一国の終焉
シュットーゼは空から下を見て笑いながら、内心ではどうしようもなく困惑していた。
彼の中では大規模な魔術的地殻変動で大きく流され見失った遺跡、血族主の別荘であり、保管庫を探り当てた時点で勝負は終わりだった。
そこにはかつて彼が管理を任されていた思念具として使用可能な文化財が山ほどある。当時は力不足で扱えなかった思念具も、五百年の研鑽を積んだ今なら扱える。
肖像画の最高峰の一つと言われ、多くの人々を魅了したデュレイル夫人の肖像画、十万人以上を吊るして切れたエレイ・フシフチ市の絞縄、劇作家でもあったフェッチ博士の球形レンズ顕微鏡、神代に生き無双の戦士であったデリン建国王の剣、神代より後では最高と目される大召喚士ジャゴンが子供の頃飼っていたウサギの剥製。
持ち出した五つは一国を滅ぼせるだけの能力を発揮する古い思念具。
それでいて五百年ぶりに再会した愛しい品々、負ける訳が無い。
それを使って、長きに渡る退行と腐敗で過去の栄光が膿み、退廃ですらない旧文明の絞りかすを消し去り、人類を吸血鬼が支配する美しく高貴な秩序を作り上げ、真の文明を復興するために、まずザメシハの西部を手中に収める。
そのはずだった。
しかし起こりえない事が起こり続けている。
「次元半球をすり抜けられた時点で、物資を回収して撤退するべきだったか……」
破壊された場合は即座に撤退する予定だったが、すり抜けられるのは想定していなかった。
その後、迷宮に飲まれた同士の状況が不明で撤退ができなくなった。死んだとわかれば、すぐにでも別荘内の二人を連れて撤退できるのだが。
この状況の元凶、遙か下の大地でこちらを見上げている仮面の男。
吸血鬼の身体能力に対応し、最高位の魔法を平然と使う。さらに隠して使っている即死効果や毒に精神系魔法の影響を受けている素振りが無い。
ダメージがあるように見せているのが演技なのは途中でわかった。
人間かどうか疑わしいが、少なくとも不死者ではない。
シュットーゼは千メートル以上に高度を上げた。この高さなら大半の魔法の射程外、魔法と同時にくると厄介な投擲も届かない。
「《収束雷撃/コンバージライトニング》」
彼の前でパチパチと音を立てる細い電流が無数に発生して、空中の一点へ脈打つように流れ集まり、電気の塊が膨らみ始めた瞬間、水滴が重力に負けて落ちるよう塊がこぼれる。
轟音と共に曲がりくねった太い雷が地上を打ちつけた。
地上からは煙が上がっているが、恐らく当たっていない。周りの高木が壁になって電気を誘引した。木が邪魔で見えないが多少ダメージがあっても回復しているだろう。
「厄介だな、どうやればあれだけの木々を操れるのか、やはり距離を取って殺すのは無理か、化け物め」
つぶやいていると、地上で微かな瞬きが見えた。
次の瞬間、地上から放たれた真っすぐな雷撃がシュットーゼを直撃した。
しかし、既に自身へ《上位・風属性遮断/グレーター・エアブロック》を付与している。風元素に属する全ての魔法的現象は目標に到達せず無効化される。受けた雷撃は彼にも思念具にも一切の損傷を与えない。
彼が有するスキル〈思念具への愛〉、これで自分と思念具の耐性を共有できる。
長距離なら単発の魔法ダメージは必ず防いで見せる。しかし魔法と物理で同時に攻撃されると無理だ。
下を見れば仮面の男は普通に走っていた。
それが彼には解せない。今、奴がいる場所は《静かな死/サイレントデス》で酸素密度を減らして透明無臭の毒が立ち込めている。毒は耐性で防げても酸欠になるはずなのに。
「やあ、アーケイン氏、元気だね。でもそんな遠くじゃあ吾輩の思念具は壊せないよ、フアハハハハハ」
シュトーゼが大きく手を叩きながら馬鹿笑いする。
本当に元気過ぎる、どうなっているんだ、頭がおかしくなりそうだ。
「ならさっさと降りてこい。全部粉微塵にしてやろう」
返ってきた声はこれまでと変わりない調子。仮面のせいで何を考えているのか全く読めない。
「いやあ、どうしようかなあ、君が飛んで来れば良いと思うよ、ハハハハーハハハ」
人を食ったような笑い声が長く響く。
数百年に渡って演技をしてきた彼は、窮した時こそ、それを表に出してはならないとよく心得ている。だから動作は常に大きく、顔で言葉で余裕を表現する。
