狂気の森14
「知り合いか?」
ルキウスがそっけなく呟く。布男はふわふわと浮いては沈む。
「いえ」
レイアは手短だ。ルキウスが余裕で語りだす。
「いたよな、毎日トラに食われたり、磔になったり、割った海の中を集団で歩いたりする本物の伝道者。森で気配を絶って瞑想するのはやめてほしかった、自主石化しているのは何をやりたかったのか……そのタイプだ」
同じ階層なら転移できる。このいかにもな存在を、素通りしてもいい。彼が得意な、より面白い道。そちらなら動きがある。あるいはなければ、それで勝ち。
布男の両の目が別々に動き、ルキウスとレイアを見た。
「通行証はお持ちですかな?」
しわがれより始まった低めの声は、のぶとく伸びた。
「プレイヤーではなさそうだ」
プレイヤーを知っていれば、まずそれを問う。そして彼は推測する。帝国にはここに滞在していられる者がほかにいる? そういった誘導を試みている気配はない。単純にこの状況に頓着していない。
レイアは金属のバッジを見せた。
「国家英雄証よ」
「そうであるなら、許可がおりるやもな。しかし許可証ではない」
布男はまた目を閉じた。レイアの周囲の空間が波打った。
「許可など求められる筋合いはない。帝祖より永久使用許可を得ている」
「はて、世俗のことなどは疎いもので」
「そこを動くつもりはないと?」
「通行証を持って来られるがいいと思うが」
布男の精神は揺るがない。
「撃破しちゃいましょう」
レイアに迷いはないが、ルキウスは急がない。
「本物だと言った。特別な資質と特別な人格を極限まで研いだある種の偉人。あれが教科書にのるようならアフロを書き足してやる」
あの布男にとって、侵入者は驚きに値しないのだ。それは備えているというより、人格的に許容できる出来事なのだ。
なんらかの思考に没頭して鍛えた精神からくる鎮静。性格が読めない敵をルキウスは嫌う。
「二対一よ。それと自分が歴史上の人物じゃないような言い方をして」
敵の魔力はこちらの半分。魔法戦なら負けない。
「そう、大統領なもので通行証は持っている。よく確認するがいい」
ルキウスが最小の動作で投げたのは、コイン型高性能爆弾だった。それはふんわりといき、布が受けとめた。光が起こり、通路を熱と衝撃が抜ける。
ルキウスは曲がり角に隠れ、マントで熱をしのいだ。階全体を揺るがす威力のはずだが、いささか軽い。布男は動いていない。彼の後ろへ抜けた爆風もない。わずかに爆風が歪んでいた。あの布が吸いこんだのだ。
(受けるタイプ? あれは魔力を消費しての防御、エネルギー吸収ではないと思うが)
「このまま休みなしで」
レイアが強い力をまとい、ルキウスが前に出た。彼女を攻撃に集中させる。一撃で終わるはず。
ルキウスが自己強化魔法を使って通路を駆ける。何も起きず、距離が縮まる。
「相殺!」
レイアが告げた。彼女の攻撃は布をえぐるものだった。それが無効化されたのは、ルキウスも見えた。しかしわずかだ。まったく同じだけの力をぶつけている。
森の外なら敵は格上。ルキウスは牽制の距離を維持するつもりだったが、剣を抜いて斬りこんだ。
布男を覆う布の複数がそろってシュッと一方向へ伸び、ルキウスはそれを斬った。剣を握る手が反発で止まる。布が斬れない。剣に巻きつこうとしている。彼は剣を引いた。この時にも、レイアの致命的な攻撃は放たれているはずだ。
「連撃、完全相殺です」
ルキウスは布から逃れつつ、「火の嵐」
布男の七メートルほど後方で、魔力が集まりはじめると同時に散る、散らされた。離れた位置の魔法まで潰している。これは予想の範囲内。
ルキウスが死角で取り出した手裏剣を連続で投げた。これは布の先端で逸らされた。これで終わらない。布がいくらか開いたところに、深く踏みこんだ突き。
「おっと」
声は平静。布男はふわふわしたまま、とらえどころのない動きで後退していく。攻撃は当たりそうで当たらない。これは完全に見切っている。
