狂気の森15
ルキウスは急激にもどった感覚で、「っと」と己の転倒を抑止した。
手の内には木の質感、白は床。剣を抜いた直後だ。一、二、三、四歩しか動いていない。前方で布男が浮いている。
「ルキウス!」
レイアの警告が飛び、布男の仰々しく歪んだ瞳は、眼力でそこに映るルキウスを押しつぶさんとしていた。ふわふわと漂っていた幾多の布は、濡れたように軽やかさをを失うと、閉じた花弁のごとく自身をギュッとくるんだ。
中身は常人には無理のある手足の入り組んだ姿勢のままで圧迫されて落ち着き、途切れ途切れのうめき声を漏らした。
周囲が強烈な輝きを帯び、視界を白に染めた。壁、床、天井のすべてが輝き波うった。その表面がいっせいにひるがえり、巻きとられたように前へ流れた。光っているのは布だ。壁紙を剥がしたように、一気に剥がれたのだ。
吹きすさぶ力に押しやられた光の流れはあらゆる通路から、布男へ向かっている。それは、破れ、ちぎれ、穴が空き、まき散らされて霧散していく。最後に残ったわずかな輝きが布男の中に回収された。
景色は、無機質な通路にもどる。
「タントラの一種か? 糸を結ばれるとは」
ルキウスには心当たりがある。
力を有する布を織りあげる能力、あらかじめ敷き詰められていた。
「いや、すまんな」
ルキウスはなんとなく謝罪した。
「何か悪い事をしましたね? 言いなさい」
レイアが言った。
ルキウスは頭を激しくふりふりすると、平然と回れ右して数歩歩いた。そして誰もいない通路へ叫ぶ。
「スカーレットには優しさのかけらもないぞ! 知ってるからな。あの女にそんな要素はない。凶暴なババアになるに違いないんだ」
「ぶっ殺しますよ」
レイアは敵に集中したままだ。
「殺す?」レイアは彼のすぐ隣だ。彼はジャンプして旋回中に手足を広げ、大の字で着地して、彼女のほうを向いた。「いいぞ、やってみろ」
これには、レイアの意識もいくらか向いた。
「できないだろ! ほらな」ルキウスは得意げになって、声高にわめいた。さらに彼はくねくねと踊りだした。「ほれほれほれ、ほれほれ」
ルキウスの片耳が消滅した。直線的な断面から血が出て、彼は血相を変えた。
「ぎゃあ! なんてことするんだ!」
「あなたこそなんですか?」
「いいか? スカーレットは絶対に怒りっぽいババアになるぞ。確信した」
「大統領はどこでもずっとアホです。確信しました」
「私を大統領と呼ぶな! そんな奴は知らん!」
ルキウスが絶叫した。
「……私もあの人を大統領とは呼びはしないわ」
「そうか! なら、よし! すべてよし! 完璧だ」
ルキウスが強く何度もうなずいた。そして思い出す。
「ところでサポートいる?」
「いえ、足手まといなので」
サポートを取得できてもしない場合は多い。単純に装備費用が二倍になり、育成時間も必要。ずっと見つめられるのが嫌という人もいた。
「じゃあ娘はいる?」
「本当にやられちゃったのかしら?」
「リアルでだよ」
「いま必要ですか?」
「知らん。君の家庭事情が気になってしかたがないだけだ」
ルキウスが渾身の貧乏ゆすりを始めた。
「娘がいましたね」
「年齢は?」
「四歳です」
「惜しい! が、私も捨てたもんじゃない。となると」
ルキウスが注目するのは布男。彼は衝撃から立ち直り、再び布を展開しようとしていた。そこへルキウスが手を向けた。
その直線状で、火の嵐が発動――せずに散らされた。
「想定どおり魔法破壊か。しかし狂わなかったな」
「あなたの精神には矛盾が少ない」布男がうめいていた口を開いた。「それは妥当な終焉を迎えるはず、にもかかわらず、無限の拡張を……理非が混在……」
「状況は?」
レイアが割りこんだ。
「スキルの完防カウンターだが、さほど効いてないようだ」
ルキウスが答えるも、布男は興味がない。
「やはりおかしい。自由にできる閉じた世界では、多くは無限の欲望にとりこまれ自壊する。世界の裁定を免れた自己は、その増長によってむしばまれるもの。さりとて欲を否定すれば、奥底に沈殿して終わる。
あなたの内だ……そこに世界がある。矛盾している。我が織りの内にいながら、なぜ世界より膨張できる?」
