狂気の森7
ゾト・イーテ歴 三〇二〇年 十月 二十六日 十時
悪魔の手への道中でルキウスが車を運転したがり、十分間で車が五回転する羽目になったが、転倒の度に彼が一瞬で成長させた樹木が車を支えて姿勢を立て直し、死人は出なかった。
「二度と運転させねえ」
トーヴァは能力を行使せんばかりの勢いでハンドルを取りかえした。
「けちけちするなよ、楽しく行こうぜ」
助手席のルキウスは、強引にトーヴァによりかかり肩を組んだ。
あれをフィリにやってくれれば、無理せず情報が読めたところだ。
「ほら、干し芋やるよ。たぶん腐ってない」
ルキウスが黄色いの物体をトーヴァの口にねじこむ。
「あんたは走れよ!」
もごもごとやるトーヴァを、ルキウスは無視して後ろを向いた。
「仕事はこれからだが、報酬だ」
フィリが後部座席で棒状の物を受け取った。報酬に希望した機械を発見する魔道具だ。これは一定の構造物に反応し、頭に情報を送ってくれる。停止状態や非金属製の機械も捕捉でき、本土でも貴重なものだ。この思わぬ掘り出し物には、残留思念がない。
「先払いとは聞いていないが」フィリが言った。
「いいさ。中に入って楽しく歩く、それで成功だ」
「ハンター全員がびびってた場所じゃねえか」
トーヴァが悪態をつく。
「心配するなよー。何回か入ってるが、何もなかった」
ルキウスが言いつつ、トーヴァの口に何か入れた。次から次へ入れている。
(こうやって距離を詰めてくるわけだ。わかってきたぞ、おそらく演技と素に境がないタイプだ)
「あそこは魔物の発生源になっているはずでは?」
フィリも正確な情報は持っていない。
「ギルドに情報がある魔物とかはいるぞ。ないのもいるぞ」
「いるじゃねえか! なんでもいる!」トーヴァが叫んだ。
「邪教徒の痕跡はなかったってこと」ルキウスは炒ったバンバラマメをつまんでいる。
「すでに探索済みと?」
フィリはルキウスを注意深く観察した。悪魔の腕から切り離された手が、コモンテレイ近辺で、喫緊の脅威となっている。しかしあれは彼らの仕業のはずだ。
「あまり広くないからな。でも思念術者はありだったな。違和感がある所を見つけてくれ」
「あなたは森の専門家だと聞いたが?」
「ひとりだと、あの邪教の性質とは、相性が悪いのかもしれないし……」
ルキウスは何か隠しているが、敵意も疑いもない。しかし、少しでも違和感を与えればどうなることか。
彼は知人が敵である可能性を絶対に消さない。フィリが強引に精神に接続しようとすれば、瞬時に首が落ちる。
それを至近より観察し、その性質を詳らかにし、国家の未来につなげる。場合によっては、彼の致命的な弱点を知れる。敵が少数なら、逆転の目もある。
互いにギリギリの所にいる。楽しくなってくる。
ルキウスは荒野の風を見ながら言う。
「なんだ? お前も親でも殺したのか?」
突然だ。これはフィリに向けられている。
「いや、あいにく殺してはいないが、なぜ?」
フィリは平静に応対したが、トーヴァはあきらかに表情が固い。
「こっちのハンターは、家庭問題抱えてるのが多いなと思って」
ルキウスは遠くを見たままだ。思考まで遠く、漏れ出る思念も読めない。
「親は歓迎しない職だ。当人がハンターですらも。とかく、あるもので、まあいろいろは」
フィリがご納得を、という調子で言った。
故郷で暴力沙汰を起こして逃げた程度はかわいいもので、気に入らない奴を殺してきたとかはざらだ。逆に犯罪組織から足抜けしてハンターもある。
それを考慮すると、フィリが粗暴でないところから推測したのか。品性のある超能力者がハンターになったなら、家庭に原因を求められる。
さもなくば、否定前提の問いの衝撃力で、なし崩し的に深くに踏み込む話術か。
「子供が海賊になるって言いだすよりはいいと思うが」
ルキウスは先の会話がどうでもいいように言った。回顧の思念だ。
「そりゃそうだ」トーヴァが平常に復帰した。
「君ら、超能力者で楽しい?」
ルキウスがたずねた。今度は興味が強い。はっきり認識できるほどだ。
「楽しい……、楽しいかと言われても……」
フィリは答えを持たなかった。
「女の愚痴を遮断できるのが最大の利点だな。こいつが、美辞麗句だけを通過させてくれればいいが、そうはいかん。音の高低で分けることはできるんだが」
トーヴァはくだらないことで遮断能力の高さを示した。
「へえ、嫌なものを完全拒否できるとは。変な生き物だな」
ルキウスはトーヴァに驚く。