格子状の通路で迂回路に事欠かぬせいか、道を塞ぐ動きはない。布男は横道へ後退する。空気を斬りつけているようだ。あまりに軽く、当たると押すような形になり、まともにとらえられない。それでいて布は固い。
ルキウスは消極的だ。ひらひらした布は互いに重なり不規則に漂い、一部が剣より長い。本気で斬りこめば、あれに触れる。なにより後退する者を追いたくない。
敵は余裕でこちらをあしらっているが、魔力は消費している。
(布が固いのは魔法、おそらく攻撃もあれ。触れれば何かある)
「敵は省エネ志向だ。このまま通れそうだが」
ルキウスの認識では、進路に罠は無い。
「帰せば状況は悪化します」
レイアはただ歩いているようで極限の集中下。
布男は、動作なしで時空を超える攻撃を的確にうち消している。魔法破壊特化だ。これに布は無関係、力の発動が近いほどうち消しは容易。体をえぐるのは難しい。
アトラスなら、魔法破壊能力の高い回避型壁役。
無視するには危険。追ってきてくれればいいが、布男は目を閉じて浮いている。ルキウスが追うと、やはりふわふわ後退する。抵抗が少なく斬れない。
「でかいのを使え」
ルキウスが言いだした時には、レイアは動いていた。もはやその力は隠蔽されていない。彼女ははちきれそうな魔力を帯びている。その意識が動いた。
確実にこの宇宙より質量を減らし時すら奪う一撃だ。――何も起きない。おそらくレイアの最大出力、これも散らされた。
これは、魔法発動に使うより小さな力で魔法を破壊している。力を叩きつけるのではなく、魔法の中核部品を抜いて構造をきれいに分解している。
「相性最悪だな、手はあるか?」
布男と相性がいいのは、魔法武器装備の戦士。レイアは魔法攻撃だけ。断裂した空間や発生した真空は物理現象だが、魔力が集中して現象になる前は、魔法はうち消せる。
「飽和攻撃で負荷をかける」
攻撃箇所を散らした連射をやるということ。
ルキウスはこれと連携、短弓を構え、連射した。弓には至近距離、この矢も逸らされた。矢に込めた魔法も発動しない。
「物理もだめか」
ルキウスが弓を捨て呟く。その手から眩い光線が連射された。布男はわずかに漂い、体を異様にねじってほとんどの光線を紙一重でかわし、一部は布で受けた。
〔太陽光線/サンレイ〕の発射地点は自分の体だ。こちらの体内への干渉は抵抗できる。そして威力は低いが発動は早い。これを距離を詰めつつ連射するが、布男は涼しい顔でこれを防御する。ただし、これはブラフ。
(無関心はある意味、心理戦で無敵。だが反応は鈍る。虚を突けるのは一度)
ルキウスが接近しながら再び抜いた剣は、強い神気をまとっている。
複数の布が飛び散った。裂けた布のすべてが霧散していく。そして次の斬撃が狙うのは体。
布男が一気に後退する。回転しながら壁で当たる直前で向きを変えるのを繰り返し、ボールを思わせる動きで剣をかわす。
あきらかにルキウスより遅いが、当たらない。わずかに布をすり減らしているだけで、斬りつけるたびに猛烈な速度で回転する。
(いやな性格だ。こちらが速ければあちらも速い)
「これは困りますな」
布男はどんどん後退している。彼はルキウスに追われ、ふたりがやってきたほうへと流れていった。そうなると行く着く所は一つだ。
結局、布男は風に吹かれた風船みたいに上階へ去っていった。
「あれは面倒だ」
ルキウスは、先回りして石壁で退路を塞げたが、やらなかった。
「急ぎます。上に増援が配備される」
レイアは、布男が離脱した穴から視線をもどし、走りだした。
やがて景色が変わった。通路には規則正しくドアが並んでいる。居住区だ。
レイアは無数にあるドアを無視して、ある壁の前に立った。
「ここです」
「行け」
転移した。視界は物で満ちている。光源はなかったがすぐに明るくなった。
大きめのワンルームで、壁にはあらゆる種類の銃器が立てかけてあり、三つのドレスが宙に浮いていた。
その中にある赤いドレスは、ルキウスの所持品に近いが、いくらか手が加わって豪華になっている。
