プロローグ2
「ゴホッ、ゴホ」ルキウスがむせて咳きこむ。
「なんだ、何が起きた……」
VRに使われている量子干渉技術は、五感以上を再現する。
脳の電荷と、脳をスキャンしてギア内に構築されたシナプスマップを紐付けして情報をやり取りすることで、魔力を消費した脱力感や、敵を感知する超感覚すら疑似的に再現している。
なんでもできるVRだが、意図的に省かれた感覚もあった。それは味覚。
かつては存在したが、味覚障害、拒食症などの問題を起こし、一般利用は禁止された経緯があり、電子麻薬扱い。これをやるのは薬物中毒者だ。
ルキウスは味蕾を刺激された。味があった気がしたのだ。
それにギョッとして飲み込みかけた液体を反射的に吐いた。
ルキウスは優雅な長髪をいじって考えこむ。
久方ぶりのサイバーテロか? あるいはまたアトラスの挑戦か。しかし、度を越した唐突さ、違和感がある。
指先の感覚で 精神を落ち着ける。
ルキウスは深く椅子に座りなおし、カップに残った紅茶を見つめる。
彼の中指が、椅子の台座を何度か叩き、止まる。カップの中では赤黒い液体の揺れが収まっていた。
結論、仮に味があっても俺のせいじゃないし、むしろ貴重な経験の機会。トラブルあってのアトラスだ。
おもむろにカップへと手を伸ばし、恐る恐る紅茶を口に含んだ。その香りから推測された深く複雑な味わい。じっくりと味わってから、紅茶をごくりと飲みこんだ。
「味だ……適当に設定した味覚情報ではないように思える。最初から味が設定されていないとできないだろう。隠して設定してあった味覚情報をオンに切り替えたとか?」
「〔システムコール・ギルドチャット〕、〔システムコール・ログアウト〕」
ギルドメンバーと連絡を取ろうと考えたが、チャットは無反応、ログアウトも不可。
ルキウスはギルド【ぼっち同盟】に所属している。ソロプレイヤーの寄り合い所帯で、所属者は百人以上いてそれなりに活動している。
「チャットすら反応なしかよ。八時間で強制的に電源が落ちるはずだが」
窓の外に広がる空は不気味なまでに青く、彼が待つべき時間を引き伸ばして感じさせた。
「誰か探してみるか、何か知っているかもしれない」
彼のセーフハウスには店部分が存在し、他プレイヤーが訪れる。
彼は粗末な造りのドアを開けて部屋の外に出る。
「昼……正午?」
強い光を感じて、手でひさしを作って空を見上げた。太陽が天空の玉座で、熱と輝きをひけらかしている。
アトラス内は一日八時間、部屋に入った時間は朝。現実より時の流れが速いにせよ、正午には早い。
眼下には深緑の森。あの色、おそらく密林ではなく森林。
現在地はエレウテールの丘のはず。下に森が見えるのはおかしい。
「色々とバグってんのか? 意味がわからん」
視線を正面に戻せば、えんえんと続く空と森。
彼は表情をゆがめ、足元を確認する。足元はいつもの木の板。その下には巨大な木の枝があり先へと伸びている。
セーフハウス生命の木。彼がいるのはこの木の外部、五百メートル地点。
彼が最初の森イベントで一位を取って獲得した、高さ一キロメートルもの超大型セーフハウス。
ちなみに十倍ほどの大きさのギルドハウス世界樹が存在する。
セーフハウスは、個人で所有し自由に持ち運べる安全な家であり活動拠点だ。
特定のセーフポイントにのみ設置可能。視覚的にリアルと大差ないVR世界で、精神を安らげる憩いの場所。
生命の木は、普段ゾデッカ大森林か、ナワケ密林地帯に設置してある。遠目にも見える森から突き出た青の巨樹で、来訪者は森の神の存在を知る。
この目印に寄れば、空を超えてそびえ立つ壁に見える。その根元から周囲へと張り出した豪快に波打つ巨大な根の間に、十メートル四方の両開き扉がある。
木の幹に溶けこむ扉を開けると、木の中身を丸ごとくり抜いたような白い木目で高さ二十メートルのエントランスホール。
中央には高さ五百メートル地点まで続く直径十メートルの吹き抜け、そのふちには螺旋階段。これはあまり使われず、螺旋階段内側の空洞を飛行魔法で移動するのが常だ。
飛べない者のため、魔道エレベーターが入口とは反対側に設置されているが、ほとんど稼働せず、一階で隠居生活を送っている。
螺旋階段前の中空には、静止して浮かぶ物がある。人より大きな木製の時計だ。
