王都の夜2
スミルナは女に干渉するのを諦め、眼前の敵に集中する。
吸血鬼に挟まれた形、女は約十メートル後ろ、目の前の吸血鬼の男は少し後ろに引いて「へへへ」と気持ち悪く笑う。挟み込みを維持するつもりか。
それにあの女が殺され・・・・・・いや血が目的なら殺さない。それ以外の目的もあるのだろうし。魅了、支配を受ければあの女も敵になる。つまり三対一、火急に目の前の男を斬るべき。
ただし、そうなれば闘わず逃げる選択肢もある。足には自信がある。さらに魔道具の効果で加速できる。
周囲の道幅はそれなりで、入り組んだ路地ではない。工房などの敷地は空いていて突っ切れる。地の利、時の利は敵に、それでも考慮に値する。
しかしスミルナにはその選択肢は無かった。
(戦士団長の娘が逃げる訳にはいかない、母に恥をかかせるなら・・・・・・死んだほうがましね。私が両方斬れば済む話よ)
流星剣ヒターには、恐怖に耐え士気を高める効果がある。
故に退く判断には流れにくい。それが有利か不利か、状況次第だろう。
スミルナが腰のベルトに引っ掛けていた直径二十五センチの円形で数多の目が描かれた小盾――百目の眼光を左手に持ち、真っすぐ相手に突き出して構えた。
相手は自分と同じくローブで身を包んでいる。鎧の有無は不明だが、吸血鬼の限られた弱点の一つ、心臓は保護していると考えるべきだ。
(首を落とすか、頭部を穿つか)
男が腰にあった長剣を抜く。
「俺達二人からは逃げられえぜ。観念しな、痛い目は見たくないだろ?」
スミルナは変わらずにやける男の言葉に耳を貸さず、前に出る。
相手の間合いギリギリまで高速で踏み込み圧力を掛け、余裕のある状態で攻撃を誘う。
時は無いが、初めて戦う未知の敵、情報収集の手順は踏むべきだ。
思えばこれまでは仲間が情報を集めてくれたし、不測の事態ならザンロがまず盾になてくれた。今は自分一人だけ。緊張で体が硬くなる。
「馬鹿が」
男が長剣を大きく振りかぶった。
――遅い。
スミルナは瞬時に加速し、半分も振り下ろしていない剣を、百目の眼光でパンチして弾き返す。小盾の理想的な使い方。男がのけ反る。滑るように後ろに下がりながら、軽く胴を突く。
ガッという鈍い音、硬い感触、何か鎧を着ている。金属音ではなかった。威力を増す戦技を使った全力の斬り込みなら、鎧ごと斬れるだろう。
「あら、随分遅いのね」
笑顔のスミルナに、男は顔を歪めて激高した。
「てめえ、もう手加減しねえぞ!」
怒りの形相で男は剣を大きく振る。確かにさっきよりは速い。だからといってどうという事も無い。
何度か軽く剣を交える。スミルナは男の剣を避け、受け流し、盾で弾き、逸らす。
男の剣術はちゃんと鍛えた風では無かった。無駄が多く、姿勢がぶれ、腕だけで大きく振っている感じだ。
「ちょろちょろしやがって」
そう吐き捨てた男が、ありったけの力を込めて両手で剣を振り下ろす。それを引いて盾で受けた。カーンと大きな金属音が響く。試しにまとも受けてみた斬り込みは重い。片腕では支えきれず、盾が衝撃で後ろに流され、手先が微かに痺れる。
戦いながらも後ろの状況が気になる。一人の戦いで奇襲は命取り。
スミルナは位置関係を変えるべく、その速度で横を突破する動きをした。
「逃がすか!」
叫んだ男が目一杯踏み込み、スミルナの進路へ剣を振った。スミルナは無理せず下がる。
何が何でも逃がす気は無い、そんな動き。男が強引に動き、距離ができた隙に、後ろを素早く確認する。
女はまだ吸血鬼と戦っているようだ。向き合って立っている。女には戦闘能力がある。これは朗報、スミルナの精神が上向きになる。
(まだ大丈夫。落ち着け、落ち着くんだ、相手は自分より遅い。剣の技術もこちらが上、これは演技じゃない)
ただし吸血鬼の怪力は有名だ。無駄の多い剣技であの威力。素手で殴り合えば勝ち目は無い。〈生命力吸収〉もある。掴まれることは避ける。
そして不死者に疲労は無い。男は止まらず向かって来る。
男の見定めを終えたスミルナは攻撃に出る。
相変わらず大ぶりな斬撃を姿勢低く回避、即座に手首を返し下から斬り上げた剣は、剣を持つ右手前腕に長い切れ込みを作る。
振り抜かれた剣を追いかけて血が飛び散る。しかし大きな出血は無い。少し傷口から血が垂れた後出血は止まる。元々、不死者であるし〈高速治癒〉が傷を塞ぎ、目に見える速さで回復していく。吸血鬼の厄介な特徴。