棚や台には、機械式の物から魔道具まで、罠や警戒に使えそうな物品が大量に置かれている。部屋は生活用ではなさそうだ。
部屋を改造した痕跡はない。元からの隠し部屋。転移機能もどこかにあるはず。
彼がそれを探そうとした時、ブーンと鈍い音がして部屋の中央に人間が現れた。
洗練された制服を着て、胸元に赤いコサージュを付けた女性。
スカーレットだ。
彼が知る姿より老いているが、死期が近いというほどではない。
「久しぶりね、あなた」
スカーレットの目はルキウスをとらえていない。
「ただの立体映像か」
彼女にあなたなどと呼ばれたことはない。悪魔、変態、泥棒ぐらいだ。
「何から話そうかしら。あなたに何を言ったところで意味もない気がするし、これを何度考えても、もう、これもあなたのせい」
立体映像は、どこかぎこちなく、思考がまとまっていない感じがした。
表情は穏やかだが陰があり、彼が知る彼女とは違った。
彼女は、自分が帝国に入ってからの出来事を話していった。血の雨を降らし、焼け跡と廃墟を作る道のりだ。
彼の知らない人物ばかりが出てくる。たまに戦争の話があるが、これもわかりにくい。彼女は完全に以後の存在だ。
「もう世の中は酷いありさま。まったく、本当に困ったわ。きっと、あなたを退屈にしたような輩がやったに決まってる。そう、人々は困っていて、気に入らないのをひたすら潰すだけというのも泥沼で……光を見つけたから、それを育てるのが役割だと思うことにしたけど、過ぎてみればよかったのかはわからない」
次は彼の知らないアトラスの話だ。どうでもいいクエストの思い出、戦争以降、一般ネットとの境目を消失し、それに彼がぶつくさ言っていた話。彼女は、郷愁の情でそれを語るにつれ、心が落ち着いていった。これを聞くだろう相手に、同じ感情を期待しているのだ。
さらにふたりの家庭と子供の話があったが、彼にはなんの関係も見出せぬことで、別の事を考えていた。子育て方針の苦情など聞かされても愉快ではないが、これはかなり長く続いた。もっとも彼は、苦情の聞き流し技術が非常に高い。
そして最後にくるのは、彼女の成果物のこと。
「なんとなく、また会えないのはわかる。だから未来に期待したい。この国はともかく、この地域のことをお願いするわ。あなたは暑いのが嫌いだし、きっと、もう何かやってるだろうけど。できるだけ機嫌を損ねないように作っておいたから、運命に任せるわ。さよなら」
彼は聞き終わり、頭のすみにズキズキとした痛みを感じた。
(何か、どうにも――)
シュッと、ルキウスが急な動きで倒れこむように上体を大きくよじった。彼の長い髪が広がらずに流れるほど鋭敏な動き。
密封された部屋の中心で風が起きた。鋭利に切断された数本の短い金髪が落ちていく。
「おい」
彼がそう出しはしない凄みのある声は、背後に向けられていた。
彼は床のほこりすら動かさぬほど慎重に体の向きを変え、後ろにいたレイアを視界のすみにとらえた。彼女は空間をねじ曲げて、人型の影と化している。
「大統領、嫌いじゃないけれど、あなたが世界に迷惑をかけることをスカーレットは絶対に望まないの」
「話を聞いていたよな? ここらのことを頼まれたが」
「彼女は弱くなった。私の知る彼女ならあなたを野放しにはしない。最初はその予定だった。それが、あなたがすべてをなんとかしてくれると思うようになった。あの時のようにね。あれは彼女じゃない。でも彼女の希望は叶えるの、そして完遂したわ」
ルキウスは完全に向きを変えた。レイアの感情は見えない。
「勝てるつもりか?」
「こちらのセリフだと思います。ここでのあなたは自由すぎる」
逃亡は不可能、殺傷は可能。道中でずっと考えていたルキウスの結論。
彼女は回復魔法がない。
都合のいいことにここは狭い。必要なのは全力の踏みこみと一振り。
レイアは近距離で話し続ける。
「ここにはあなたが使える物はない。松ぼっくりの一つだって落ちては来ない」
ルキウスの想定に一部は近く、一部はどこまでも外れた展開。