「私は世界よりでかいのさ。効率的に展開できるってことだ」
布男は「むう」とうなり口を固く結んだ。肌に脂汗が垂れている。
「いい罠だった。すべてを罠で埋めて、罠を隠すというのをやってみたかった」
「我が修養の場に、あなた方が踏み入っただけのこと」
布男は出現したときの雰囲気を取りもどした。
「さて、道を譲ったほうがいいと思うが」
「これにて碌を食んでいるものでしてな」
「展開していた領域は崩壊した。攻撃は得意ではあるまい。最初から知っている」
階全体を覆っていた布の崩壊で、能力の射程や探査能力はかなり減退したはず。
「なんの、これも修練。あなたの織りをとりこんで我は宇宙となる。我とつながり一体にならん」
無数の布が、ルキウスを求めるようにはためいた。
「牽制を」ルキウスが言った。「やれるなら、やってもいいが」
レイアの気配が動き、ルキウスは精神集中した。そして「火の嵐、三連続」
布男の左右と後方の離れた位置で炎がまきおこり、通路に沿って走る。その火力が急に弱まった。いくらかの火は布男に達したが、やはり布に触れると消滅した。
さらに石壁を布男の近くに出そうとしたが、発動を忘れたのかと思うほど瞬時に魔法破壊された。
自己の得意な領域で戦うタイプだ。精神で織った布こそがその領域。
ルキウスも森に依存しているが、森林地形で戦うのが前提。外に森を召喚してもすぐに消える。タントラは戦闘場所ごとに糸や布を展開する。範囲は狭いが効果は強い。
布男が何十年もかけて布を織りあげ蓄積しているなら、最上級の道具を大量に所持しているようなもの。アトラスと違って制限がない。
(自動うち消しの範囲は三メートル強、自律神経がやっているようなもの。それ以上は意識的だが早い。こっちは十メートルぐらいか。遠距離から魔法攻撃可能だが、かわすか布が受ける。強力な銃で殺すのが正解なんだろうがな)
布男は今回も動かない。彼の基本戦術は受け。
「奴の魔法破壊は自動だ。君でも突破できない」
「プランは?」
レイアが尋ねた。
「耐久戦は嫌だな。斬るのが早いが」
(それか、魔法破壊の範囲外で物体を出す魔法を発動する。巨石をぶつけるとかが確実なんだがな)
通路をぴったり塞ぐ石壁を多数出して、順番を考えて石壁を押していけば、最終的にすみに押しこめて圧殺できるかもしれない。ここで成長させた草木程度では突破されるだろう。
しかしこれは、さすがに悠長すぎる作戦だ。
「布の枚数は数えられないほどです。薄いというか、厚みがない」
布は精神攻撃、焼いたり切ったりはできない。ルキウスなら耐えられる可能性が高い。しかし、物理的に巻かれると行動不能になるし、前回がちらつく。
「あの熱に無反応。この階の空調は停止しているらしいな」
「人がいないはずの場所なので」
ルキウスは左手の人差し指を立てて、右手でかるく覆った。身内で使うハンドサインだ。意味は敵全体を現在地に隔離。
「できるか?」
「ええ」
布男は階の中心部に居座っている。この階の入口まで彼の魔法破壊は届かない。
「完全にやってくれ」
レイアがこの階をほかから隔離した。隙間という隙間を塞いでいる。
ルキウスはコイン型爆弾を投げた。今回は布男の前の床に落ち、爆発した。その爆風程度は簡単に布が無効化した。
ルキウスは返ってきた熱をほおに感じると、全力で〔大気制御/コントロール・アトモスフィア〕を発動させた。
これの影響範囲は、布男の近くを避けて設定された。この魔法は、発動状態を維持して効果を生み続ける。一部が解除されるだけで魔法全部が破壊され、大気の状態はすぐに元にもどる。これは天候操作と同じ。
変化は見えない。耳にぼんやりした違和感があるだけ。しかし、物質は高速で移動している。
やがて通路中がきらめき始めた。霜が降りている。ルキウスの髪も曲がって凍っていた。彼がいるところはほぼ真空と化し、摂氏-一〇〇度に達した。
つまり、別の場所に空気が移動したということ。
布男の眉が燃えた。空中にあった熱が、彼から半径十メートル以内に集結したのだ。宇宙船の中央部にあるこの階層は広大。床に熱を吸われても、二〇〇度はいっている。圧力には耐えられても、高熱はタンパク質を変質させる。