流星剣ヒターは名剣だが、片手持ちの小剣では骨まで達しなかった。しかし、戦技無しで一定の傷を与えたスミルナは気を良くした。
「逃げなんてしないわ、きっちり討伐してあげる。邪悪な化け物め」
「なぜ、なぜだ?ここまで斬れるとは」
腕の傷をまじまじと見た男はようやく焦り出す。しかし痛みは無いのだろう、危機感は薄い。
(二人目が来ても多分大丈夫、こいつと同じぐらいなら何とか)
男は思い出したように急に、ギュッと力を入れ眉間にしわを作り、その赤い目を見開くと、スミルナの顔を凝視してきた。何らかの精神効果を持つ魔眼。
何も感じない。赤三ツ星ハンターならば当然の精神系対策、他にも基本的な耐性は揃えている。
さらに流星剣ヒターは今では製造困難とされる魔法金属の一種、星青銅製。吸血鬼の特殊な耐性を突破する。
もう待つ理由は無い。初めてスミルナから仕掛ける。
峻烈な右方への踏み込みから小さな弧を描く斬撃。これが男の左手上腕を縦に切り裂く。
「があっ」
男が遅れて反応、荒々しく斜めに振り下ろす。
これを待っていた。
姿勢を低く左へ鋭い動きで身をかわし、振り下ろされる長剣の流れに逆行するように斬り上げる。
意図した通り、剣をかすめる限界の回避。狙いは正確、男の左手薬指、小指が飛び、道に落ちた。
「あらあら、指が無くなったわね。それは治らないでしょう」
腕は簡単に断てないが指は違う。そして生えてはこない。
「魔法の武器、なのか。俺の指、俺の指がああぁ」
男はこの段になり、やっと本物の感情をむき出しにした。余裕が無くなったのだ。
(私が誰か知らない。狙っての襲撃でないなら大掛かりな準備は無い。そぎ落としていけば殺せる)
もうスミルナには勝ちしか見えていない。負ける要素は存在しない。
状況は不安定な戦いから、情報の揃ったいつもの戦いに移行している。
「グオロォオオ、殺す殺す、八つ裂きにしてやるぅ」
男の絶叫が夜の静寂を切り裂く。
スミルナを睨みつけるその表情は、人からかけ離れたものになった。
全ての筋肉が怒りに動員され青白い顔を異様に歪め血管が盛り上がる。赤い目は瞳孔が開き肉食獣のように丸く、うなる口は切れたように横に深く開き、牙は一層際立った。
吸血鬼は興奮すると人間以上に理性が無くなるという。人と同じ姿をした者が狂気をはらむ姿は恐怖をかきたてるものだ。常人であれば、気圧され動けなくなるだろう。
だがしかし、それがどうした。
この方がやりやすい。獣の相手の方が慣れている。
スミルナは戦技の流星剣のみを発動。他の戦技を同時発動するのは彼女には厳しい。
さらに、流星剣ヒターの効果は一日三回、魔剣使いの能力でさらに二回と限られている。戦技だけ足りるとの判断。築きあげた常勝の型。母と父の剣技で魔物を討つ。
速度、それは彼女にとって、常に有利をもたらす性質だった。さきほどの母以外で、彼女の速さを超えた者はいない。
こうなれば、敵の攻撃は無いに等しい。圧倒的な速度で空振りを誘い、次々に放たれた斬撃は、腕、肘、肩、太ももを切り裂いた。男の動きが少し鈍る。
不死者は骸骨が骨だけで動くように、筋肉の状態と無関係に体が動くが、歪みや欠損が生じれば動きにくくはなる。
そして次、両目を狙う。目を潰し、回復する前に首に連撃を加え落とせば終わり。
スミルナが動くと、男は躊躇なく左腕を盾にした。目を狙った斬撃は左腕を斬ったが腕に感じるゴリッと擦れる感覚、やはり骨は断てない。
「コロオゥス」
男が適当に振った剣を軽く下がってかわす。
目を守れば多少視界が遮られる。直接首を狙うまで。
スミルナがここまでで一番深い踏み込みを見せた。最大の力で首を右から薙ぐために。
しかし右、近距離から足音。誰か来たのか?一瞬の混乱。
攻撃を遅らせ、視線を右に動かす。何も無い。
「が!」
突然、左からの衝撃。体が右に流れる。彼女には何かを考える余裕は無かった。
そして左腕に痛み。何かが当たったのは左腕だ。百目の眼光がカーンカランカランという高く響く音を立てて道に転がった。
彼女も態勢を崩し、右肩から道に転がる。しかし、その回転を利用して速やかに跳ね起き、右手の剣を前に構えをとる。
しかしその際、左腕は動かなかった。動かそうとした時、耐えがたい痛みが脳を打ちのめす衝撃となって襲い、声を上げることもできなかった。
(左をやられた、肘の辺りに攻撃を受けた)
