第十八話 ブチに迫る危機
「す、すいません……ケンヤが女を見て急にナンパするって言い始めたもんで。止めたんですけど、ホントすんません」
「分かった。いいから切るぞ」
「は、はいっ……すいません……」
ユウトは未だ何か言いたそうだが、氷黒は構わず携帯を切る。
失敗の報告を受けて氷黒は苛立ち、机の傍に置かれたタバコを取って一服した。新大久保近くにある築四十年の雑居ビル三階、安い机一つしかない小さな事務所だ。喫煙を咎める輩はいない。この不景気、有能な舎弟は次々と辞めていく。一人残ったユウトに任せたのが、失敗だった。所詮、腕に目立つタトゥーをしてイキってるだけの無能か。
(まずいな……)
直接得られる情報は、何事にも変えがたい。光里の反応を見るため声をかけてみろと言ったら、大ごとになってしまった。どうも連れて来た一人が光里を気に入り、マジになったらしい。簡単な仕事だからアイツでも大丈夫と思っていたが、後の祭りだ。
雑然とした事務所の中でタバコをふかしつつ、どうしたものかと氷黒は思案する。大通りに出れば雑音が煩わしいものの、一つ中に入ったこの周辺は閑静で、時折通り過ぎる電車の音が際立つ。それに最近はコロナで観光客も格段に減り、かなり過ごしやすくなっていた。
(ふぅ……)
警察に見つかったのはまずかった。巡回が増えたら、手を出しづらい。下手にあいつらが職質を受けるだけでも、氷黒にとってダメージだ。今後の業務に支障が出る。
(舐めすぎたな)
女一人と、簡単に考えていた。調べた限り、至って平凡な生活の平凡な女だ。隙は幾らでもある。母親が死んで気落ちしている今、イケメンに言い寄らせるか因縁を付ければ、合法的に土地を奪うなんて容易いだろうと勘違いしていた。現実は思ったほど甘くない。
加えてあの街が、氷黒を不愉快にさせる。
YMCAを意味も知らずに踊っていた少年時代、郊外の団地で育った氷黒の家は貧乏だった。地元の小学校には、高輪家のような成金の奴らがいた。何も無い山を売っただけで豪勢な生活をするあいつらが、心底羨ましかった。
あの甘ったるい川と山を見ると、ろくに洗濯もできず汚い制服で通学していた昔を、嫌でも思い起こさせる。駅のホームに下りた瞬間、暗鬱な過去が脳裏をよぎった。
仕事だから引き受けたけれど、アイツらに同情の余地は無い。大昔あの辺に住んで百姓を始め、偶々耕した土地が膨大なお金に変わっただけだ。敬太郎は勢いだけの軽薄な男だし、敬浩は親の言いなり。あいつが持つ歌舞伎町の店なんてケツ持ちのヤクザのお陰だから、誰がやっても同じだ。本来の器以上に儲けたアブク銭がバブルと共に消え去るのは、自然の摂理と言える。
(めんどくせえな)
雑念が入るが、今回の依頼は金になる。氷黒も生活が苦しい。最近は依頼が激減して、忙しくも出来ない。シャツも背広も、ここ数年新調していなかった。
あの与太話が嘘でも、ケツ持ちのヤクザと交渉すればおこぼれに預かれるだろう。踏んだくるだけ踏んだくれば良い。独り身の氷黒も、人生設計は必要である。まともに年金も払ってないので、数年後が不安だ。
とにかく金。やれば良いだけの仕事だ。
(さて、どうすっか)
タバコを吸い終え気を取り直すと、PCのデスクトップにある光里関連のフォルダを開け、今まで得られたデータを眺める。
(何かにすがってくれれば、楽なんだけどな)
落ち込んだとき、身近な男に惹かれるのは良くある話。敬浩にその役割を期待したが、あの性格では無理だろう。そうすると、新興宗教か。ただどうも、神を信じるタイプとは違う。入れ込むほどの趣味も持っていない。思っているほど間抜けでは無いようだ。
(やっぱ、こいつか)
氷黒が開けたファイルは、ブチの写真だった。
こちらに気付いているのか、何枚かはカメラ目線である。
今までの経緯から、あの犬が厄介だと気づく。
敬浩との話でも、肝心な時に邪魔をすると聞いた。
見た限り単なる雑種犬だが、どうも気に入らない。
成功のためには、全ての障害を排除すべきである。
(ワンコ君には、退場してもらおうか)
母に加え最愛の犬が死ねば、騙されもするだろう。
その時は、敬浩に一芝居打たせれば良い。
ちなみに氷黒は生粋の猫派だ。犬に対する愛情は微塵もない。
昼時になり、氷黒は事務所を出てなじみの蕎麦屋に行った。
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河川敷の桜も既に散り終えた四月半ばの週末、ヒカリはブチを散歩に連れて行く。すっかり暖かくなり、春どころか初夏の陽気に近い。最近の騒ぎで衣替えも疎かにしていたヒカリは、行き交う人とは違って相変わらずの厚着だ。
目の前に流れる川は浚渫工事をやっているようで、川の流れを一部遮っている。洪水対策なのであろう。それよりもブチは目の前にある草をムシャムシャ食べて、ご機嫌だった。
(やっぱ庭だけじゃ運動不足になるからな。外も気持ちいいわ〜!)