布で体を覆っても無駄。呼吸を止めて内臓を守り、皮膚が強靭でも無駄。ゆっくりだが、確実だ。物質から物質へと伝搬する。
ルキウスの意図を察したレイアが、さらに空間を押して布男のいる中央部へと押しこむ。
(これでも自然神の端くれ、風だって使える。さてどう受ける? 熱を消せるなら消せばいい。階全体から熱量が失われる。息はもっても低温は動けまい。こちらは覆面をアザラシにするまで)
ルキウスがレイアにハンドサインを送る。退路を開けろと。さらに覆面を、手足を壁に張りつける能力があるヤモリに変える。
布男が後方へ転がった。原理を理解しているかはわからない。それでもこの事象の原因は確実に魔法。ならば破壊する。
ルキウスは自分側からの大気圧縮をやめ、空気の逃げ道を作った。
無音になっていた世界が、過密地帯よりの脱出を求める暴音で満ち、灼熱がルキウスを焦がした。そして二本の剣を握る。
熱で目を開けられずとも、布男の様子は知れる。
圧力の解放を爆発と呼ぶ。それは石壁に匹敵する力で押す。しかも、流体で不安定。空中にあるものは、その不規則さに翻弄されるしかない。
ルキウスは目を閉じたままだ。何かがはためく音が来た。
二本の剣が振りぬかれた。布を裂き、深く入った手ごたえ。
ルキウスは広がった布をやり過ごすと、すれ違った男を見た。傷は右足と腹から胸。
布男は風に吹かれるまま、壁にガンガンぶつかりながら、上階へ押し出されていった。その経路には、血が飛び散っている。
「追わないので?」
レイアはそう言ったが、現在地を動こうとはしない。
「あいつキモイし、命と引き換え系とかありそうだろ?」
「私にはやっかいな相手だったのだけれど」
「冷凍爆弾を使えばいい」
「……持っていることは言っていませんが」
「対人戦をやる空間能力者なら、転移で放りこむ武器を持っているだろう。さっきの幻覚でくらわされたぞ」
そして、あれをこの世界では使うべき敵がいなかったはず。
「私に?」
「そりゃそうだろ」
「爆弾投げられる覚えがあるわけなのね」
ルキウスは剣の血を払って、鞘に納めた。
「ポーションで完治しない程度には入った。そもそも、単独では脅威ではない」
ルキウスは先へ進みだした。
「いいえ、あなたが固まっちゃって、焦ったけれど」
レイアも歩き出す。
「〈狂気の森の主〉のおかげで、精神攻撃は無効だったが」
ルキウスが首を回した。
このスキルは、特に強力である接続系の精神攻撃を完全無効化し、接続者に精神属性ダメージを与え、〈狂気〉を付加する。
「どうも狂気を示さないと無意味だったらしい。常時発動だが」
「やっぱり狂ってるんですね」
言葉に籠った感情が強い。
「スキルだよ。そっちだって、空間認識とか虚無なんたらとかがあるだろ?」
「普通の主婦なので忘れました」
「……私が初めてアイアに接触した時、見ていたよな?」
「ひとり娘から目を離す母親がいますか」
「それは脳内ツールでお手軽に監視できるなら、するだろうね」
いくつかの階層を下ると、やはり居住区だった。その一室の前で、レイアがドアに触れるように促した。
「あなたの遺伝子も登録してあるの」
「なんでそれを持ってるんだよ」
「フフ、いつでも追跡できるようにするためじゃないかしら」
「別に開けてくれてもいいんだが」
ドアに近いのはレイアだ。
「夫が開けるべきです」
問答を諦めたルキウスがドアを開けると、まず中央に机があった。さらに大きなソファが二つある。期待よりは大きな部屋だ。
本棚が複数あり、多様な本で埋まっていた。部屋のすみは、首なしマネキンが着た赤いドレスがあった。棚にはアクセサリーが陳列されており、絵や焼き物などの実用価値のない調度品も多くある。ほこりをよけるためか、布を被った物体も多い。そのいくつかはあきらかに銃だ。銃ケースもある。
ここはリビング用途らしい。
奥の部屋には多くの物資があるが、箱に格納されて何かはわからない。ただし、ほとんどは金属だ。兵器類と推測される。
そして、一番目につくのは。机上のブラックディスクのケース二つ。