左腕の激痛と手先の痺れと、攻撃を受けたという事実に、呼吸が荒く、浅く、早くなった。左手には力を入れることもできない。完全に使えない。
そして状況を理解する。左側に別の男が出現している。衝撃の元は蹴りだろう。武器は持っていなかった。もしも、まともな武器で攻撃を受けていれば死んでいた。
彼女が完全な奇襲を受けたのは人生で初めてだ。
周囲はいつもチェリテーラの感覚やグラシアの魔法で警戒している。
(魔法使い!?しまった、幻の音、こんな初歩的な手に)
スミルナは、あの女がやられたか?と思ったが違う。これは三人目。
一瞬、反射的にあの女に目を向ける。相対した吸血鬼が衝撃を受け後ろに下がるのが見えた。華奢に見えたが、《武僧/モンク》か、接近戦が可能な魔法使いか。
しかし、あっちを気にする余裕は無い。
最初の男は、相変わらず彼女を追いかけ回しながら剣を振り回している。
そして追加された三人目。チリチリの長髪をした中年の男が、短剣を取り出した。
この男は陰からこそこそとスミルナに魔法を《睡眠/スリープ》などの魔法を掛け続けていたが効果が出なかった。ばれるのを承知で、攻撃魔法に切り替えようとしたところで、仲間が危機に陥ったので焦って出て来たのだ。
二対の赤い瞳がスミルナの視界で動き回る。
「この女、魔法が効かないぞ、相当な装備をしている素人じゃない。気をつけろ」
「ナラア、手足をへし折って持って帰れば済む話だろうがぁぁ」
「後で指は拾っておけよ」
「こんなものはすぐに治るわっ!」
手堅い小盾と小剣の型、攻撃重視の二刀流、どちらも不可能。
百目の眼光には敵の目を出血させる効果があったが、吸血鬼相手では無意味だから、それが使えない事自体は別に良い。
しかし慣れない型で二人を相手する必要がある。特に攻撃力不足が問題だった。
(剣一本だけ、子供の頃に剣を習い始めた時以来か、実戦ではやらないけど)
ひたすらに不利。純然たる戦況の悪化。死への階段を上って行く。
しかしこれで前のめりの功を焦る思考が消し飛ぶ。
初の死線。体が良く動く。スミルナの心中に横たわり眠る獣が目を覚ましつつある。
心の濁りがスッと洗い流され、穏やか高揚がじんわりと身を包んだ。
腕の痛みは感じなくなってきた。
(先に殺すべきは魔術師、何をしてくるか分からない)
チリチリの方を無理してでも定期的に攻撃し、精神集中の隙を与えない。しかしそれだけだ。普通の魔術師なら少しずつ斬れば良い。しかしチリチリも吸血鬼だ牙がある。
「おい、壁になれ、前に出るな、魔法でまず足止めするんだ」
「知るか、自分でやりやがれ」
チリチリが苦い表情をする。幸い、二人は連携を取れていない。最初の男は動き回り、チリチリは逃げ回る。
ライフポーションはある。高品質で、熟達した《中傷治療/キュアミドルウーンズ》の魔法が込められている。五万セメル近くする品だ。骨折でも瞬時に治る。
ポーションとは魔法液薬の総称である。例外無く魔法的な効果を発揮するが、二種類存在する。魔法使いが直接魔法を封入した物と、魔物の部位や鉱物を手間を掛けて磨り潰し混ぜた特殊な効果を生み出す物。
どちらも体に振りかければ効果を発揮するが、それだと無駄が多いので通常は飲む。なお物に使うポーションは粘性があり塗布する形で使用する。
他の魔道具も似たようなものだ。特殊な材質記号に魔法を封入、特殊な素材を加工して組み合わせる。上位の魔法の使い手、加工技術、素材となる上位魔物の確保手段、これらが失われたために、大戦前の物は貴重になったのだ。
つまりポーションは振りかければ効果は減るが一瞬で使える。しかし左手の肘から先は全く動かない。ポーションを取り出せない。
「オラア、さっきの威勢はどうしたあぁ」
今も無茶苦茶に剣を振り回し斬りつけてくる最初の男は捌ける。しかし後から来たチリチリが魔法を使わないように牽制する必要がある。右手の剣は手放せない。
距離を取りたがるチリチリと一定の距離を維持しながら、最初の男の相手をする。
最初の男に斬撃を入れると、すかさずにチリチリにも攻撃する動きを見せる事を繰り返した。
もし後ろの吸血鬼が来たら防げない。しかし不思議と女の戦闘が終わりそうにないと思った。吸血鬼の気配とぶつかる巨大な獣の如き気配を背に感じる。野生の匂いすら嗅ぎ取れそうだった。
――後ろからは来ない。自分がこの二匹を食い破り、それから後ろの奴も斬る。