「変か? 水をろ過したりもできるぞ。最初は道塞ぐのに使ってたが」
「そいつは宇宙に対する挑戦だ。後ろは? 一般人と差はあるよな? 愉快なことがあるはずなんだよ」
ルキウスがまたフィリに話をふった。
「ことさらに人を見る。まとった小世界も見えるので、自然と。別世界を生きているともいえるが、羨まれたことはない。それに、あなたほどは人々と違わない」
「冷たいこと言うなよ。仲間じゃないか」
これに、超人派のような選民意識はない。むしろ、逆。追いやられた者の仲間意識。あなたほどじゃないとは言わない。フィリが言われがちなことだ。
「あなたのように実物を産めれば、少しは愉快だったような気もする」
「それで年がら年中、植物の面倒をみる羽目になっている。お前は……神経質には見えないな」
少し違和感を持たれている。フィリは超能力者にしては落ち着いている。感受性の高い能力は、人目に敏感になり精神が不安定になる。部下との比較でわかる。
彼は、自分が強いせい、と推測しかけたが、思いかえすと若い頃から性格は変わっていない。軍の仲間を得る前から変化がない。
「私は見られるより見るほうで、恐れよりも興味だ。コモンテレイの作物は非常に興味深い。もちろん、あなたもね」
フィリは彼に迫る正当性を積む。自分の情報を与え、一度人格像が形成させておくと、多少の矛盾はかってに補正してくれる。それがフィリにとっての信用だ。
戦闘ならうそをつかませるが、今は事実で信用を得る。
「なるほど、おもしろいだろうな。こんなのもある。うまいよ」
ルキウスは納得して、チェリモヤを渡してきた。この緑の塊に、フィリは困った。手触りからして固い。素手で割るのは普通か? 経験上、彼は一般兵より筋力がある。簡単に割るのはまずい。超能力としては不自然。
と思っているとボン! チェリモヤの一部が破裂し、白い果肉が飛び散った。フィリはそれをもろに浴びた。
「ヒャーヒャヒャヒャ!」嬉しそうなルキウスの笑い声が響く。
「何やってんだ!?」
トーヴァがたまらず振り返る。そこには果肉が付着したフィリの顔がある。
「ブッハハハハ」トーヴァも大声で笑っている。
ここでフィリが気を取り直して納得してうなずいた。ルキウスはバカだ。今のは恐ろしく緻密な魔力制御で仕掛けを隠蔽していた。そしてこの果肉はうまく人の顔にへばりつく。
「やってくれる。だいぶあなたのことがわかった」
「そりゃいい。楽しくいこう友よ。お前はこれやる」
とルキウスがトーヴァの口に酒のボトルをつっこんだ。かなり飲ませたが、さらにボトルを傾けて飲ませようとしている。
「そんなに飲めるか!」トーヴァが口から酒をこぼした。
「果実酒全般は人気があるんだよ」ルキウスは自分も酒をあおる。
「高級酒なんだから、そりゃそうだろうよ」
トーヴァが運転にもどる。フィリは自分の顔に付着した果肉をぬぐって食べた。味わい深い甘みにかすかな酸味。ここの果実の中でもことさらにうまい。彼はその感想を述べる。
「かなり価値のあるものらしい。が、専門外だ。人の思考が一番理解できる。感覚的には、違うんだが、わかるらしい。そして原始的に思える動物は難しい。単純な思考こそ理解しやすいと考えていたが、思考から行動が予測しにくい」
「だろうな」
「自然祭司なら、動物と話せるのでは?」
「それは魔法的翻訳のことか? それともボディランゲージとか?」
「差があるので?」
「知性構造は、その身体と無関係ではいられない。動物にとってボディランゲージは重要だ。動物に化けなくても、大きな身振りで通じる。虫にはフェロモンだ。あいつらは薬物重視だ」
「興味深い。とすると、人の高い知能でも、動物を理解するのは難しい?」
「動物は人の下位ではないからな。……イソギンチャクなら、どんな夢を見るか? 意外に海底を疾走する夢かもしれない。あのような連中の思考が見えれば……」
ルキウスは何かを考えていた。
このようなフィリにとっては安全な論議が、彼らを目的地に到着させた。
悪魔の手は、暴れる樹木群が絡み合って玉を形成しようとして、それがおさまりきれず爆発した印象だ。樹冠の木々は、大きさも生える方向も不揃いで色もばらばらだ。
彩は、最初の資料より黒い。もともとは、葉も幹も、植物にあるまじき原色をぶちまけた前衛絵画のようだったが、倉庫にしまわれて黒ずんだ印象。より奥に向かうほどくすんでいく。
付近には、悪魔の手を監視する陣地があり、鹵獲された野砲が並んでいる。付近にはハンターの戦闘車両が多数展開していた。