再生機は、いすの横にあった。近くにあった戸棚を開けると、大量のブラックディスクが入っていた。亜空間式収納で、数万はある。市販の映像製品だけでなく、アトラス内の個人作成映像なども含まれている。
「ディスクが遺言です」
レイアが言った。
「二つあるが?」
「読めばわかります」
ルキウスはケースに書かれた文字を読んだ。
あなたの妻を知らないルキウス・アーケイン様
リコリスの夫であるルキウス・アーケイン様
どちらか片方だけを閲覧してください
ルキウスがケースへ手をのばすとレイアが言う。
「それなりに衝撃があると思うけど、冷静でいてほしいものね」
「へえ?」ルキウスは挑戦的な表情をした。「たいそうな中身かな?」
「ええ、それであなたがどうにかならないかが心配なの。大丈夫なような気がするけど、あなたのことだから」
「大統領はどうにかなりそうか?」
「そうね。脳が裏返ってまっとうな人間になるかも」
「ふーん、それはあるかもな。衝撃とやらはどちらにも?」
「ええ」
「共通、我が家庭には関係ないわけだ。そいつを当ててやろうか?」
「できるものなら」
「我々は人格を緻密に再現したアバターに入れる形で複製された存在。ここは地球からはるか遠い惑星? で二十五世紀から、少なくとも五千年ぐらい経ってる。オリジナルはとっくに死んでるってこと」
レイアの目つきが鋭くなった。
「いつから? ほかのプレイヤーですか?」
「余裕の笑顔が崩れたな」
ルキウスはしてやったりといった状態。
「そんなそぶりはなかった」
「確認するが、君は神から真理を教えてもらったとか言わないだろうね?」
「ええ、過去のプレイヤーの記録と遺物を見ての結論です」
「そのレベルの理解でなら、ここに来てから数日だ。一部は数時間で」
「神代の書物を手に入れられたので?」
「うちのサポートは天文の知識があるし、観測施設もある。子供の頃は宇宙海賊になりたかった、知ってる天体が近所にあればな」
天体観測用の魔術が優秀だったことも大きい。この宇宙船も宇宙の状況を計算できる機能がありそうだ。
「しかし、それだけで」
「最大の対抗馬は、誰かが私だけを仮想空間に閉じこめたり、人格情報だけにしてくれた場合だった。それでも現実の宇宙をデータにするのは大変だ。すごくお金がかかる。となると、プロシージャル生成の手法であるタルマンのスピンシュミレーションみたいに私の周りだけ完全再現して、ほかは簡易演算で済ましている可能性だった。実際に世界を巡って、広範囲に足跡を残して違和感を探った」
彼は生まれつきの超感覚者だ。違和感にはひっかかる。
「でしたか」
「ああ、いろいろを疑って、多くの村に片っ端から小石に投げたり、追跡印をつけて置いたり、建築物や樹木にハチミツとかぬったりして、定期監視したが、まあ、正しく変化していた。なんというか、様々な――独創的な妖精像が生まれたり、信仰になり恐れを産んだ。それで実際に世界があり、時が流れていると判断した」
推測では、これをやりそうなのは、誰よりも緑野茂だった。しかし、これがおもしろいかと考えてみるに、絶対退屈だった。見てるだけなどストレスだ。
「ゲームに閉じ込められたとか、謎の世界に来たとか思いませんでした?」
レイアは自分が常識的だと確信している。
「ハハハハッハハハハ、ゲームに閉じ込められるって、ハハッハ、幼児じゃないんだから、ヒッハヒヒヒハハハハハハハハハハハ」
ルキウスは十秒以上泣き笑いをすると、湧き上がる笑いをどうにか抑えて、強烈に目を見開いた。
「ありえないでしょ、意識は――脳は人体と不可分だ。脳だけでも多少の感覚はある。残念ながら完全にゲームに没頭できない。夢の最中でも夢と自覚はできる。長期間やれば違和感が出る。区別できないうらやむべき人物もいるが。
それに謎の世界だって? ここの物理法則は地球と同じ。もしも根本的に法則が違う別の宇宙なら、考え事だってできはしない。物理法則はどこまでも世界を支配している。少しでも変わったなら、我々は形を保てない。
ここは地球人がなじんだ宇宙だ。誰かが少し力を加えた。それだけだ」
「なら、誰がなんのために我々を?」
「それはな」
ルキウスは一息ためた。