しかし期待はあった。いつか、こうあれと。
「この程度は備えている」
「それに困るの、アイアはあなたを目標にしてるわ。タフに育ってほしいけれど、ちょっと行き過ぎね」
「そのアイアがどこにいると思っている?」
「サポートがいるのは、こちらも同じ」
あの時、連絡したそぶりはなかった。しかし、あの場に残した料理で情報を伝えられる。
「だとしても」
「私、リアルに三歳の娘がいたの、かわいいさかりだった。一番大事なのはあの子よ。アイアは自分でなんとかすればいい。ここはそういう世界ですもの」
「そうは言っても――」
「わかっているの。もう話すことなんて考えていない。大統領、魂ごと消しさってあげます」
正解、ルキウスの思考はいかにここでレイアを斬るかだけ。
「備えていると……言った!」
ルキウスがインベを開くと同時に魔法で中身をぶちまける。しかしその中身がインベより一ミリ出るか出ないかという時に、脳と心臓へ力が集中する。
ルキウスの体内で魔力が弾けた。現象と化す前の魔力が。
あの布男と同じ魔法破壊。あれほどの精度はないが、無傷。普段のルキウスに不可能な反応速度と探知は、神気の消費によってなされている。範囲は体内限定。
(途中で消費したのが痛い。十回はできん)
レイアの攻撃は機関銃のように連射できるものではない。さらに自らを守る瞬間移動の準備を優先するはず。
ルキウスが斬りこむと、やはりレイアが転移した。ルキウスの直上。
彼が反応するより早くに到来するのは、ルキウスのすべてを奪い去る一撃。
何も起きない。魔力が散ることすらない。攻撃が否定された。
抵抗したのはルキウスではない。インベから出たインヌ教授の憎々しいパズルが力の影響範囲にあった。神器を力づくで破壊できるのは、主神級ぐらいのもの。
ブン! 剣が振りぬかれ、レイアが消えた。自己強化が不十分な彼では足りない。そして彼女の気配がどこにもない。
(室外!)
ただし彼女の代わりに、直上に出現した物がある。ルキウスがそれに当たりそうな剣を止めた。
青く輝く数字が描かれた丸い物体は、すべてを凍結させる冷凍爆弾。ボシュン! 爆弾が弾け気体が漏れる。
ルキウスの仮面はすでに変化していた。それは、ごつごつとした恐ろしき爬虫類の顔、赤い龍の顔へ。
口が完全に開くのを待たず、白熱した炎が正面の壁を舐める。炎が壁に沿って走り、一瞬で部屋を炎で満たし、すぐに壁をぶち抜いた。
切り札の一枚を切らされた。
彼は頭の氷を手で払う。それから下は自分の吐いた炎で焦げ、部屋は灰だらけだ。彼は竜の口で神器をゴグウンと強引にのみ、仮面をコウモリにして溶解した穴から通路に出た。正面でレイアが待っていた。攻撃はない。
「余裕だな」
「狭い部屋が唯一の味方だったと思うけれど」
天井を抜くことは可能。そうすればWOがある。場を乱してくれるルキウスの味方だ。
それを誘っている。そんな大きな動きをすれば、連続で必殺の一撃を浴びる。
「帝国を作ったのが妻なら、帝国は俺のためにある。ここもな」
「あら、現実逃避なの? そんな大統領は見たくないわ」
「いやいや、楽しいね。確実に勝てるとはいえ、これはいい」
ルキウスが笑う。
彼の戦いは、常に縦深性があり退路がある。どこまでも遊びで、この世界でも常にその要素はあった。
一個の戦闘をとっても、常に奥の手や緊急的に場を乱す手段を用意している。ルールの切り替えで主導権を握り、不利なら離脱する。それが彼の基本戦術。
しかし、退路のない戦いもいい。それはそれで心が燃える。だとしても、わざわざその場を作りはしない。自分から不利になるなど楽しくない。偶然に発生することを期待するしかない。
自ら望んだ勝敗定かでない戦いは、神になるために避けられなかった〔古き緑/グレートオールドワン・ヴァ―ダント〕戦だけ。
「本気で勝つつもりなのねえ」
レイアはきっと笑っている。彼女は大統領を理解していて、何もできない所に隔離した。だとして、自分を知っているか?