時針、分針、秒針は全てねじくれた木で、分針は、一度円を描いて元の軌道へ戻っている。文字盤は黒い木製で、その上には十二種の異なる葉が配置され、外周は蔓上の植物がグルグル巻きついている。
日の出る六時から十八時までは、上部に太陽のような光を放つヒマワリの花が現れ、残りの時間は星空の如き青の輝きをまとったゲッカビジンが現れる。それぞれ、十二時、零時に満開に咲き誇る。時計の針は地球のリアル時間を主張している。
この時計は時間を忘れがちで設置した。
エントランスホールを含め生命の木内の通路には、天井をツタが這いまわり、その無数に垂れたツタの先の球体の光精霊照明が中を柔らかく照らす。
エントランスホールに大きな薄い影を作るのは、二体のウッドゴーレム。木材で制作された魔道生命体で、自我はなく所有者の命に従うのみだ。
彼らは元の木に近い細めの形状で、体全体はうねってごつごつして小枝や葉が所々にある。
上部には渦がねじれたマンデルブロ集合的なうろが二つ空き、それを目とした異次元帰りのムンクの叫びのような顔が十メートル以上の高さから見下ろす。
材料はアトラス最高レベルだが、彼の戦闘に不要な高級品であるため飾りになった。
その足元には、四体ずつ騎兵型ハニワゴーレムが置かれている。
人間と同じサイズのハニワゴーレム達の顔は穴が三つ空いているだけだが、この顔もどことなくウッドゴーレムと似た癖がある。
一階エントランスを抜ければ、二階から五百メートル地点まで似たような構造。
一階層当たり高さ十メートルほど、中央の螺旋階段周りには通路と照明、その外側に扉がある。
扉の数は階ごとに異なるが、螺旋階段、外周通路、扉の景色がずっと続く。二階から五階までは来客用で、広い部屋が多く、パーティルーム、和室、木々の茂ったジャングルルーム、生産物展示室、戦利品展示室など。
それ以外の階層は、何かしらのコンセプトでインテリア・家具を設置した部屋と倉庫ばかり。
彼が一人で使うには広すぎるのである。
さらに五百メートル地点より先はどうなっているのか?
最上階の扉を開けば、高所の風が中へと吹きつける。
その風の来る先には、クリスタルみたいに透け輝く青い葉がそよぎ、巨大な枝の力強い流れ、無限に広がる空が出迎える。
そして今、ルキウスはその枝の上で金髪をなびかせていた。
彼はこの枝の上に手すり付きの通路を張り巡らせ、枝の上や幹にへばりつく形で多くの建造物を造っている。
彼の手が手すりに触れた。
「〔緑飛行/ヴァーダントフライ〕」
ルキウスの周りに微かに風が巻きおこり、体が浮遊する。軽く手すりを押してフワッと乗り越えると、体勢はそのままに風を切った。加速、下から地面が急激に迫る。
ぼわっとした濃い緑の匂いが作った薄膜を、破ったように感じた。
彼は地面の直前で停止すると、ゆっくりと地に足をついた。
セーフハウス敷地内の庭と、その外の森が見える。
「ゾデッカ大森林とは違う気がするなあ、ならどこなんだ」
睡蓮の池の前に立って見つめる森は、馴染みの森とは違う気がした。周囲から聞こえる鳥の声も違和感がある。
思考が渦を巻いているが、結論を導けない。
ふと索敵範囲内に敵意を感じた。
瞬時、思考の渦は霧散し、背負っていた緑鬼樹製ショートボウを手にし、敵の方へと足を踏みかえる。
二十メートルの距離。見た先には人間ぐらいの太さの大蛇が這っている。
「おいおい、敷地内だぞ! なんでセーフハウスに魔物がいる!?」
ダグザボア。赤、黒、黄の三色で編まれた二十メートル以上の大蛇の魔獣。
レベルは七百台。七百レベルの六人パーティで狩るのが適切な相手。七百レベルのプレイヤー一人でも勝てるが、割に合わないので普通は戦わない。
ルキウスはショートボウを構えて剣をつがえようとする。
(レジェンドボクトー……あ、インベントリ開けねえじゃないか)
彼のすぐ前で、空間が窓を開けるように開いた。黒い空間の中に、洞爺湖と彫られた黒い木刀が見える。
「は?」
思わず間抜けな声が出た。
シュルシュル這う大蛇は、そろそろ十メートルの距離。ダグザボアが身をしならせ飛びかかる距離。
釈然としないが黒い空間に突っこみ、レジェンドボクトーを取り出した。
これはかつて北海道に存在した洞爺湖近辺で製造されていた武器だ。
