帰郷
ザメシハでも北部にある冬の森は、オッドカエラ山地から吹き下ろす寒風に晒されている。不機嫌なパン職人が生地をこねるように風は強弱の幅が大きく不安定で、強い時には大木さえも倒す。
寒風に対抗するため深く被ったウィッチハットから、緑に少しピンクが入り混じった髪が見える小さな魔女ペーネー・デゥーネが、向かい風にマントを煽られながら、乾いた目を細めて森を前進する。
木々は完全に落葉して、枝が少なく物寂しい白の樹形が自然の規則に従って立ち並んでいる。
踏みしめた大地は乾燥した様子で、彼女が歩くたびに枯れ葉が乾いた音を立てた。
しばらくして彼女が立ち止まり、ベルトから木の短杖を取り出してた。
ペーネーの眼前には青々とした若葉を茂らせた木々、所々に群落を成した様々な花々。足元では世界がくっきりと分かたれていた。ここまで続いた冬の世界と春の世界に。
一歩先は超常の力が働いている。拒まれれば進めない。はっきりと見て取れる結界を、彼女は覚悟を決めて跨ぐ。踏み出した足を下ろせば、柔らかい音がした。
(入れた)
暖かな空気に彼女はほっとして、少し緊張がゆるんだ。
しかし、そこから数歩も進まぬ内、雉猫が彼女の進行方向十メートル先に、横合いの草むらから音を立てて飛び出した。雉猫は赤いマントを着て大柄で焦げ茶色と黒色の模様で、胸は白くなっている。
「ニャッー!」
猫はペーネーを見ると、耳をつんざく甲高い声で叫び、突如として後方宙返りを途切れなく十回ほど繰り返した。その様子は輪っかにしか見えなかった。
ひと段落すると停止してペーネーを見た。
邪悪な獣面獣心の怪異、その凶悪なヘーゼルの瞳はまんまるでらんらんと輝く。
それは良く知った存在だった。
「出たな、暗愚に日々上質な惰眠を貪り、悪辣な道楽にかまける奸才溢れし絶対悪め。今こそ滅してやる」
ペーネーが短杖を構えた。
「これはこれは懐かしい獲物がやってきましたの、ニャッ!」
ネコは語尾を大いに強調すると、ぬっと立ち上がり二足歩行になった。
「大人しく逃げ延びておれば無駄に命を散らす事も無いものを、ニャニャニャッ。わざわざ戻って来るとは愚かな、ニャッ」
ペーネーが集中して全身に魔力をたぎらせた。そこから連続して呪詛、魔法を放つ。
「呪われよ、《舌噛み/バイトタング》、《毒弱体/ウィークポイズン》」
「無駄無駄ぁ、ニャッ」
直立した恐るべき悪は魔法にたやすく抵抗し、軽やかな足取りで加速して彼女の背より遙か高く飛び上がった。そのまま彼女目掛けて落下する。
「《鉄の如き布/クロースライクアイアン》」
ペーネーが発動できる状態で待機させていた魔法を使った。マントが柔らかな鉄と化した。そのマントを鮮やかに脱ぎ去り、そのマントで突っ込んで来るネコを受け止めると、一気に巻き付けていく。
「こんなもので我は止められぬニャ、覚悟するが良い小娘ぇ」
ネコがマントの中でバタバタと暴れている。その腕力はペーネーを完全に上回っているが、マントを魔法で操作して巻き付け続ける。
「修行の成果を見せてやる。《猫地獄の執行者/エンフォーサーオブキャッツヘル》」
暴れる猫を押さえながらで精神集中は極めて困難だが、何度も頭の中で想定した状況。悪を討とうとする極限の集中が魔法の発動を成功させた。これにより地面の一部、手の平ほどの広さが黒くなった。よく見れば黒くて薄い粒粒の集団である。
「行け!攻撃開始」
小さな黒の敷物が分解していく。跳び上がったのはノミであった。ノミがマントの中に突入していく。
「なんなのニャ!?」
ネコがマントの中でもがく。
これはフォレストに見せてもらった様々な猫系魔法を参考にして編み出した猫特化魔法。ペーネーが執念で開発に成功した二つ目の中位魔法である。
単なる魔法のノミの召喚術であるが、妨害効果は高く、抵抗困難である。重ね掛けするとより威力を増し、一応はこの魔法だけでもネコ科生物ならを殺せる。なおこのノミはネコ科生物の血しか吸わない。
「これはニャニャニャニャッ、かゆいニャ、何なのニャ」
「思い知ったか糞猫め」