そこには魔法使いも配置されていたが、超人派はいない。これは当てが外れた。彼らが興味を示すのは、これだろうとフィリは思っていた。
ここでルキウスは森用の装備に着替えた。仮面は変わらず顔の上部を覆うものだが、あらゆる色が混じった無数の渦がひしめく立体的模様だ。そしてローブを脱ぎ、二本の長剣を背負った。
さらに知った顔になったトンムスが加わった。彼は、かなりルキウスに信用されている。さらにもう一人をルキウスが紹介する。
「こちらはソワラさんです。スンディのほうから来ました」
目がくらむ白のドレスを着て、奇妙なまでにシンプルな金属の杖を持った美しい女性が優雅に会釈した。
「皆さん、ごきげんよう」
彼女は事前情報にある緑化機関の魔術師だ。思念を読むまでもなく中身と外面が違う。ルキウスと違い、所作が作られ過ぎている。自然に見せるには、いくらかだめなところがいる。
「腕利きの戦闘魔術師なので、あてにしていい」
ルキウスが言った。彼らは敵への対処の打ち合わせをして、悪魔の手に近づいた。
「ここに入るのかよ」
トーヴァが、横方向に伸びてほかの木に絡みついている木に絶句した。ここの木々は光を目指さず、好き勝手な方向へ伸び、生々しい幹すらある。歪な形をした果実が上から垂れ、ねじくれた枝が木と木のはざまをうめている。
「高いので大きく見えるが、中心まで二千ない。普通に歩いて終わる。理想は邪教の根っこになる魔王的存在を発見することです。皆さん気楽にがんばりましょう」
ルキウスが説明口調で言った。
「いや、最悪だろ」トーヴァが言った。
「さあ、行きましょう行きましょう」とルキウスは悪魔の手に入っていく。彼の進路を塞いでいた木が、ぐいっと体を持ち上げて道を作っていく。
「あれは森ジョークですか?」フィリがトンムスに目配せした。
「以前、森で悪魔見かけたから斬っといた。とは言っていたかな?」
トンムスがルキウスの背を追う。基本は密集隊形だ。
悪魔の手の内部は夜のように暗く、重く邪悪な気がその内より漂ってきた。
「以前は、ここで果物などが採取可能だったとか? そもそも元はなんなんです?」
フィリが言った。
「ええ……」珍しくルキウスの歯切れが悪い。「誰も知らない様々な運命が交錯した結果、荒ぶる力により森が生まれたが、それが汚染されて、これになった」
「正常ならどんな森なんですか?」トンムスが聞いた。
「純粋な混沌の森だ。ほかのハンターに聞いただろ?」
「ええ。そもそも混沌のエネルギーとはなんですか? 善と悪、生命と死のエネルギーは明瞭ですが」
「善悪が明瞭とは、なかなかの賢人ぶりだ」フィリが言った。
「だいたいはわかるだろう」トンムスが茶々に文句を言う。
「妖精は混沌の存在が多いだろ。あんな感じだ」ルキウスが言った。
「彼らは動きが予測不能で、自由といった感じですが、これは……」
トンムスが周囲を意識しつつ言った。近くの木の上を、頭が三つあるヘビが這っている。それが枝にある幹と質が違う突起に触れると、影になった葉で覆われた天井から数本のつるが振ってきてヘビに絡みつき、高くへ連れ去った。
「混沌は、無から生物を産む。つまりやる気パワーだ」
ルキウスが言うと、トンムスがフィリに目配せした。
「こちらに見解を求められましてもね」
「やる気ってレベルじゃねえだろ」とトーヴァ。
ソワラは涼しい顔で太い根をかわして歩いている。
ルキウスが木を紹介しながら進むが、どれもまともな形ではない。半分ほどが魔物の説明に近い。どんな毒だとか、どうすると襲ってくるとかだ。幻を見せるはまだいいが、話し出すと止まらないは木の説明なのだろうか。
たまにいる木に化けている花虫綱生物のほうが常識的だ。
「何か……来ている」
フィリが言った。森の中は不気味なささやきで満ちており、生物の気配が読みにくい。
しかしすぐにその正体は知れた。遠くの暗がりある木の幹に、何かの線が見え、それが動いていた。一定の方向へ進んでいる。その流れはどうもこちらを目指しているようで、ガサガザと葉が揺れる音が近づいてくる。
強固な顎を持つシロアリに近い虫の大群が、太い川となって、広がりながらこちらへ来る。それは、あらゆる木に登り、あるいは地面を這って広がりながら押し寄せてくる。川が景色全体になりつつある。
「問題ない。〔灰の嵐/アッシュストーム〕」