敵に圧力をかけ、味方を安心させ、平時でも魅力的に見える。
この振る舞いは彼の好きな歌劇の役者をまねている。
潜伏中の吸血鬼は大抵目立たないようにしているものだが、彼は違う。
主が討たれ、報復を計画する仲間を放置して即座に逃亡した後も、堂々と公職に就いていた時があるし、地域社会で主導的な立場にあることが多かった。
五百年その演技を支えたのが、目として使っている驚殺の魔眼と、最近はガラドの雫と呼んでいた奇術師の悪戯。
この二つは神代の奇術師が作り上げた魔道具であり、魔術全般に向いた思念具。
驚殺の魔眼は目の代わりに機能し、視覚系能力に優れた魔法の義眼で、色を自由に変えられる。色は偽装も兼ねて、憧れの血族主と同じ青色にしてあった。
そして月に一度使える光線は、最高位魔法に匹敵する威力がある必殺の武器だ。
これで仕留め損ねた相手はいない、さっきまでは。
吸血鬼の相手をする者は、魅了の魔眼を警戒して目をそらす時がある。逆に対策してある者は、視線を仲間から切るため前に出てくる。どちらも光線を当てやすい。さっきのも慣れた至近距離での必殺の体勢だった。
(なぜあれがわかった、攻撃系の魔眼を警戒していたのか? お互いに予知は相殺しているはずだ。考えても仕方ない、二発目は撃てない)
奇術師の悪戯は偽装能力に特化していて、鑑定時に表示される説明を自由に変更でき、装備者のオーラを自由に偽装できる。
日常では吸血鬼のオーラを完全に隠し、戦闘時は常に大きく見せている。
実際の魔力の残りは三割、思念力は一割しかない。
彼は追い込まれていた。問題はまだある。
彼のアカデミックガウンの中には、革のベルトのような固定具が体に密着する形で水晶を成形したビンをいくつも固定している。ビンには魔力を効率的に伝道する合金が差し込まれている。
上位の魔法使いがよく装備している一々手に取らなくても魔法の触媒を使用するための器具だ。
彼は大戦後、世が落ち着いてから三百年以上も眷属を増やし組織を拡大してきたので、金に困っていない。一般人には確保困難な貴金属や宝石、希少な魔物の体の一部などを多く持っている。しかし、かさばる物や鮮度が必要な物は大量に持ち歩けるものではない。
それを意識した彼は、金が掛かる宝石類より先に、高位の闇を生む魔法に使う呪われた土が尽きつつあるのに気付いた。
呪われた土は世界中にあるのに彼の手元には無い。
あんな土が無くて困るとは酷い笑い話だと自嘲した。
さらに超自然主義者だと見抜かれてしまった。
思念の波長を合わせるには才能、思念具への想い、正確な歴史の理解が必要だ。過去の歴史と遺物が軒並み失われた結果、この職業はほぼ絶滅している。
だから超自然主義者という職業そのものが現在では知られておらず手練れとなれば、彼しかいないのが現在である。
にもかかわらず見抜かれた。
超自然主義者であると認めるかどうかは迷ったが、相手が確信を持っているなら、否定するのは思念の残量が残り少ないと認めるに等しい。
しかしどれほどの意味があっただろうか、正体がばれた時点で思念力を消費していると思ったはず、実際、大技は二回使えないだろう。
「このままここに浮いていても硬直状態だな、長引けば騎士が出て来る可能性もあるか、別荘内の二人では足りん。降りて勝負するしかあるまい」
彼は口髭を撫でてつぶやいた。
さらに彼が認識していない大きな失敗もある。
外で動いている同士の情報を伝えてしまった。
普段の彼なら確実に大丈夫なはずだとしても、純粋に不利にしかならない情報を漏らす事はあり得ない。計画の成就から想定外の侵入者、加えて思いがけない自らの進化により、精神が高揚して冷静さを欠いていたのだ。
空から見える地上の植物の騒めきが無くなった。仮面の男が植物に掛けた魔法を解いたのだ。
驚殺の魔眼で見れば、向こうも残り魔力は少ない。
「いやあ、魔力切れかね、愉快な友達が見当たらないなー」
シュットーゼが人を馬鹿にする口調で楽し気に言う。
「お前が降りてきやすいようにしてやっただけだ」
「そこまで誘われては仕方ない、吾輩が遊んであげようじゃないか」