最終戦争で洞爺湖は消しとび、一帯は海になり、製造方法も材料も同時に失われた。実戦で使用された際は戦車を両断し、自立兵器群をなぎ倒したと伝わっている。
アトラスではガチャのはずれ枠の品だが〈機械特効〉の特性があり、普段使いしている。
レジェンドボクトーを弓につがえる。
「〔神銀木/ミスリルウッド〕〈剣矢〉」
ダグザボアは飛びかからんと鎌首をもたげた。同時に小さく弦の音が鳴る。
大蛇が大口を開け喉奥を見せた瞬間、レジェンドボクトーは頭部を貫通、爆散させ、そのまま森の奥へと飛び去った。
彼の足元に牙が飛んできた。ルキウスは棒立ちになった。
「……色々おかしいな。おかしいのはちょっと前からだし、世間的には運営開始時からアトラスはおかしいが、これはおかしいな、おかしいな」
とぼとぼと歩いて、頭の無いダグザボアの死体を見下ろせる位置まで来た。
死体があるのはいい。アトラスでは、死体に採掘や革採集などをして物を得る。
血はなんだこれ? アトラスで血を見るのは一部のスキル演出ぐらい。
だが足元ではちぎれたホースが血を噴き、飛び散った血に新たな血が追加され池となっている。
「〔システムコール・システムメニュー〕……あいかわらず反応なし……強制マニュアル戦闘イベントだな」
陰鬱とした表情で独り言。
〈剣矢〉は剣を矢に使うスキル。放った剣は回収するまで使用できず、回収不可になるリスクがあるが、同じグレードの矢より威力が高い。
レジェンドボクトーはそれなりの性能で、普段は金属武器を使用しない彼には丁度よい矢だ。
ガチャのはずれアイテムで数はあるが、元は現金である以上、回収はする。
彼は解せない表情の彼が向かう暗い森からは、鳥とも獣ともつかぬ不気味な声が何重にもなって聞こえてくる。音は方向も距離も定まらず、全身に深く染みる。近くの茂みからは何かが飛び出しそうだ。
彼以外のプレイヤーなら、この状況で森には入らないかもしれない。
だが、街の宿屋よりも森の茂みで眠るほうが安全なのが彼だ。
現在の職業構成では森林・密林地形において基礎能力が一九〇%上昇する。基礎能力だけだが千九百レベル相応になる。
千レベル級のクリーチャーに襲撃されても、五分かからずに勝てる。圧倒的戦闘能力で、自然現象、植物の魔法を自在に使う森の神だ。
彼は、途中から先がない枝、幹がえぐられた木を目印に、森の奥へまっすぐ歩いていく。
自由を手にした新鮮な精油と、生々しい金属的な生物臭が混じって漂っている。
(少しゲオスミンが濃いようだが、湿気は感じないな)
近くの植物はルキウスが歩きやすいように自ら移動し、あるいはのけぞり道を作っていく。
日光は高い木々に遮られ非常に暗い。その暗さにもルキウスは慣れていて、特殊な〈暗視〉スキルが機能し、普段の視界を確保する。
目印をたどった果てには、黒い木刀が大きな石に刺さっていた。
「木も石も非破壊オブジェクトだってのに、特殊なやつじゃないよな」
アトラスで地形を変えるのは地形干渉用の魔法や道具だけ。
ルキウスはレジェンドボクトーを引き抜き、インベントリらしき空間にしまう。この箱をより大きく開こうと思考すると、すぐに大きく開いた。思考操作自体には慣れている。開け閉め、開け閉め、完璧だ。開ける! とみせかけて開けない。開かなかった。
中身は完全にルキウスのインベントリで、普段から使う装備の予備、矢、植物の種、ポーションなど。システムから開くウインドウのインベントリは使えなくなり、この謎空間がインベントリになったらしい。
「ふーん、まず……帰るか。セーフじゃないセーフハウスにな」
彼は森で無敵だが本物の野人ではない。それに生命の木の敷地内は森林判定だ。
彼はうっすらとした笑みで、森を目の動きだけで探り帰還した。安全ではない敷地でも、入ると安心する。
「はあー、どうにもイベントじゃなさそうだな」
彼は屈んでダグザボアをつついてみる。
「これどうする? リアル解体? 勘弁願いたいものだが」
死体から資源を採取する道具はインベントリにある。
解体する魔術はあるが、ルキウスの使える魔法はほぼ信仰術。植物系なら処理できるのだが。
彼が悩んでいると、底抜けに明るくまぬけな声が響いた。
「は、はひー! こんな所に魔物がいるのですーー!!」