ルキウスが一歩前に出た瞬間、頭蓋の中身が消失した。彼の動きは多少おかしくなったが、そのまま走る。さらに彼の体の中が減っていく、しかし剣を持って彼女へ迫った。
レイアが転移で距離をとった。ルキウスは走って追う。
彼の体内のほとんどが、古き緑のぬめったつるに変化している。これに中核はない。そして失われたつるは、あらかじめ発動しておいた再生により即座に復元される。
しかし高位魔法は魔力をくう。急ぐ。だが、全速でも彼女に届かない。走って捕まえられるはずもない。距離の余裕によりレイアの攻撃頻度が増えた。
ルキウスは根競べと言わんばかりの強引さでまだ追う。体のあらゆる場所が鋭利にえぐり取られては再生を繰り返し、床に血の川ができていく。
ブチャ、彼の血の歩みが止まった。右足が積み木のようにバラバラになって、床に散らばった。それで失われた足も一秒ほどで復元される。
しかし足が止まれば一方的。完全に右足が治る前に左足がきれいに分割された。
(空間分割、やっと来たか)
ルキウスは治る前の左足断面をレイアに向け、血を噴射した。彼女は通路の死角へ転移した。血にはなんの害もない。
クローリン家の食卓、料理はレイアだったが、獲物の解体はアゲノがやっていた。
(その殺し方、鮮やかなようで不確実。敵が少数と知れているなら、大出力で空間をバラバラに裂くのが確実。どれかが命中してから、とどめをさせばいい)
魅せ方にこだわるプレイヤーはいる。たしかにレイアの所作は美しい。歩容、旋回動作、目線の動きまでもが洗練されている。
汚いものが苦手なのもこのタイプだ。効率的な死体量産能力を持ちながら、死体は見たくもないのだ。
レイアの動きは、鮮血と純白の景色を避けている。
だとしても、死角から発生する空間断裂は正確無比に彼を切断した。そのたびに、体の動きが止まり、再生を繰り返す。
(勝負といくしかない)
ルキウスがインベを開き、残るすべてをバラバラにぶちまける。その中の一つが、フッと完全に消滅した。かつてマリナリが使った集土の壺。部分的に破壊されれば、膨大な土が放出されこの空間を埋めるはずだった。そのすべては虚空の彼方へ飛んで行ってしまった。これこそが唯一の本命。
失敗だ。彼の体の構成する材料にして、植物の肥料を展開できなかった。
完全に狙われていた。道具を破壊させるつもりだと、露呈していた。
この一手の間に、ルキウスの顔に無数の亀裂が入っている。さらに次には彼の下半身が分割されて崩れ落ちた。
残った体も、あらゆる場所に隙間が生まれて開いた。ボシュッ、頭部の口から上が鋭利にきりとられ丸ごと消失し、体もさらに切り刻まれる。無事なのは、飲みこんだ神器の近辺ぐらいだ。
残った下あごが叫ぶ。
「運命は過去からやってくる!」
「何かはさせない」
レイアがささやく。
それを合図に、残った体が爆発、四方八方へと散った。ただし、破片と破片は極めて細い管でつながっていた。さらに、残った体だけではない。
畑にばらまいた種が芽吹くように、血の海にひたった肉片から糸よりも細いつるが急激に伸び、お互いに絡み合い、あやとりの紐か、レースのような構造を成してこの階を埋めつくす。
その拡張は銃弾より早い。通路には、湿った輝きを宿した赤いクモの巣が張り巡らされ、どんどん通行不能になっている。
彼の質量はそれほど変化していない。少なくとも、この階の空間に匹敵する質量はない。
あの腐邪主の真似だ。肉を展開して密度を減らす、それが空間を基本単位とする者に対する合理的解。
