第十五話 来訪者
敬浩が父と電話をしてから少し経ったある日の昼下がり、珍しく門のチャイムが鳴った。リビングにあるモニターで確認すると、黒いダブルスーツ姿の男がいる。細身で背が高く、ノーマスクだがサングラスで表情は窺えない。一人のようだ。
これが、父の言っていた客らしい。
「氷黒千影です。お父様から用件を預かって参りました」
「ああ、どうぞ」
敬浩は門の解錠ボタンを押し、玄関に行って男を迎え入れる。
「はじめまして」
「ええ、はじめまして。こんな遠くまでありがとうございます」
男は深々と頭を下げ、靴を丁寧に脱ぎ家に入った。物腰は柔らかいが、オールバックにサングラス、第一ボタンを外した濃い紫のYシャツとネックレスに目立つロレックスは、この時世に珍しく分かりやすい姿だ。サングラスの奥から覗く鋭い眼光に香水とタバコの匂いも、彼のいる世界を認識させた。
見た目から察するに、五十代前後。父よりは若い。
一度見たら二度と忘れない風貌だが、敬浩は会った記憶がなかった。
「こちらへどうぞ」
「ありがとうございます」
応接室に通し、ソファに座ってもらう。昼間から酒もどうかと思われ、お彼岸に叔母さんが持ってきたコーヒーと羊羹を用意し、敬浩だけマスクをかけて対面に座る。相手は静かに落ち着いているものの、家の空気は緊張で一変した。
「コーヒーですいません」
「いいえ、おかまいなく。それより、タバコ良いですか」
「ええ、どうぞ」
敬浩は灰皿を差し出す。ライターも出すか迷う敬浩に頓着せず、相手は自分でライターを取り出して火をつけた。ふうっと一服を堪能し、リラックスしている。
「助かります。外じゃ、おちおち吸えないですからね。あなたもやるんですか?」
「ええ、たまに」
存分にタバコを嗜む氷黒とは対照的に敬浩は落ち着きなく、まるで主が逆転したようだ。ルーシーは廊下からちょこんと部屋を覗き込むと走り去り、別の部屋で遊んでいた。
「いい街ですね。自分も昔、近くに住んでたんですよ。懐かしいです」
「そうですか」
そう言いながらも、男は全く感傷的な素振りを見せない。
彼にとって些事なのだろう。敬浩も、それ以上踏み込まなかった。
「それで、父からの用件とは何でしょうか」
「ああそうだ。失礼しました。私はこういう者でして」
そう言って氷黒は内ポケットから名刺入れを出し、敬浩に名刺を渡した。
社名と名前しか書かれていない、シンプルな名刺である。
「『リサーチライフ』?」
聞いたことのない名前だった。
「はい。いわゆる興信所です。浮気調査や人探し、お金を払えば何でもしますよ。既にお聞きと思いますが、私達は、お父さんから隣家の土地が欲しいとご依頼を受けたのです。ご子息の敬浩さんも協力すると伺っていますが、宜しいですよね?」
「はあ」
事後承諾だと文句をつけたいものの、敬浩は同意する。この男への依頼で、相当な金が動いたはずだ。父はあの土地によほど執心らしい。しかも実行役を父ではなく自分にさせるとは、随分と身勝手で都合が良い。
「それで調査対象の清河光里さんですが。株式会社Bシステムに勤務。職務は事務に経理にお茶汲み係や受付係と、まあ何でも屋ですな。このご時世、正社員なだけ幸せでしょう」
「そうなんですか」
彼女の勤め先を、初めて知る。
「毎朝家を出るのが7時半、山川田駅から府中駅で京王線特急に乗り換えて新宿着は8時12分。そこから丸の内線に乗り換え中野坂上駅を8時22分に着いたら、徒歩5分で会社に到着。規則正しい生活で感心ですが、女性専用車両にいるのは厄介だ。帰りは終電が多いけれど、昨今の事情から少しはマシになったようです。ただ、この辺で夜の一人歩きは感心しませんな」
「まあ、そうですね」
「他に私的な外出は、犬の散歩かスーパーの買い物だけ。倹約家だけあってスーパーには二割引セールの時間帯にしか行かない。これも分かりやすい行動だ。あなたも時々散歩で会うから、ご存知でしょう。しかし育ちが良いのか、警戒心が無いのも羨ましいですな。よく今まで、無事に過ごせたもんだ」
「そうですか……」
興信所を使えば個人情報の入手は可能であるけれど、ここまで詳細な情報はあまり聞かない。よほど金と人を注ぎ込んだのだろう。ここまでして清河家の土地を手に入れたい父の執念に、敬浩は狂気めいたものを感じた。
「それで最近お母さんがコロナで亡くなり両親は共に他界、親族はおらず独り身。現在、あの家と山梨にある父親の実家の土地相続で難航中、と。貯蓄も少なくギリギリの暮らしだから、相続税は厳しいでしょう。ちなみに過去に付き合った男も女もなし。あの駄犬と暮らす、至って真面目で地味で清らかな生活だ。SNSで探りも入れましたが、何も無い。あのままです。パパ活でもやってれば、随分助かったのですが」
「はあ」
彼女の私生活を赤裸々に語られても、敬浩は興味を持てなかった。
「どうしますか。彼女から、合法的に土地を奪えということなのですが」
「いや、そう言われても」
敬浩は、決めかねていた。父の手前、彼女と仲良くしておくが、敬浩にあの土地を買えるほどの財力は無い。取り敢えず仲良くなった後に父と会わせて、父から購入を持ちかけさせるぐらいしか考えていなかった。