「負けるか!ニャ」
マントの包みがバッと勢いよく解かれ、自由を手にしたネコがペーネーの足にまとわりついた。
「離れろおぉ、糞猫があぁ」
「ニャニャ!昔のようにおねしょした下着の様子を近隣の村々にお知らせしてやるのニャ、《イメージ転写/イメージトランスクリプション》でしみの形も匂いも正確につまびらかにお知らせするニャ、さらに下着に命を与えて国中を旅させて汚れを隅々まで見てもらうニャ」
ネコはペーネーの股ぐらに顔を突っ込み、爪を立てて下着を引き下ろそうとした。
「もうそんな年じゃない!既に《掃除/クリーン》を使っている、汚れなんて無い。ジョセット!こいつの動きを封じるのよ」
ペーネーの使い魔である羽根の生えたトカゲであるジョセットが、ポーチから出てきた。そして《蜘蛛の巣/ウェブ》の魔法の準備に入った。
その時、すぐ近くの高い位置から声がした。
「何やってんのよ、あんたら」
気だるげな顔で声をかけたのはペーネーが良く知る女性である。年齢は知らないが見た目は老いていない。顔は整っていて目の色は明るいオレンジ色、腰の辺りまである髪は赤、朱、橙、黄などの暖色が混じり合っている。
長身で薄い青紫のマーメイドドレスに青のケープを羽織り、青のウィッチハットは尖っていて、全体は傘の閉じた細いキノコのような印象があった。
ミュシア・エリクデゥーネ、ペーネーの師匠の《女呪術師/ウィッチ》である。
「師匠・・・・・・これはですね」
「ケオテン、離れなさい」
ケオテンは師匠の使い魔の猫妖精。
ペーネーにとって不倶戴天の敵である。
「今丁度下着を引っぺがす良い所ニャ、もう少し待つニャ」
「さっさと離れろ」
ミュシアがドスが効いた低い声で言った。ケオテンが渋々離れる。
ペーネーが衣服を直して立ち上がった。
「また変な魔法ばかり作って」
ミュシアが微かに笑った。
「《猫顔から犬顔/キャッツファイストゥドッグフェイス》《ねじれる尻尾/ツイストイングテイル》の魔法も開発しました」
「何ておぞましい魔法を作ったニャ、全猫の敵だニャ」
ケオテンが後ずさった。
「で?どうしたんだい。忘れ物でもしたのかい」
ミュシアが見下ろして言った。
ペーネーは少しうつむいて、上目遣いで師の顔を覗いて言う。
「その・・・・・・また学ばせていただきたく」
「へえ」
この師はあまりはっきりとものを言わない。表情もあまり動かないもので何を考えているか分からない。
「それなりに稼げたのでお金はあります」
「生憎、私の作るジャムに薬草茶にタルトは金では買えないのさ」
「経験を積んで少しは役に立てるようになりましたから」
「何の役にも立ちはしないのニャ」
ペーネーがむうとケオテンを睨んだ。
「お前は黙ってなさい。まあ、部屋は空いてる。居たいなら居るといい。金なんていらない」
「ありがとうございます!」
ペーネーが弾んだ声で言った。
ペーネーは師がまた迎え入れてくれるか不安だった。別に喧嘩して出て来た訳ではないが、一人前として外に出たのだから自律しろ言われてもおかしくない。
お金はあるしハンターとして活動しよう思えば、コフテームに戻ればいい。しかし、ハンターとして活動したい気分ではないし、魔術を学ぶなら師の元が最善だと思った。この森の外では魔物の生態から発掘物、人々の行動原理まで多くを学んだが、魔術の研究には向かなかった。
ミュシアが森の奥に向かうのでペーネーもそれに付いていく。
「ジョセットは変化無いようだね」
「そうですね」
「爬虫類、両生類は大体大きくなるものだけど」
「大きくなると運べないので、サイズはこれぐらいがいいです」
「使い魔が育たないと深くは交信できないって言うけれどね。まあ、引っ張って伸びるものでもない」
そこから魔術の話などを色々と話している間にミュシアの家に着いた。ペーネーも長く過ごしたツタ類が巻き付いて緑に覆われた小さな木造の家だ。
中には前と同じく、乾燥した薬草や動物のミイラ、瓶に詰まった薬品、大鍋、水晶玉、未だ使い方を知らない器具などが雑多に置かれていた。