シュットーゼは五十メートルまで高度を落とすと、改めて百メートル先の仮面の男を見た。
こいつ、どこか似ている。あの男と女に。
あの二人もどこからともなく現れた。いくら調べても経歴が不明だった主を討ったとされる吸血鬼狩人と魔術師。
彼は昔を思い出し嫌なものを感じるが、この段になっては勝敗を決するしかない。
「わざわざそいつらを壊されに降りてきたのか?」
「アーケイン氏、この戦いは伝説に残すに相応しいものになったよ、ありがとう。将来この戦いが歌劇になったら、君の役は無理を言ってでも人気役者にやらせると約束しよう」
シュットーゼが満面の笑みを浮かべた。
「滅びる覚悟はできたと判断する」
仮面の男がシュットーゼに向かって走り出した。
「この大魔法を実戦で使うのは初めてだ。《血の大水/フラッドオブブラッド》」
シュットーゼは剣で自分の手の平を切った。傷口から血が霧吹きで吹いたように噴き出した。
少し間があって、ドドドドという途切れない音と、たゆたう赤が辺りを包んだ。
滝に打たれるような勢いで血の雨が周囲に降り注いでいる。木々も地面も鮮血の赤で染まり、凄まじい速度で、地面を流れる血の高さが上がっていく。
そして仮面の男が足を止めた。血の流れに足を取られた訳ではない。まだ高さは十センチぐらいだ。
仮面の男は巨大な杖で血の中をすくい上げるように薙いだ。血の中から打ち出されたのは、魚とも獣とも鳥とも呼べない何か。
五十センチほどの全身はぶよぶよした半ゼラチン質の鱗に覆われている。顔は前後から圧縮したトカゲのようで、巨大な上の犬歯が二本あり、眼球は全てが赤い。大きな翼のようなものが生えているが、翼膜には鋭い爪が生えた三本指の手があり、羽の代わりに鱗らしいものが生え揃っている。背中に背びれと体の後部には尾びれがある。
「何だこれは?」
仮面の男が困惑した声を出す。
「紹介しよう、血の中に暮らす蝙蝠の血棲蝙蝠だ、吾輩の友人で大勢いる。これが吾輩にできる最大限の歓迎だ」
魔術師の職業が無いシュットーゼが、思念具と接続中の時間だけで開発したオリジナルの大魔法。
血の雨の中で吸血鬼の力は高まり、血の洪水が動きを阻害し、洪水の中から血棲蝙蝠が襲い掛かる。
こうしている間にも血の高さは上がっている。
仮面の男は次々の血の中から湧き出す血棲蝙蝠を杖で払いのけている。
「これは破れまい」
シュットーゼはつぶやき、撃ち出された砲弾のように一気に加速する。
血の高さが上がるのは待たない。魔力と思念力の残量が少ないからだ。
相手が対策を考える前に勝負を決める。
血棲蝙蝠の数は多いがエナジードレインが効かないなら、あれにまともなダメージを与えられないだろう。
仮面の男がこちらに左手を向けた。シュットーゼは常闇の盾を前に出す。
あと三十メートルほどの距離。
相手が光線を放ち続ける。常闇の盾は完全に防いでいる。
このままなら問題無い。その時、前方の空間に広く散った複数の歪みがあるのが見えた。
それが何かと考える間もなく、複数の光線が歪みに達すると屈折した。複数の光線が上下左右から彼を捉える。いくつかは彼に命中し、それ以外のほとんどが彼の背に隠していた思念具に命中し、全てが光の中で消えた。
「ぐ、やってくれた、だが剣は使えるぞ」
仮面の男は魔法攻撃に回った分、血棲蝙蝠の接近を許した。
血棲蝙蝠に命令を送り、一斉に多くの血棲蝙蝠が足を固め、杖を持っている右手にまとわりつき動きを阻害する。
急に加わった力のせいか、血棲蝙蝠に引っ張られた右手は力が無く、杖を手放した。
ここしかない、シュットーゼは限界まで速度を上げた。仮面は目の前。
「うおおおお」
普段の彼にはない魂の叫びが響く。
両手で持った剣を仮面目掛けて全力で振り下ろす。
剣は巨大な仮面の中頃、丁度頭部のある辺りからやや斜めに入った。手応えはあった、頭部を真っ二つにし腹部まで切り裂き剣が止まる。
「勝ったぞおおおぉぉぉ。イッヤッホーー」
渾身の叫び。彼が初めて身を投じた五分五分の相手との勝負だった。
彼はこれまで同格の相手と正面から戦ったことが無い。