タンパク質の分子構造、フィラメントの接続を表面積を増すよう最適化し、薄い糸を極限まで伸ばせる、空白を多く含むメッシュの肉体を作った。
その中には極小の髄が点在し、三重螺旋による伸縮性を有した導管が互いを結びつけ、応力は適度に分散されている。
ここまでは常道、ここからは狂気。残る神気のすべてが自己増殖に消費された。さらに彼の体の大半は血管剥き出しの断面となっている。再生は、断面から新たな体を再生している。それはもう純粋な増殖だった。
成長が加速する。
暴れ狂うつるが壁を打ちながらレイアを追う。彼女は転移を繰り返しつつ空間を奪ったが、減った体はすぐに増殖で補われる。彼女は、無理を悟るとすべての力で空間防壁を強化した。
ベチャンと、防壁へへばりついたつるが、空間の歪みをぐるぐる巻きにして、どこからか押し入ろうとした。だが、強固な空間壁を突破できない。神気が残っていれば、こじ開けてかすめるだけで狂気に陥らせることも可能だった。
しかし、動きは封じた。なんらかの手で揺さぶるか、上階で都合のいいWOを探してもいい。ドアを開け、開放ボタンを押すぐらいはできる。
その状況で、ルキウスはただ広がっていた。
もう、思考力は消えつつある。『伸びろ』、それが彼の体に下された最後の命令。すべてが極細の糸と化したルキウスは、より合理的なメッシュ構造を徹底し、どこまでも伸びていく。
(狂気の森、広げる。これ、れ、を。ずっと。どこまでも、海までも、あの日までも。なぜ? 狂気の森の主だから? 俺じゃない。俺は古くない。でも、あれ増やす? 増やさないと増やす増や増や、え、増えないよ。誰だ、増えるものじゃないっての、だかれらうようよ増え、ない。狂気の森に神なんていない。森は無い。だって、それは……無いなら増やす。無いから増えない。だから増やそう。高く家まで、どこまでも低く、増やせないから増やす)
ルキウスの思考が絡みあって前に進まなくなった。それに応じてか、やや体の拡張も鈍り、さらに鈍化するかと思われた時、彼はいったん収縮すると破裂的な膨張を開始した。
宇宙船の壁が崩れ、レイアはどこかへ消えた。すべての空間がうねった。うねりに突き刺さったつるが、その先へ成長する。
土だ。水だ。肉だ。
光を求めて、上へ上へ。触手は枝分かれして広がり、すべてを食い散らし、帝都の道路や建物を割ると、有機物も無機物も無関係に貪った。
つるは競うように互いに絡まり合い、終結すると爆発的に分流した。
もはや帝都はない。どこを見ても、たまに脈打つ不気味なつるのメッシュで満ちている。このつるはもっといいものを感じた。それは暖かく気持ちがよかった。
パシュン! いつかの時代、森に満ちていた音がした。歩兵の初期装備のボルトアクションライフルの発射音。
スカーレットが片手で持ったライフルの銃口を向けてきた。彼女は既製品の黄色のワンピースを着ていた。ルキウスが彼女に二回目に遭遇した時の記憶。
その銃の射線を避けるのはたやすく、斬りこんで数撃で終わった。あまりいい物は落とさなかった。
また彼女の銃口が木の上のルキウスへ向けられた。彼は即座に襲いかかったが、彼女は木から降りそそぐ虫の雨でパニックになっており戦闘どころではなかった。簡単に倒せた。哀れだったので何も取らなかった。
これが最初の記憶。
しかし彼女によれば、普通の軍服装備だった頃にやられたことがあるらしい。覚えてない。これを言うと地味に機嫌が悪くなる。
