の跳躍で、ブチは氷黒の顔めがけあらん限りの力で引っ掻き回した。
たまらず氷黒はブチの首輪を掴み、投げ捨てる。
そして懐から拳銃を取り出した。
バァアアーーン!!!
キャイィインン!!
(痛えぇええええ!!!!!!)
銃口が火を吹き、ブチの体を貫く。焼けつくような痛みだ。刺されて死んだ前世の時より、何百倍も苦しい。ブチはたまらず倒れ込んだ。
「ブチィイイ!!!」
光里は泣け叫びながら駆け寄って、ブチを抱きかかえる。
とめどなく溢れる血が、致命傷である事実を物語っていた。
「わりぃな、でもこいつが悪い。正当防衛だ」
氷黒は無表情で、言い訳めいた弁解をする。
だが光里には聞こえず、ただブチを膝の上に置き涙するだけであった。
「ブチ、痛かったよね、ごめんね……」
(ヒカリ、俺こそ守ってやれずに済まねえ……)
意識が薄れゆく中、ブチもヒカリを思い、最後の挨拶をしていた。
これではもう、ヒカリを助けられない。
オバさん同様ヒカリの行く末が心配だが、どうしようもない。
ブチは体の温もりが薄れ、死を実感していた。
……すると、
『【ナイルの炎】発動シマス』
ピカッ!!
「きゃっ!」
こぼれ落ちる光里の涙がブチを濡らすと、変な音声と共にブチの体からオレンジ色の炎が溢れ出し、光里とブチを包み込んだ。不思議なことに、熱さが全然無い。
「な、何だ?」
仕事も終わり帰るつもりだった氷黒も、足を止める。
そして炎が消え去ると、先ほどまでブチであった犬は、青年に姿を変えていた。ちなみに、光里に膝枕をされた状態だ。
「え? り、流星くん?」
その顔に見覚えのあった光里は、狼狽する。
青年は、まぎれもなく吉良里流星その人であった。
流星は光里を気にせず立ち上がり、目の前の敵である氷黒を睨みつける。
膝枕されるより、こっちの方が大事だ。
氷黒は驚くものの、流星の存在に狼狽ることはなかった。
「おっさん、今までやってくれたじゃねえか」
「手品か? どっから来たか知らねえが、もう終わったんだ。帰るぜ」
「そうかい、俺は、まだ用があんだよぉお!」
そう言って人間となった流星は、氷黒に殴りかかった。




