第十九話 悪との遭遇
その後、表向きは変わらぬ日常が続く。光里の帰宅は相変わらず遅いが、変質者は現れない。
光里が無事でいるのも、実は理由があった。
あの日以来、夜中になるとブチは抜け穴から密かに出て行き、見回りをしているのだ。光里に悟られぬよう先回りして家に帰るので、バレてない。
これを彼らが察知したのかは不明だけれど、光里に災難が降りかからなければ、それで良い。
(俺がしっかりしねえとな……)
ブチも流石に、自分がやらねばと自覚し始めたらしい。グータラ我がままの塊だった当初とは、えらい違いだ。作者の予想以上に成長した、心強いブチである。
都会なので、夜に犬の散歩をする人は多い。隠密行動だから人目につかないよう、こっそり忍び足での移動を心がける。ただ仮に見つかっても、堂々と通り過ぎれば案外騒がれないものだ。それに顔見知りの犬達も増え、自然とブチも挨拶する仲間が増えた。
ワンッ!
『よっケンタ!』
ワンワン!
『ブチさん、お疲れ様っす! こちらも異常なしっす!』
ワオゥ〜
『ありがとよ』
犬達も事情を理解してくれ、街の情報が入るようになる。
下手をすれば光里とオバさんよりも、この街の実情を知った。
どの家と家が仲悪いとか、誰々が不倫してるとか、表向き温厚そうな奥さんが家庭内でモラハラDVしまくりとか、ボケ老人の徘徊癖とか、子供間でのいじめ事情——
人間達が思っているより、動物達は分かっている。
猫にも遭遇するけれど、ブチが近づくと直ぐ逃げる。追いかけたい衝動に駆られるものの、通報されると困るのでグッと我慢した。
犬同士の揉め事を、仲裁に入ることもあった。
犬の痴話喧嘩も、人間と大差ない。まず聞く耳が必要だ。
まあそれすら出来ない奴もいるが、その時は臨機応変に対応する。
まるで憧れのROMAND先輩みたいに人望(犬望)を集め、ブチも少々機嫌がいい。やはり人間、じゃない犬も一匹では生きていけない。他の犬に頼られるのは、ブチにとって満更でもなかった。
光里の生活も安定してきたようだ。この前は、オバさんの同僚らしき人達も家にやって来た。仕事柄このご時世でもあり一人一人と時間を空けての来訪であるが、光里も丁重にもてなして思い出話をする。やはりオバさんは人望があったらしく、惜しまれていたのが分かる。きっと今頃、極楽で穏やかに暮らしているだろう。
ルーシーがああなったので、敬浩とは疎遠になった。
週末に散歩であの公園に行くと、時々会う。しかし彼女は別のイケメン犬に夢中で、ブチには目もくれない。飼い主は派手な熟女だが、彼女は敬浩に執拗に迫り、ベンチの隣に座りベタベタと触ってくる。
そんな様子を見る光里は、軽く会釈して傍を通り過ぎるだけであった。敬浩は何かを訴えかける目をしているものの熟女の攻撃は容赦なく、なす術もない。
「それであの竹本さんち、儲かってるのよ。高輪さんもどう?」
「え、は、はい……」
事情があって無下に出来ないのか、敬浩も熟女に話を合わせてベンチから離れようとはしなかった。後日ほかの犬に聞いてみたら、高輪家の本家らしく、頭が上がらないそうだ。あいつにも意外な弱点があるもんだと、ブチは思った。ちなみにルーシーが惚れたイケメン犬はモテモテで、三股四股ぐらい当然らしい。ルーシーが弄ばれる姿が目に浮かぶが、ブチに出来ることはなかった。
だがこんな平穏な日常の中、独り牙を研ぎ澄ます男がいた。
暗殺は、時間をかければ必ず遂行できる。
人の行動には、必ず隙が生まれるからだ。
氷黒は焦らずに、じっとその時が来るのを待っていた。
そして、ある夜。
平穏な生活の中で、ブチには悩みが一つだけあった。
平日夜は、むちゃくちゃお腹が空くのだ。
最近は夜も運動するせいか、どうも足りない。
空腹が限界まで達すると、夜の寝つきも悪かった。
グルグルゥ〜
腹の虫が鳴るものの、既に皿の中は空っぽ。
水はあるが、空腹は満たされない。
(ヤベエな。外に行って、何か食ってくっか)
抜け穴も何度も通るたびに大きくなって、出入りは簡単だ。
ただ残飯あさりは怒られる時もあり、ちとマズい。
しかし、背に腹は変えられない。
迷いが頭を逡巡している中、何かがブチの鼻を刺激した。
(ん? いい匂いがするぞ?)
これは、ブチの好きな高級ドッグフードだ!
お金が足りないのか、最近は滅多にお目にかかれない。遠くでもこれだけ匂うなら、沢山あるに違いない。自然とブチは、匂いのする方向へと向かう。
すると匂いの源は、抜け穴の先にあった。
(腹減った〜)
空腹でどうにかなりそうだったブチは、本能の赴くままに抜け穴に入った。少し考えれば分かりそうだが、仕方ない。
外に出ると、そこには鋭い目つきの男が一人で待ち構えていた。
「よぉ」
明らかに不審な男だ。纏うオーラが違う。
こいつ、絶対人を殺している。
(やべえっ!!)
