トーマ
後悔など、あるはずもない。
ばれたか、それとも別か、どっちでもいい。ここまで来た。やることは決まっている。
そう思いながらトンムスは、限界まで足を動かし草木の間を駆ける。頬に当たる風の冷たさから、最近は意識する余裕がなかった季節の移ろいを知った。
トンムス・ラワトこと、トーマ・レヌ・シシリンデはシシリンデ男爵家の四男として産まれた。多くのザメシハ嚆矢王国の下級貴族がそうであるように、華麗より質実、計略より勇猛の気風で、武と森と魔物を日常として育った。
彼の人生の転機は十二歳、屋敷にあった嘘発見の魔道具を勝手に引っ張り出して使った時。魔道具は棒の突き出た箱で、嘘発見棒の先で嘘を付くと、嘘の強さに応じて箱部分の計器が反応する物だったが、至近距離で「明日世界が亡ぶ」だとか「シシリンデ家は大金持ち」だとか言ってみても、強情なまでに無反応だった。
魔道具の不良を疑い、こっそりと複数の使用人で試して壊れていないとわかった。ついでに庭師と女中が相思なのもわかったのでそれとなく誘導してくっつけておいた。
どうしたものか、トーマ少年の苦悩の日々が始まった。
嘘を気にした日々を送っていると、意識を集中することで人の表面に微かに漂う真偽オーラの揺らぎから嘘を見抜く天与能力までもが自分に備わっていることを認識した。これらの天与能力が諜報向きであるのは明らかで、同時に天性の嘘つきと知られれば不利益をもたらす、厄介な諸刃の剣であった。
自分は、他人とは違う道を選ばねばならない。
彼は能力がばれないように品行方正に過ごし、十五歳で家を出て、元々なるつもりであったハンターとなり、この能力を活用してくれる信用できる雇い主を探してザメシハ国内を放浪した。
そしてコフテームの街をお忍びでうろついていた当時の次期伯爵、セッター・レヌ・ギルヌーセンに出会い雇われる。そこから伯爵の勧めで名を変え、全滅した開拓村の若い男に成り代わった。
それから市井の情報収集を行った。数年が経ち伯爵の信用も得られた頃、潜入調査の命令が下った。行き先は茫緑の業毒。
茫緑の業毒は建国初期から国内で問題を起こしていたが、近年その活動が大規模で組織的になり他国の介入が疑われていた。それらを突きとめ、組織を壊滅させる。
北東のエファン堅蹄王国、東のモヌク紫海王国、南東のスンディ魔術王国、三つの隣国すべてに動機がある。
トンムスが潜り込んだ茫緑の業毒の支部をまとめるドルケル・シュットーゼ。
彼は明るく飄々とした学者然で多弁な男だった。
身振り手振りが大きく陽気でいつだって楽しそうにしている。それでいて博学で優秀で強力な魔術師、人を惹きつける性質がある男、つまりは危険人物だった。組織に入ってくるのは、食い詰めた貧乏人から研究により過激思想に至った魔法使いまで幅広いが、この支部では皆が彼に心酔している。
実のところ、トンムスも彼から学んだ知識も多い、シュットーゼがオーバーな表現で見てきたように語る大戦前の世界の文化や技術の話は魅力的なものだった。
トンムスも個人的には嫌いではない。
最初はシュットーゼに接近して会話の中の嘘から情報を探る予定だった。しかしすぐにそれは困難だと知る。
あまりにも古い時代を知り過ぎる彼に冗談めかして「あなたは何だって知っていますね、昔から生きてる吸血鬼ですか?」と言った。
回答は笑いながら、「だったらどうするね?」だった。
「それはどうしましょうかね」とごまかし、聞くべきでなかったと後悔した。もし本当に古い吸血鬼なら、あらゆる対応を準備している。疑心があれば警戒される。好意的な人間なら眷属にするに違いない。
意識して聞いていると、ほかの事柄も核心を避けて話していて自分の重要な情報は隠している。話に出なければ嘘の判別もできず、強引に話題に出せば疑われる。
あの男に弁舌で勝つのは無理だ。探られることに慣れている。勢いで話しているように見えてもそれは慎重に計算されたもの。
だから彼と距離を取って、彼が熱を入れているコフテーム近辺の遺跡探索の任務を受けた。〔野伏/レンジャー〕であるトンムスに向いた仕事で伯爵との連絡が取りやすい。
数年の探索でシュットーゼが探していた遺跡の位置が大庭園内だと判明する。遺跡を目当てにコフテームに集まる組織を捕縛する絶好の機会だった。
組織で大魔術師と呼ばれる男と街中で戦闘になるのは避けるべきだとトンムスは考えていたが、伯爵の判断はコフテームに危険が及んでもここで狩りを行う、だった。ここはザメシハの嚆矢の先端、捕り逃しても国外に出る前に捕捉できる。
ついでに庭先に遺跡があるなら彼らに見つけてもらおう、と伯爵は笑っていた。
伯爵の決断後も彼は森で遺跡を探した。それは偽装しているハンターとしての普段の行動だったが、価値の高い遺跡を発見すればそちらに誘引できるはずだと考えていた。
そんな時に街で奇妙な二人組が現れる。最初は茫緑の業毒の他支部の人間ではないかと疑ったが、遺跡での命を賭した行動で違うと判断した。