上手く潜み戦闘を避け、危険度の高い存在の接近を感じればさっさと逃げ、逃げられない場合は自分が有利になる状況に誘い込んで効率的に始末していたからだ。
シュットーゼが剣を引くと仮面が落ち、体は後ろに倒れ、血の中に浮かぶ。
ローブの前部は切断され開かれているので体が見えている。
そこに人間の体は無かった。血の雨で赤く滑った緑色の太いつるの塊がある。
「何だ……」
《群れの肉体/フルスウォームボディ》か、それにしては広範囲、それに体を変化させても頭を割られれば死ぬ、魔法は解けるはず。
彼が奇妙な光景に目を奪われている時だった。
「ぬああああああ」
強烈な痛みと熱、それを左足に感じ悲鳴を上げた。
血の流れの中で一層際立つ白い大蛇。それが左足のふくらはぎに大きな口で牙を突きたてていた。
毒蛇? 毒か、そんなはずはない、吸血鬼に毒は効かない、ならばこれはまさか――正のエネルギー。
それを察した彼は剣で一閃。
「離れろっ!!」
白ヘビはあっさり首を落とされた。頭だけが噛みついたまましばらく残っていたが、同じぐらいの大きさの木片に変化して血の上にポチャッと落ちて浮かんだ。
「木?」
胴体側も木に変わって血の上に浮かんだ。
彼には見覚えのある太い木。仮面の男の杖。
「杖……だと《蛇杖/スネークスタッフ》の魔法、普通の蛇ではないな、相討ち狙いだと、ぐおお」
猛毒を注入されたように左足の下から焼け付く傷みが広がり上へと上がってくる。傷口を確認すると、炭化したように黒くなり崩れていく。
「なぜ死んでいるのに魔法の効果が続くのだ? 特殊な杖か」
戦闘用魔法の大半は術者が死ぬと効果が切れるはずだ。しかしそれに悩んでいる場合ではない。左足の激烈な痛みはどんどん上にきている。
彼は躊躇なく左足を剣で切り落とした。
しかし駄目だった。さらに傷みが上がってくる。彼は痛みを感じる辺りに魔法で負のエネルギーを注ぎ込む。傷みが引いた。
「凌いだか?」
そう思ったのも束の間、魔法を停止すると痛みが復活した。このままでは死ぬ、別荘に残してきたゴリンジなら負の回復魔法を使える。それもあって戦わせなかったのだ。
「《上位瞬間移動/グレーターテレポート》……?」
別荘の中に転移しようとしたが失敗。
血溜りの中で右足を掴まれていた。あの緑のつるに。
猛烈に嫌な感覚が脳天を打ちつけた。
「「「どこに行くんだ? ここからが本番だぞ、ドルケル・シュットーゼ」」」
周囲の全て、どこから発されたのかわからない奇妙な声が多重に響いた。
それと同時、血の中から無数の緑のつるが激しくうねりながら、しぶきを飛ばし、ザバアッと飛び出した。
さらに木々までもが内から分解されるように、あのつるに変形して上から降ってくる。
視界の全てをのたうつ緑のつるで埋め尽くされ、彼の思考は空白で埋まった。
血棲蝙蝠が血の溜りの中から現れた緑のつるに捕まった。血棲蝙蝠が少しずつやすりで削り取られるように分解されていく。掴まれた右足も削り取られていく。
「「「フハハハハハハ、勝ったと思ったか? 今どんな気分、どんな気分? 勝ったと思ったところから死ぬってどんな気分?」」」
「く、《火の嵐/ファイアストーム》」
荒れ狂う火の嵐が彼に達する前に上から降ってくるつるを焼き払う。緑のつるは瞬時に灰燼に帰した。
「「「その程度ですかー? ヒャハハハハハハ」」」
狂った音程が彼を圧倒する。
シュットーゼはこの段階にして理解した。敵は植物の性質を有する何かだと。
そして初めて敵から感じる心の内から湧き上がる恐怖。彼は今も身を焼く痛みを忘れた。
「うああぁ、《火の嵐/ファイアストーム》《火の嵐/ファイアストーム》」
植物には火属性、それが常識。
「「「ハハハハハハハハハハハ」」」
狂った笑い声がこだまする。
火は効果を発揮している。しかし、圧倒的な物量、押し寄せる。焼いても焼いても切りが無い。次から次に下からつるが湧き出し、上から降ってくる。
さらに右足は完全に絡めとられ抜け出せない。胴体まで絡めとられつつある。
「《火の嵐/ファイアストーム》」
火の嵐は彼を中心として起こった。自らのダメージは耐性で防ぎ、周囲のつるを焼き払う。しかし足を掴むつるは高密度になっていて完全に無くならない。
彼は即座に右足も切り落とした。
