第十二話 週末の終末旅行(前編)
幸い、光里は発症しなかった。
保健所からの要請で受けた検査結果は、陰性だった。だが自主隔離をそれとなく要請され、数日は家で過ごすことになる。強制ではないものの、さすがに会社から出社命令は出なかったようだ。
そして数日後、保健所の人がきて骨壺の入った木箱を渡される。
「ブチ、お母さんだよ」
ワン!
光里は縁側のガラス戸を開け、骨箱をブチに見せた。白布で覆われた、四角く小さな木箱。クンクンと匂いを嗅いでも、オバさんの匂いはしない。
光里は、仏間にある仏壇手前に骨箱を置き、線香をあげる。
オバさんの遺影は既に出来上がっており、笑顔で夫婦仲良く並んでいた。
葬式もなく、火葬場にすら行けなかった。あっけないの一言だ。オバさんが庭にひょっこり現れるんじゃないかと錯覚するぐらい、味気ない。風景は変わらず、空気だけが一変した。
(俺も、死んだ時はこんな感じに想われてたのかな……)
リュウセイは自分が死んだ時を思い出す。だがリュウセイはオバさんみたいに霊にならず問答無用で連れて行かれたので、母親がどんな反応をしたのか知る由もない。
清河家の住民は、もう光里とブチだけ。
一人去っただけで家は格段に広くなり、寂しさが募る。
田舎で聞くような投石や、出て行けと張り紙を貼られる事件はなかった。だが以前にも増して近所との交流に怯えた光里は極力外出を控え、ブチの散歩も夜だけになる。時折スマホを見ているのは、敬浩に連絡しているのか他の誰かなのか、単にゲームかネットをしているのか、ブチからは窺い知れなかった。
我が儘を言うことなく、ブチは大人しくヒカリと一緒にいた。
今日も、夜の散歩に出る。まだまだ寒く、冷える夜だ。
ヒカリは帽子にマフラー、手袋でロングコートの完全防寒である。
もちろん、マスクもしている。
いつも散歩に行く川のほとりでマーキングの最中、ヒカリが呟いた。
「ブチ、遠くに行こっか?」
ワウ?
どこに行くんだ? と思ったが、リュウセイは深く考えもせず気楽に吠える。光里は、それを同意と受け取ったようで、ぎゅっと強く抱きしめた。
リュウセイとは違い、ヒカリは深刻に思い詰めた顔である。
目が、笑っていない。ブチよりも遠い何かを見ているようだ。
翌日から、ヒカリは茶の間でノートパソコンを使い、何かをし始めた。
最近のヒカリは、自室よりリュウセイの見える茶の間で過ごす事が多い。
きっと彼女も、寂しいのだろう。
その後は数日、ネットショッピングで幾つかの品が届く。スーパーに行くのも憚られるのか、食材が沢山ある。数が多過ぎて、配達業者が来るたびワンワン吠えるのも疲れ、黙って見てるブチだった。
ブチにはヒカリが何をしようとしているのか、分からない。
だが何処であれ、外に行けるなら24時間OKだ。
基本あまり気にしない性格なので、光里の好きにさせるつもりだった。
そしてある朝。
「ブチ、行こっか」
ワウ!
準備が、できたらしい。
やっと行けると、ブチは喜びで尻尾フリフリをする。
「じゃあ、ちょっと待っててね」
ヒカリは家の中からガサゴソと荷物を持ってきて、ガレージの中に向かった。どうやら、車で行くようだ。ワンワン! と、ブチは興奮して吠える。ヒカリは重そうな荷物を、何往復もかけて運び込んだ。思ったよりも時間がかかっている。その間、興奮してブチはずっと尻尾ふりふりさせながら吠えていた。
(かなり遠くに行くんだな)
「はい、ブチ。乗ろうね」
オバさんがよく使っていた清河家の自動車は、ピンク色のスズキの軽自動車である。後部座席もゆったりしていて、ブチが入ってもリラックスできる広さだ。保健所ぐらいしか乗せてもらえなかったので、この旅行をブチは楽しみにしていた。
ヒカリがドアを開け、ブチを引っ張っていく。
リュウセイは素直について行き、後部座席に乗ろうとする。
散歩に行ってトイレは済ませたので、大丈夫だろう。
「荷物多いけど、壊さないでね」
ヒカリが忠告したように、後部座席には荷物がたくさんあった。
野菜や食材もあるから、思ったより大掛かりである。
テント用品もあるので、日帰りじゃないらしい。
(ソロキャンプでも行くつもりか? そんな趣味あったのか、ふ〜ん。あ、あれ?)
