6.梢(番外編: 重ねたその手で掴む未来)
ただ幸せの話を書きたかった
大学を卒業したその年、私は臨時職員として赴任した。
本当は普通に就職したかったが空きがなく、前任者が4月から産休をとるというこの学校にとりあえず入った形だった。
一年後、仕事を探さねばならないという段階で前任者の2人目妊娠が発覚し、そのまま育休の延長からの産休、育休となった。
結局はそのまま前任者は辞めるという話になり、三年目の途中から正式に就職した。
三浦春一は私の赴任の翌年にやってきた。
高校から進学校出身であり、大学は旧帝大の数学科卒の高学歴だ。
何故教員なんてしてるんだろう。
それが最初の印象だった。
だが、それは自分に向いてると思い、選択した結果だったのだろう。
愛想はそこまでなく、授業は厳しいが、分からないところを聞けばとことん教えてくれる。
生徒想いで相談事にはきちんと向き合い、道筋をつけてくれようとする。
ノリが悪くないので生徒からの人気が高い。
そんな風に生徒の評価を聞くたびに頭がよく、性格もいいとは天が二物も三物も与えたタイプの人なのか、と感じていた。
・・・多分、最初からこの人を気にしていたのかもしれない。
自分の気持ちに気が付いたのは私が正式に養護教諭として採用されたのを祝ってくれる飲み会でのことだった。
この時の彼はこの年に赴任してきた矢野明美に絡まれていた。
なかなか酒癖の悪い彼女は酒が入ると誰にでも絡んでいく傾向がある。
適当にあしらって相手にしていなのはわかるが、腕を絡ませられているその姿を見た時に嫌だと思った。
何が嫌なのか。
その答えに行き着いたとき呆然とした。
私はこの男が好きなのだ。
相手の情報は最低限しか知らず、人づての情報だけしかわからない。
会話はそこそこするが、仕事の話ばかりだ。
ほとんど一目惚れと変わらなかった。
何が好きか答えられないのだ。
まるで子どもの恋みたいだった。
一度自覚した感情は消す事は簡単に出来ない。
それでも、どちらか異動になればきっと消えてなくなる。
だから誰にもこの気持ちを明かす気はなかった。
* * *
「今更だけど、梢って呼んでいいか?」
そう言われたのはベッドの上だった。
彼の誕生日に色々とあって2人で飲みにいった。
その帰り、家にこないかと誘われた。
どうなるかわからないほど子どもじゃない。
捌け口としてだろうか。
酒に酔った気の迷いか。
それでもいいと思った。
好きだったからその誘いにのりたかった。
例えそれが一度限りの事だとしても。
私も酔っていたのだ。
でもそうはならなかった。
夜中に起きた時、彼は私の名前を呼ぶ事を望んだ。
朝になっても離してくれず、そのままもう一泊になった時には自分にも相手にも驚いた。
次の週末の約束を取り付けられ、合鍵まで渡される。
あまりの展開の速さに驚いたが、遊びじゃないと言われた気がした。
次の週末に家にいけば机の上にあるのは女性モノのシャンプーとコンディショナー。
何を使ってるのかと問われ何気なく答えたのを買ってきてくれていた。
そんな些細なことが物凄く嬉しかった。
その週には平日にも家に訪れる自分がいて、食事を作れば喜んで食べてくれる。
意地が悪く揶揄われるけれど、優しく気遣われる時間が増えるほど甘やかされていく。
その甘美なひと時に依存していく自分がいるも、心の何処かで彼の負担にはならないようにと冷静に思う自分もいた。
二十代後半、三十目前の微妙な時期だ。
女には色んなタイムリミットが存在する。
この年齢でよく話題にされるのは結婚の2文字だろう。
その単語が重いと感じる男性も少なくはない。
こんなに幸せなら、このままいつかと思ってしまう乙女な自分と同時に重たい女だとは思われたくないと考える自分が交差する。
だが、それも杞憂だった。
同僚が飲み会で以前私が話していた結婚願望を耳にした彼は結婚しないかといった。
まだ付き合いだして1ヶ月も経過してない時の話であった。
勢いに任せるままに近いかもしれない。
だけど、彼の手をとっていられるチャンスを逃したくなくて結婚を承諾した。
そのあともとんとん拍子だ。
11月に籍を入れる事を決め、上司にすぐに報告した。
どちらかが転勤になり、遠く離れるのを嫌ったことや今後の子どもの事を考えて年度末退職も決まった。
1月に2人だけでの結婚式があげれるフォト婚プランの空きが出たところを押さえて、結婚式も決まった。
有難いことに辞める前に取れるものは取りなさいと休みの調整もしてくれた。
「こんなに幸せでいいのかな」
騙されているんじゃないかと思えるほど思い描いていたような幸せの形になっていく。
それが恐ろしくて不安を口にすると彼は囁くように甘い言葉をくれる。
「今与えられている状況に甘んじたらいい。俺がいないとダメな人間になるほどドロドロにしてやるから」