「《上位・瞬間移動/グレーター・テレポート》」
転移が成功して彼は床に転がった。場所は別荘の通路だ。
彼は一安心して一息ついた。
入口は崩れているので少しは時間が稼げる。その間にまずは回復。
飛行して二人がいる展示室のドアを開けた。
「ゴリンジ、ゴリンジ」
中に入って姿が見えないゴリンジ呼ぶ。
天井と壁が動いた。壁紙が一斉にめくれたように。
天井と壁が崩れてきた。彼は最初そう思った。
だがすぐにわかった、動いたのはあのつるだと。
「「「残念!! ここにいた二人なら食べちゃいましたよ、ヒャハハハハハハ」」」
耳に残る笑い声が響く。
のたうつつるが彼をぐるぐる巻きにして床に転がす。その床も全てがうねっている。
体が分解されていく、痛みは無くむしろ心地よい、それが恐ろしい。
「糞がーー!」
彼は初めて表情を大きく変えてわめいた。
この状況は詰んでいる。当てにしていたゴリンジは消された。展示室内にある過去に試していない思念具に状況を打開できる物があっても届かない。何より攻撃魔法を使えば人類の至宝が破壊されてしまう。
「「「ヒャハハハハハハハハ、もっともっとだ、その顔を見せろ」」」
しかしここで死ぬ訳にいかない。何としてもやるべきことがある。
彼の表情に未だかつてない力が宿った。
「ビリブ油だ……吾輩はビリブ油しか認めん、セミトの神銀器は特にだ」
何を言い出すのかとルキウスは混乱して動きが鈍った。
「いいかよく聞くがいいアーケイン氏、あの油は定期的に塗り直さなくては駄目だ、あの油は保存の魔法と相性が悪くて塗ると劣化が始まるんだ。だから定期的に塗るか、魔法の無い場所で使うしかない。油は隣の部屋の棚の上から二、三段目に並んでいる。魔法をかけなくても劣化しない油なのに、魔法が掛かると劣化するんだから不思議なものだ」
魔法で作られた力強い声が響く。
「ビリブ油はもはや大戦前に製造された物しか存在しない。しかしだとしても……セミトの神銀器にはあれだ。あれが一番美しい」
「「「……ビリブ油なら俺の家に一杯ある」」」
「頼んだぞ」
そうつぶやいてシュットーゼは消滅した。
「驚愕死ではない、仕留め損ねた。だとすると戦闘の中身では同じぐらいか?それなりに裏をかいて驚かせたはずだが……引き分けとしておこう」
ルキウスの作戦の半分は敵が魔術師でなかったために破綻した。
では残り半分の作戦は何だったのか。それは腕をちぎった時に始まっていた。
それは杖による奇襲と体を増殖しての物量戦。
アスクレーピオスの大蛇杖、ルキウスの杖の名であり、彼の万が一の時への備え。
この杖は魔法でヘビに変化させて使う特殊な杖で回復に特化している。
一日に一度、死んで三秒以内なら死を無効化して全快にする回復能力がある。それを攻撃に使った。
通常攻撃が正の回復であるため、友人を噛ませても問題の無いお気に入りのサプライズアイテムである。
緑の古き神の体は複雑に分岐したつる状の植物の塊である。そして植物は枝を切って土に挿すと切断面から根を張り一本の植物として育つ。これを挿し木と呼ぶ。
では地面にルキウスの腕を植えるとどうなるか? 切り離す際に命令を与えておけば同じように根を張り栄養を吸収してルキウスが増え始める。
といっても人型のルキウスがニョキニョキ生えてくる訳ではない。増殖するのは緑の古き神のつる状の体だけだ。
与えた命令は地中で増殖せよ。脳が無く簡単な命令しか受けつけないので定期的に足部分を接続して様子を見て調整していた。
さらに植物を吸収し地形に偽装して、遺跡の中までルキウスで埋め尽くす。そのために増殖まで時間を稼ぎ、可能な限り戦闘力を削ぐ。これはドームで空間が制限されているために可能な戦法だった。
そもそも普通に考えて自力で腕はちぎれない。
シュットーゼはこれを疑うべきだったが、その異常性だけに目を奪われた。
シュットーゼが《血の大水/フラッドオブブラッド》を使った時点で準備は終わっており、あとは死んだふりでもするだけだったが、大量の血がさらに増殖を助けた。
血の雨が止んだ地上では、つるが集まって人型を形作り、そこに集まっていないつるは木や草に戻っていった。