ブチは、荷物の一つを見て、ギョッとした。
(れ、練炭?)
……
それは、どう見ても練炭だ。流星として過ごしていた昔、車中で練炭自殺なんてニュースが時々あったから憶えている。全くもって、あの時ニュースで見た物と同じだ。
(お、おい。早まるんじゃねえぞ?)
ワンワン!! ワゥウ!! ワワワ!!
今まで楽しみにしていた旅行が、一転して恐怖に変わる。
ブチはお座りの姿勢を保ち、自動車に乗るのを必死に抵抗した。
「ブチ、ちゃんと中に入って! 良い子だから!」
(良い子で死んだら、元も子もねえだろ!)
首輪が引っ張られて変顔になるけど、かまっちゃいられない。
死への旅なんて、まっぴら御免だ。犬だけど、死にたくない。
これで極楽行きも不確かなんだから、受け入れる訳が無い。
「もう、しょうがないなあ。はい、これ」
ヒカリは予めポケットに忍ばせていたドッグフードを、車中に放り投げた。
ワゥウ!
餌を求め反射的に中に入ると、そのままガッとドアが閉められる。気付いた時にはもう遅い。さすがは動物好きの光里、ブチの習性をよく分かっていると褒めるべきかも知れないが、ブチは発狂しそうなほどに焦っていた。
ワウワウ!! ワゥウ!
(ちょっ待ってくれ!! 行くのやめようぜ!!)
「じゃあ、行こっか」
ヒカリも、運転席に乗り込む。
ブチの心の声は響かず、一抹の不安を抱きながら、ヒカリの運転で発車する。
ワゥウウ〜 ワゥウウ〜
まるで救急車が来た時のように遠吠するのは、ルーシーか誰かに気づいて欲しかったのだが、無情にも車は停止すること無く走り続け、やがて高速道路の入り口に到着した。そのまま進み、高速道路に乗る。
本当に、遠くへ行くようだ。
まだ時折ワンワン鳴いて、興奮状態のブチだった。
荷物がたくさんあっても余裕があるから、後部座席で寝られる。
ふとリュウセイは、眠ればあいつに会えるかも知れないと気づく。
万能な存在のあいつなら、何とかできるかも知れない。
もしかしたらと、一縷の望みにかけてみた。
……
ウゥ〜 ウゥ〜
(おい、お前、早く出てこいよ!)
だが横になっても、その間に死にやしないかと不安になって眠れない。
気がはやるブチは、ウンウンうなるだけで、何も起きなかった。
ヒカリはラジオを聴きながら、無言で高速道路をずっと運転している。ルームミラーから見える顔は、無表情だ。ただ運転にブレがない。どうやら行き慣れた場所らしい。窓から見える風景は、どんどん山深くなる。
ブチの苦悩を知ってか知らずか、車は高速道路を降りて一般道に入った。
どのくらい時間が経ったのか、ブチは分からなくなる。
「ブチ、着いたよ」
後部座席のドアが開いた時、いつの間にかブチは寝ていた。
だが新鮮な空気が入り込み、我に返る。
ワウ? ワウ〜!! ワウ〜!!
勢いよく外に飛び出すと、目の前には森に埋もれた一軒家があった。