ブチは一眼で危機を悟る。喧嘩なれしているリュウセイでも、いやリュウセイだからこそ、相手の力量が直ぐにわかる。犬のブチが叶う相手ではない。
(こいつが、氷黒か)
タカシの言葉を思い出す。あいつの言った通り、ヤバイ奴だ。
(ヤベえ、逃げよ、っておい!)
男を見た瞬間、直ぐに頭を引っ込めれば助かったのかも知れない。だが恐怖で生じた一秒、いやコンマ五秒の静止が、ブチの運命を決定づけた。
ふご、ふご〜 もがもが……
(く、口がぁあ!)
男は素早く首輪をグッと掴み、ブチに口輪をはめて外に引きずり出す。そして片手でブチを持ち上げ、ちょうど目が合う位置にした。男の鋭い目に、犬を慈しむ気持ちは毛頭ない。まるで死神のようだ。
(や、やめてくれぇ〜!!)
首輪で喉が閉まり息苦しい中必死に暴れるが、手足をバタバタ動かすだけで全くの徒労に終わる。
「こんなとこから出入りしてたのか。わりいが、運の尽きだな」
その男は懐から拳銃を取り出し、ブチの腹に銃口を向けた。
(ち、ちょっと待てよ!)
死が面前に迫る恐怖に、無駄と知りつつブチはもがき続けた。
処刑執行が始まると、残酷な時間は止まらない。
運命に抗えないと知ったブチは、思わず粗相をする。
プシュッ!
ブチの懇願も虚しく銃口から打ち出された弾は、お腹にに命中した。
針で刺された痛みが走り、じわじわと体の動きが鈍くなった。
本物の拳銃では無かったが、ピンチには変わりない。
「まだ殺しはしねえ。あの姉ちゃんが本命だからな」
(う、動けねえ。ヒカリ、ヤベえぞ。く る な……)
意識が遠のく中、ブチはヒカリの身を案じていた。
❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖
仕事で疲れきった光里は、足を引きずるように歩きながら家路につく。
いつもの時間だが、何だか今日はやけに犬や猫の鳴き声が多い。
ワンワンッ!
ミャミャミャ〜
ワゥワウ〜!
(ヒカリさん、ブチさんが大変っすよ!)
(拐われちゃったの、助けて上げて!)
(早く帰って!)
動物達の声が分かればこう聞こえた筈だけれど、ソロモンの指環を持たない光里は、何か変だなと思うくらいであった。それよりも疲労困憊で、思考停止気味である。
「ただいまぁ〜」
何も知らない光里は門を開け、玄関に入った。夜も遅いし時間も無いから、そのまま靴を脱ぎ家の中に入る。ただブチが気にはなるので、縁側から犬小屋を視認するのが日課であった。大抵は、しっぽか腕かブチの体の一部が見える。
だが今日は、違った。
(あれ?)
放し飼いをしているから、紐が放ったらかしなのは何時ものことだ。
それより、ブチの気配が感じられない。
念のため縁側の窓を開けて、犬小屋を見た。
普段なら、開けた音で反応するはずだ。だが出てこない。
(い、いない?)
庭の別なところで寝ているのだろうか? そんな事は今までなかった。庭ばきのサンダルを履いて庭に下り、一通りめぼしいところを探したが、やはりいない。
(え、うそ?)
信じられない状況に、光里は呆然とする。田舎だったら縄が偶々外れて犬が逃げ出すなんて、よくある話ではある。近所総出で探し出し、何とか事なきを得るのが大半だ。
だが光里の家は塀で囲われており、とても飛び越えていける高さではない。小さな違和感が、急激に大きな不安となって広がっていく。オロオロして庭の中を探すが、ブチの影はなかった。
(どうしよう……)
どうやら、本当にいない。光里は自分の監督不行届でブチが不幸な最後を遂げるのではと、心配になった。夜も遅いが、家の中にいないなら普段行く公園か川辺を当たってみるしかない。
覚悟を決めて行こうとした時、庭に何かがあるのに気付く。
(あれ、何?)
クシャクシャになった白い紙が、不自然に庭の真ん中に転がっている。
広げてみると、字と地図が書かれていた。
【お前の犬は預かった。ここで待っている】
地図に書かれた先は、少し離れた山中にある団地跡だ。
「ブチィイ!!」
光里は思わず大声を出し、車庫のシャッターをガラガラと開けて車に乗り込んだ。
「あれ、こんな時間に?」
二階で読書の最中、大きな物音がしたので敬浩は窓から光里の家を眺めた。
奇声が上がったと思ったら、車の発進音が聞こえる。
普段より派手なエンジン音を立て、走り去って行った。
気になった敬浩は、父に電話をしてみた。
『こんな時間に何だ?』
『お隣の清河さんが、車でどっかに行ったんだけど。何か心当たりはない?』
敬浩としては、犯罪の片棒は担ぎたくない。
『いや、儂は知らん』
『ふうん』
どうやら、敬太郎の企みではないようだ。ではあの氷黒か。
『しかし、チャンスだな。礼を言うぞ』
敬太郎はそう言うと、電話を切った。