それからしばらくのあいだ、彼女はルキウスを目当てに森に来て、会うたびに「出やがったな!」と叫ばれた。叫ぶ暇があったら引き金を引け。
それから何度戦っただろうか。即席パーティーは神になる前の彼でも、罠でどうにでもできた。
名のある罠士の多くが彼の味方だったこともあり、罠の対処をできる敵はまれだった。
彼女はあきらめない。
単独行動の愚かさを理解したのか、パットン軍曹とエートアップ五等兵と組むようになった。これがルキウスを有名にした交戦動画を撮った三人。
彼らは強いがあんまり本気じゃないから、楽しくはやれてもルキウスには勝てない。
それでなじみになったので、それなりに話すこともあるが、彼女とは会話が成り立たない。基本、罵倒しかない。きっと、一度はやられてあげないと罵倒が続く。
彼女はバカだ。罠を警戒していても、ルキウスを認めるとまっすぐに来てかかる。罠を踏むのが生きがいなのかと思った。
でもきっと、一発でも弾丸を打ちこめれば、負けても問題ないのだ。
ルキウスが神になると、森の侵略者が激減した。あまりにも強かったからだ。彼女は普通に来た。ほぼ負けてるから、問題はなかったのだろう。
彼女はいつしか来なくなった。大がかりな罠は前もって準備するから意図した相手にかかることは少ない。待つことはよくある。だからいつかは来ると思った。
完全に来なくなったと認識しても、長いあいだ彼女用の罠メニューを開発して待った。いつ彼女用の罠を作るのをやめたか覚えていない。
彼女の鹵獲品専用の部屋を作った。こんなのは彼女だけだ。執念深い彼女はまた来るから、その時に装備を餌にしようと思った。確実にまた来る。
そもそもここまで恨まれたのは、鹵獲した彼女の特製ドレスを世紀末風に改造して、森の木の上で展示したのが原因だ。
胸に中心に、『竹千代』と入れた獣の骨と毛皮と鳥の羽のパッチワークが自慢のポイントだった。
千回殺してやると言われた。ほかのプレイヤーにもやったが、費用対効果が低くがっかりした。
そんないつかの記憶に、彼は意味を感じず、言葉や文としては理解できなかった。思考ともいえない確信だけが残る。
ぼんやりと揺らめく緋色。
スカーレットはあんな陰気にはならねえ。年老いても、燃えている。
レイアは、あれがおとなしく大統領の隣にいたように言った。そんなことはない。あるはずがない。文句がなくても文句があるのが彼女だ。
帝都を飲みこみ、彼はさらに爆発する。
大陸を覆いながら、高く高くへ盛り上がって雲までも喰らい、ボン! その拡張は、第二宇宙速度をはるかに超える。あらゆる抵抗までもを喰らい虚空へ飛び出した複雑に絡み合う巨大な柱は、二つの月を捕まえてかみ砕くと、しばらく経ってから、また爆発した。
破滅的な濁流が複数に分かれてめざしたのは、この星系の惑星。その先端が到着したものなら食い尽くされるのは一瞬だった。彼は太陽までも吸収した。
成長に際限などなく、百光年ぐらいまでの近場では、昼が失われた。
その時、宇宙を漂うつるは緩やかに渦巻きを成していた。光はどこまでも重くなり、自ら彼に食われにきた。銀河が次々に口の中へ飛びこんできた。
やがて全宇宙の流動が始まり、彼へ彼へと沈みこんでいった。宇宙のあらゆる所に亀裂が入り、そこからはどこかで見たような白がのぞいていた。
バギ! ビシ! 亀裂が大きくなっていく。宇宙がはちきれた。
――ひぃ!
そこは、ただ白く、重力を感じない。いや、傾いている。