二人はその中のツタで編まれた椅子に座った。
ケオテンは外へ出て行った。どこかの木の上で寝るつもりだろう。
「外の様子はどうだった?」
「そうですね――」
ペーネーは自分がハンターになってからのこと簡単に話した。あの遺跡での出来事まで。
「遺跡の防衛装置は自動販売機というものだそうです」
「自動販売機?」
「そうです。知ってますか?」
「知り合いから聞いた事はあるね、昔、派手に暴れたとね」
知り合い、という言葉は師匠から初めて聞いた気がする。師匠の個人的なことは不明だ。年齢も知らない。セプテミウムの森から来た、とだけ聞いている。
「私の魔法は全く通じませんでした」
「まあ、機械には相性が悪かったかもね。で、お前が逃げた後、ハンターを総動員でもしたの?」
「いえ、残った二人が破壊しました、あと大きいネコです。きっと性格の良いネコだと思います。あれと違って」
「・・・・・・倒したと?レーザーを撃ってくる奴だろう。鎧も耐えられないと思うけど。全力で加熱するか、電撃を気長に撃ち込むかになりそうな戦いと見たけど」
「バラバラでした。最終的に切り刻んだのだと判断しました」
珍しく少し師の表情が動いたようだ。気だるげな目が普段より開いている。
「その二人の名前は?」
「ルキウス・フォレストさんに、ヴァーラ・セイントさんです」
「フォレスト、セイントねえ」
師の目はまた元に戻って、右の方を見ている。
「何か知ってますか?フォレストさんは師匠みたいに隠遁してた人かと思うんですけど」
「いや、一切知らないよ、どこからやって来たのやら。気になるねえ」
「興味あるんですか?外なんてどうでもいいって言ってたのに」
「突き抜けて強い奴、確実に歴史に名が残るレベルなら興味はあるのよ。赤五つ星の連中みたいねに。私が興味があるってことよく覚えておきなさい」
さらにミュシアが尋ねた。
「あんた、その二人の苗字の意味を知ってるの?」
「え、聞いてないですけど?」
「知らないならいい」
「師匠は知ってるんですか?」
「さあ、どうかねえ」
ペーネーはそこから戦闘の様子を聞かれたがすぐに退場したし、それまでもほとんど戦っている場面を見ていないので、あまり説明できなかった。
「しかし無傷ねえ、流石に疑わしい」
「まあ、治療したのかも知れませんけど、最初にセイントさんの首が落ちたように見えたのですが、幻術だったようです」
「・・・・・・世の中には死んでも復活する存在もいるけどね、一部の天使や精霊は事前の準備があれば死んだ瞬間生き返ったりするし、他に特殊な魔物は居る」
「セイントさんは人間ですよ、すごく強いですけど」
「・・・・・・まあ、そうだろうねえ。その遺跡の中身は何だったんだい?」
当時は遺跡の中身を気にする気分ではなかった。だから覚えていない。覚えている物だけ答えた。
「自動販売機の中に缶ジュースという物が入っていました。甘くておいしかったです」
「そう、数百年前の味、貴重な経験だ」
そう貴重な経験だった。トレジャーハンターが目指すべきものだ。
「仲間にも・・・・・・飲ませてあげたかった」
ペーネーの目から涙がこぼれた。
我慢しようと思ったが無理だった。思い出してしまうと駄目だ。
パーティーが活動不可能になり、一旦師の元で鍛え直そうと考え、コフテームをたってから、魔法のことだけ考えていた。あの時の事を思い出すと他に何も考えれなくなるからだ。だから忘れようとしていた。
あのまま行けば少なくとも五つ星には成れただろう。地図もあるしちょっとした遺跡ぐらいは発見できたはずだ。それが喜ぶべき遺跡の発見で、全てが終わってしまった。ドニとレニの声を二度と聞く事は無い。一緒に食事もできない。
ミュシアはペーネーの頭を優しく撫でた。
「居たいならいくらでも居ればいいさ」
「鍛えたら出て行きます。自動販売機に勝てるぐらいまで」
ペーネーが指で涙をぬぐって言った。
「さあ、どうかねえ」
「もしくはネコの毛を全部焼き払ったら出て行きます」
「それも、どうかねえ」