そこでドニとレニを失ったのは彼にとって痛恨の出来事だった。普段の彼ならレーザーガンを確保した時点で一度引き返した。焦りでペースを崩していた。
今回の任務を無事終えられたなら、ハンターとして夢を追ってもいい、と考えていた矢先の出来事だった。
しかし同時にこれは使えると、諜報員として考える。何らかの手段で旧世界の機械を撃破した二人をシュットーゼにぶつけられれば、労少なくしてあの男を討てる。遺跡を発掘中の二人を組織に襲わせればいい。
トンムスは情報で茫緑の業毒を誘導しようとしたが失敗した。
組織は思想的目的のために活動しているが活動資金、装備はいくらでもいる。それがあの遺跡には食いつかなかった。
これまでシュットーゼは財を得られる機会を逃さなかった。積極的に商人、村を襲わせ資産と情報を貪欲に蓄積していた。それがここにきて行動が変化したように思えた。それほどに庭園内の遺跡にシュットーゼは拘っていた。
今、トンムスは騎士団の待機する南ではなく西に走っている。ここ数日あの二人の動向は確認済だ。ほかのハンターたちと庭園西側に着いているはず。
当初の予定では南に行って騎士団側にある〔次元半球/ディメンションドーム〕を強化する魔道具、空間固定印を破壊して弱まった部分を壊す予定だったが西に切り替えた。
「英雄には英雄を、騎士団では足りない」
フォレストの発言にはそれなりに嘘がある、それはいい。嘘の無い人間は稀有であり、経験上、一切嘘の無い人間は狂信者のような異常者だった。
唯一引っかかるのは、フォレストの言い回しがどこか自分と似ていることだ。
どうとでもとれる表現が多い。特に気にしない人間には気にならない。しかし彼には違和感がある。
フォレストがよく使う、森で鍛えた、は曲者で、森で長く活動してきたトンムスだって使える表現だ。森で鍛えたと言えば、貴族として学んだ知識技能をごまかせる。範囲が広い表現は明確な嘘と判断されにくい。
さらに裏の組織では、日常的な言葉を隠語として多用して、言葉の認識を塗り替える。言葉は通じた思っても発した方と聞いた方で認識が異なるのは日常でもよくある事だ。意識的に認識を変えて嘘発見能力から逃れるのである。
例えば、普段から殺人を魔物退治と呼べば、本人の中では魔物退治は魔物と人を殺すこと、両方の意味になる。人を殺す予定で村に入る時、目的は魔物退治と答えても嘘にはならない。
フォレストの言う森も実際には森以外の何かである可能性がある。
どこかの森から出て来て何も知らない、という条件と全体をぼやかすような無難な受け答えが引っかかる。秘密主義者が全情報を伏せているのと違い、どこかに紛れ込もうとする者の口ぶりだ。
ただし、あの言葉に嘘はなかった。ドニとレニにその家族を悼む言葉には。
むしろ一切の揺らぎ無き絶対的な確信をもって楽園に行ったと答えたのだ。死んだ彼の仲間を思い、本気で幸福を願える尊い精神と非常識な能力。ある種の英雄であるシュットーゼに対抗できるのはあのような人間だと彼は信じた。
それとも単に、トンムスがこれまで茫緑の業毒の信頼を得る過程で手引きをして死んでいった者達も楽園に行ったのだと彼自身が思いたかったのかもしれない。
「追いつかれる。痕跡を残さずダミーを用意しておいたが駄目か。シュットーゼの魔法か、それとも増えた二人か?」
後方から迫る気配を気にしながら駆けていた彼は足を止めた。後ろから来る何かは刺々しく威圧するようでいて静かな気配をまとっている。
「逃げながら戦える相手なわけもなし」
トンムスは後ろに向き直り、懐から小さな短剣を取り出す。そしてその鍔を引っ張ると刀身ごと鍔が抜けて柄だけが残った。左手で柄を握って前へ腕を突き出すと、柄の上下から青い光が伸びる、光は弓の形を成した。
これが骨船谷の弓、名は鑑定で知った。その名に込められた意味はわからない。
ハンターに成り立ての時に無理して悪魔の森の奥まで踏み込み、偶然発見した小さな遺跡で国宝級のこれを手に入れた。
何もつがえられていない弦を引絞ると、そこに青い光の矢が現れる。
「〈極集中〉〈貫通〉」
闇の奥の気配に照準して放つ。青い光が完全な直線で飛ぶ。
命中した、黒い大きななにかは青い光の矢が刺さったままで、地面擦れ擦れを矢のように来る。
「速い、が鈍い奴だ」
さらに一射、二射、矢をつがえる必要がない弓を連射する。的に刺さった光が増える。的には翼のようなものがあり、揺るがない。
「……生命体ではないな。不死者の気配でもない」
青い光の矢が刺さっても刺さっても無反応なそれが、トンムス目がけて低い軌道で突っこむ。轟音と凄まじい風が吹き荒れた。
トンムスは、この突撃を飛び退いてかわし、即座に減速する影を射る。
通り過ぎたそれには新たな矢が増える。それは体を起こし直立した。わずかに浮いたまま、ふっと反転、彼の方を向いた。
全体の印象は人型で黒色。身長は二メートル以上、手足は長く、皮と骨だけの餓死者のような体。背中に崩れ落ちそうなボロボロの鳥の翼が二対、頭には巨大なくちばしと大きな目で構成されたワシのような仮面だけがある。
「なんだこいつは」