川辺でひとしきり遊びまくった後、何時もの公園に行ってみると敬浩とルーシーがいた。
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
ワンっ!
『よ、元気か?』
ウゥグゥウウ〜!!
以前と同じノリで挨拶したブチだったが、ルーシーはもうタカシではない。まるで初めて会うかのように、警戒心丸出しでブチを威嚇し睨みつける。ブチもルーシーの態度に気付き、やや距離をとった。
「こら、ルーシー。どうした?』
敬浩が異変に気付いて宥めても、ルーシーは目の前の敵に集中して無反応だ。
ギャァン!! キャンキャンッ!
クゥウン
『おい、やめろって』
戦意がないことを示しても、ルーシーは許さず吠えかかってくる。
ヒカリは安心してベンチに座れず、仕方なく立ってブチを引っ張った。
それでもルーシーの勢いは止まらない。
キャンキャン! キャァアン! キャン!
『あんた誰? 変態! 痴漢!』
クゥウ
『ブチだよ。覚えてねえのか? タカシの頃は仲良くしてたじゃねえか』
キャンキャンキャン!
『やめて! 近付かないで! ブサイク! キモい!』
初めて受ける対応に、ブチは驚黙するしかなかった。
こう言っちゃなんだが、前世の流星はイケメンだったので、女性から迫られるのが当たり前だった。そりゃ、相性の良し悪しはある。けど敵はブサメンだけで、流星が誘いをかけて断る女が世界にいるとは想像すらしたことがない。街中での逆ナンや満員電車での痴女遭遇も、日常茶飯事。流星を見て近づく女はいても、遠ざかる女はいなかった。
だが目の前にいるルーシーの態度は、まるで自分が不気味な怪獣になった気分にさせられた。まあ実際、不細工な犬面なのはリュウセイも自覚していたが。しかし世の中が如何にイケメンファーストであるか、思い知らされたブチである。
「すいません……」
「良いですよ。そう言えばどうです? 手術させてみます? こんな調子じゃ気が立って、仲が悪くなるだけのようですし」
「はあ、そうですね……」
(手術? 誰が?)
今までは二人の会話を聴いてなかったが、不穏な空気を察知する。
(ヒカリ、じゃねえよな……大体あの野郎が、何の手術をヒカリに勧めるんだ?)
キャンキャン!! キャキャキャン!
『ほんと邪魔、私の視界から早く消えて!』
クゥウン
『わーったよ』
ブチは半ば強引に、ヒカリを公園の外へと連れて行った。
「すいません、今日はこれで」
「ああ、じゃあ」
「ふう。大丈夫? ブチ?」
ワン!
『俺は大丈夫さ!』
いささかプライドが傷つけられたブチだが、気丈にもヒカリを励ます。ルーシーの一匹や二匹ものの数じゃないと、心の中で負け惜しみを言ってるのは内緒である。
「高輪さんも悪い人じゃないけど、思ったのとは違うかな」
どうやら、第一印象とは違ってきたらしい。
ワンワンッ!
『ヒカリ、やっと分かったか!』
ブチも同意して吠える。タカシがいない以上、あいつらに関わる義理はない。光里がイケメンの洗脳から解けそうで、ホッとするブチであった。
ワウ?
(何だ、これ?)
家に帰ってきたとき、門に何か貼ってあるのにブチは気付いた。
「あ、ブチ気が付いた? 独り暮らしだから気をつけなきゃと思って、描いてみたんだ。どう?」
(ま、まあ良いか……)
そこにあったのは、【猛犬注意】の字と共に描かれた、ブチの顔だった。良く似ている。良く似ているだけに、迫力は全くない。とても猛犬とは思えぬ、平和な犬の顔だ。
(ホントの顔だから、仕方ねえな)
それはそれとして似顔絵を描いてくれたのは嬉しい。ブチは尻尾をふってワンワンと光里にジャレつきながら、家の中に入って行った。
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『ふわぁ、元気か?』
『おうよ。何だか眠そうだな、あんた』
『失礼な。この顔は元からじゃ。まあしかし、この季節はいつも眠いけどな。ほれ、ステータス』
【ステータス】
名前 :ブチ
徳 :★★★★☆
イケメン力:★★★★☆
洞察力 :★★★★★
統率力 :★★★☆☆
コミュ力 :★★★☆☆
腕力 :★★★★☆
特殊能力 :
アイテム :ナイルの炎
『お? 何か上がってるな!』
『左様。もしあそこで手術の件に気付かなかったら、お主は去勢されておった』
『マジかよ! あいつ最低だな』
『イケメン力もアップしておいたぞ。あそこで屈辱に耐えるこそ、真のイケメンじゃ』
『まあ、どうでも良いことだけどな』
『これから大変かも知れんが、とにかく頑張れ。期待しておる』
『ちょ、待てよ! 何が起きんだよ!』
リュウセイの言葉には答えず、無駄にアルカイックスマイルで去って行くお釈迦様であった。