重ねられた手を握りながら恥ずかしくなってその肩に顔を埋めた。
こんなにも積極的な人だとは思ってもいなかった。
重ねた手のように2人の重なった日々の先にはどんな未来があるのだろう。
悪い未来なんて何一つ想像できない。
この人がこの人である限り私はきっとこうしてぐずぐずに甘やかされていくことだろう。
「好きです」
「よく言えました」
頭を撫ぜられ、落とされるキスは本当に愛しいものを愛でるような物だった。
恋に恋した少女のようで、本当は騙されていたとしてもそれはそれでいいと思えるだろう。
それだけ私の人生の中で濃密で幸せなひと時と胸を張って言えるのだからそれでいい。
* * *
冬休み前の就業日に他の教員に結婚した旨を伝える時間を取ってもらった。
「交際期間はそんなに長くありません。公私を明確にする為にも早々にこのような形になりました。これ以上の質問は受け付けません。以上」
探りを入れ始めた周囲に彼は妙な説得力と意志の強さで有無を言わせぬ塩対応だ。
その分、私に質問が集中したが、のらりくらりとかわした。
結婚式を予定通り2人だけであげ、数日間温泉地を回って細やかに新婚旅行を終えると日常が戻ってくる・・・はずだった。
「大丈夫か?」
「・・・あんまり。でも、今日はいかないと・・・」
旅行から戻ったあたりから家でも仕事中でも眠気とムカつきが起こるようになった。
それが突然前日からどんと身体にのしかかり、この日は少し動くことも億劫でソファから動けないでいた。
最初は疲れがでたからと思っていたが、よくよく考えれば恐らく違う理由だ。
病院にいかなければと思うが、週末までいくことはままならない。
ギリギリ冬休み中であるが、あくまでそれは生徒だけだ。
行かねばいけない仕事がある。
「もしもし?はい・・・妻なんですが・・・」
何処からか電話がきて彼がその場からいなくなった。
戻ってくると、水のペットボトルを渡してくれる。
それを少しだけ口に含めば僅かにスッキリするが、気持ちは悪いだけである。
「教頭からの電話の折り返しがあった。梢は今日有給、俺は半休で病院連れてけってさ」
「えっ・・・?」
「俺の責任ですからね、梢の事も子どもの事も」
「・・・わかってたの?」
「わかるよ。ほら、時間まで横になったらいい」
軽々とお姫様抱っこで抱え上げられ、そのままベッドに横にされた。
調子が悪く気がつかなかったが、体調が優れなくなってからよくよく考えれば彼がほとんど家事を担ってくれていた。
甘やかされるとは本当なのだとしみじみ思う。
病院にいけば結果は予想通りで妊娠していた。
夏の終わりか、秋の初め頃に出産予定である。
人生動き出すとこんなに上手く回り出すんだろうか。
そう疑問に思えるほど次々と幸せがやってくる。
学校が始まり、吐気どめをのんでもあまり効かない日々を乗り越えた3月。
授業もあと少しというところで体育館で全校集会があり、その後は一年生だけ残されて来年度のクラス分けに向けての話が夫の口から為された。
「・・・ということなので、残り1週間。今のクラスを充分楽しむように。あと、ここで退職される先生の話なんだが、学年主任の・・・」
この学年で転勤に出る先生はいない。
退職する学年主任の話がされ、離任式は別にあるので軽い挨拶がなされた。
「お前達もお世話になったんだし、会える間に沢山お礼をいうように。あと、養護教諭の佐藤先生も退職される。佐藤先生一言お願いします」
マイクを渡されると、ざわざわと声が上がった。
ボソボソと聞こえてくるのは少し出てきたお腹についてである。
体型カバーが出来る服を着だしたのでわかる人にはわかるだろう。
「今回退職することになりました。実は去年の11月に結婚しまして、気付いている子もいるかもしれませんが、現在妊娠中です。そろそろ秋かな、という辺りで出産の予定です」
一気にそこまでいえばとても盛り上がりを見せる。
あちこちから質問と歓声が飛び交うので、どうすべきか悩んでいると、彼がやってきたのでマイク渡し、一歩下がった。
「はい、そこまで。離任式にでも話を聞け」
離任式では質問が出来ないと大きなブーイングが上がるが、次の一言は生徒に大きな衝撃を与えた。
「業務連絡だが、11月に俺も結婚した。以上、戻れ」
こんな集団が一瞬言葉を失う瞬間を見るのはなかなかないだろう。
次の瞬間、大歓声が起こるも、教室に戻るよう別の先生が誘導を始めた。
私はといえば彼にそのまま端へと誘導される。
この後、教室で大変だろうなぁと思ったのは言うまでもない。
* * *
予定より少し早い8月末だった。
元気な男の子が生まれた。
その小さな手に指先をよせれば、ギュッと握ってくれる。
その上から大きな手のひらが重ねられた。
この手に幸せな未来を掴んでいこう。
重ねたその手で掴む未来…fin.