「若い女ですからね、方法は幾らでもあります。金か男で弱みを握れば、借用書にサインさせるなんて結婚よりも簡単だ。強情な時は、沈んでもらいましょう。会社に詮索されないよう遺書を書かせて死体が上がれば、競売開始まで二、三ヶ月もかかりませんよ。手続きは、こちらでやります」
「はあ」
父の仕事柄、そのような話は聞いたことがある。
ただ当事者として敬浩がするのは、気乗りしない。
「穏便に済ますなら、合法的にあなたと結婚でも良いのですが。如何ですか? 彼女も、満更ではなさそうだ」
「……嫌ですね」
本心だった。悪い子ではない。でも無理して結婚生活を営む気にはなれない。
今さら義務で愛情のない結婚など、するつもりは無かった。
「そうですか。仕方ないですね。本当はこれが一番楽なんですが」
「別の案でお願いします」
「承知しました。やはり、些か危ない橋を渡りますかね。クスリでも使いますか? ホスト狂いにして借金漬けか、ナンパ師に任せてカード破産させるか。お好きな案があれば、連絡ください」
「分かりました。しかし、なぜ父はあの土地に執着するんですか?」
敬浩の質問を聞いて、氷黒は意外な顔をした。
その顔に、敬浩も戸惑う。
「お父さんから、事情を聞いてないのですか?」
「はい。とにかくあの土地を手に入れろ、の一点張りで。理由を聞いても、有耶無耶で話が終わるんです」
「そうですか……」
氷黒は少し困った様子で、タバコを一本取り出し無言で吸う。
敬浩は、何も言わずに氷黒の言葉を待つ。
やがて意を決したように、氷黒は話を始めた。
「少々言いづらいのですが、あなたのお父さんの事業、危ないのです」
「それは、潰れるということですか?」
「その可能性が高いです。理由はまあ、良くある話ですな」
確かに、どこにでもありそうな話だ。この状況では、父の経営する店も売り上げが大分減っただろう。ビル持ちでも、店が入らないと儲けにならない。それに派手好きな父だ、日頃の蓄えがさほどあるとも思えない。羽振りが良い時は人が集まってくるが、居なくなるのは一瞬だ。
「いったい幾らですか?」
「簡単に払える額じゃない。正確な額は私も存じませんが、三十億は下らないでしょう。複数の闇金から借りていると聞いています」
「そ、そんな大金ですか……」
その額は予想外であった。敬浩にも払えない。そうなると、この家がいつ差し押さえられてもおかしくない状況だ。敬浩の生活も脅かされると気づき、先ほどより真剣になって氷黒の言葉に耳を傾ける。それを見て、氷黒は薄ら笑いをしていた。
「それで借金返済の手段として、あの土地を欲しがっている訳です。では敬浩さんも、あそこに何があるのかご存知ないのですね?」
「ええ、分かりません。自分が知る限り、あの土地は既に彼女達のものでしたから」
「そうですか。お父さん、私にも言わないんですよ。こちらはお金さえ払って貰えば良いのですが、怪しいもんですな」
氷黒の言うように、父の言動は謎だ。あの土地に、三十億の価値はない。あれを買って借金を完済できるとは、敬浩にも思えなかった。単なる時間稼ぎの、逃げ口上にも感じる。そんな事に光里を巻き込むなんて、気の毒に思う。
「ご事情は大体わかりました。そうすると敬浩さん、残念ですがあなたの直接の協力は期待できない、という事で宜しいすね」
「まあ、そうですね……」
ここで断って良いものか、敬浩は迷う。
今の光里なら、自分が結婚をもちかければその気になるかも知れない。
それが一番穏便に事を済ませられる。
だが敬浩が悩む間に、氷黒はあっさり話を進めた。
「分かりました。では私達でなんとかしますよ。大丈夫、女一人なんてどうとでもなる。あなたに下手な芝居をされて警察にバレるより、私達に任せた方が良い。ただこの成功が、敬浩さんの今後にも関わるとだけはご理解いただきたい。くれぐれも口外しないようにお願いしますよ」
「は、はい」
「これ以上の接触も止めます。ご安心ください、迷惑はかけません。それでは失礼します」
コーヒーにも羊羹にも手をつけず、氷黒は帰って行った。
敬浩は、真っ先に父・敬太郎に電話をした。
「パパ?」
「ああ、タカヒロか。どうした?」
「リサーチライフの氷黒さんが来たんだけど」
「……そうか。どうだ、協力する気になったか?」
「それより、パパ借金してるの? 三十億も?」
その言葉で、敬太郎の口調が変わる。
「な、なに? あいつ、そんな余計なことを言ったのか!」
「本当なの? 本当なら、こっちも困るんだけど」
即答はなかった。
「……事実だ。だから、あの土地を早く」
「だからって言われても、あの土地でそんなお金が払えると思えないんだけど? 氷黒さんも不思議がってたよ。そろそろ教えてよ。何で、あの土地なの?」
「……」
しばらく無言が続く。敬浩は、敬太郎の言葉を待った。
彼の口調からは、先ほどの勢いは消えている。
「仕方ない、お前だけに言う。『三億円事件』を知っとるか?」
唐突な話題であった。
「ああ、知ってるよ。生まれる前だけど、この辺で起きた事件だからね。テレビでも時々やるし」
「あそこにあるのじゃ」
「三億円が?」
敬浩には、父の言葉が信じられなかった。