ルキウスがベルトに下げていた小壺の灰をつまむと、進行方向全体を覆う灰の嵐が展開され、虫を包んで暴れ続けた。嵐が静まり、灰まみれになった場所ではすべての虫が果てていた。
「普通の灰ではないですね」とトンムス。
「イラ苔とケンダクの根を混ぜて焼いた灰だ。火加減にコツがある」
ルキウスが白くなった手袋を見せる。
「四時にもいくらかいるぞ」
トーヴァが木の上を警戒して後退した。群れからはぐれたのか、枝にいくらか虫の塊がいる。
ルキウスはそちらへ右手を向け、手のひらからすさまじい勢いで黒いガスを噴射した。完全にトーヴァも巻きこまれている。
「うお!」
トーヴァがガスから逃れて、ルキウスをにらんだ。虫は枝からぼとぼと落ちてきた。死んでいる。
「ただの虫毒だ」
「大丈夫なのかよ?」トーヴァが手で体を払う。
「人間が吸っても、死にかけになるぐらいだから問題ない」
ルキウスは、虫の死骸を避けた道から前進する。
「おい!」とトーヴァが必死になる。
「それは大変ですね」トンムスが冷淡に言った。
「あなたが死にかけても、たいした問題はありませんよ」ソワラがそそくさと進む。
「本気にするなよ」フィリが言った。
「あれは、本気だと思いますよ」トンムスがぼそっと言った。
トーヴァはこの野郎が、と言う顔をしているがどうにもできない。
「ここは忍ばずともよい場所で?」
フィリがルキウスに尋ねた、森では息を殺すのが彼の常識だ。
「入った時から、人の耳に聴こえない音でわめいている。低く鈍い、底を伝う音だ。獣は息をひそめて襲いかかるが、ここの連中は本能に忠実だ」
「つまり?」
「一帯は騒ぎで満ちている。こそこそ進む意味は乏しい」
ルキウスはただ歩いているだけに見えるが、頻繁に魔法を使っていた。何かの力を放射しているらしく、虫は現れなくなった。
異様な植物の展覧会を順調に進んでいくと景色が一変した。木の幹はすべてが黒くなり、朽ちているものも多い。
対称性を放棄した不気味なキノコがいたる所にはえている。
葉と呼べるものは少なくなった。朽ちた木は苔の生えた岩のようで、森と言うより迷宮だ。奇妙な小動物が目につく。触手で歩く目玉や、体の中央から開いたリスなどの小動物。ここでは臓器など必要ないのだ。
「なんだ、あの気持ち悪いのは」
トーヴァが言ったのは、近くをとことこと横切った人の手のミイラのような生き物だ。手より関節が多く、不気味なひだが大量にあった。そして手の甲にあたる部分には、感情を感じさせない人間の目がある。
「〔歩く手/ウォーキングハンド〕だ。握手したりしないかぎりは安全だ」
ルキウスは自然体のままだ。しかしほかにも生物の一部だけが独立した生き物になったような生物が多くいて、非常に不気味だ。
「これが汚染の中核ですか?」フィリが言った。
「ああ、奥は、奈落より腐邪界だな」
相当の覚悟をもったフィリの心胆を寒からしめることを、この男は平然と口にする。ここは異界化している。それも、多くの文明で、悪人が死後に送られるとされる最低の場所だ。人が踏み入ることはあってはならぬ領域だ。
「腐邪界とは、邪悪なるものどもの巣窟ですね」フィリが言った。「それ以外は知らない。人の理解からは、あまりに遠い場所だ」
「忌々しい汚染です」ソワラが言った。「知性なき欲望の権化たる腐邪が闊歩している。こいつらは暗い感情の塊で、自らの欲望を理解することすらない」
「腐邪は常識では計れない。うかつにそこらに触れるなよ」
「誰がこんなもん」
トーヴァは薄く能力を行使して、周囲から自分を守っていた。圧迫してくる思念には、人にはないねばりつく憎悪があり、フィリも意識を強くもった。
「来たな」ルキウスが二本の剣を抜いた。「乱気獣、個体で危険度八十、それの大群だ、適当に蹴散らす。こぼれたのと遊んどいて」
この地形では、歩兵中隊二百名が壊滅する戦力だ。
そしてトンムスが一時に対応できるのは二体までだろう。ルキウスが強力でも、見物人でいるのは難しい。フィリとトーヴァは静かにに力を高めた。
森の奥がざわめき、無数の影が飛ぶように駆けてくる。大きさは中型犬ほどだ。
こちらへ迫り来る動きは俊敏な獣に見えるが、木に当たったり、地面に下りるたびに衝撃を吸収して、全体が変形して柔らかいとわかる。
そして手や足だったものが、瞬時に変化して触手になったり、それが体に吸収されたり、また手足を生やすという変形を繰り返し、手足の数、位置、形状が定まらない。
それは体にめりこんでいる頭ですらそうで、目が増減したり、体に沿って移動している。口の形も数も定まらず、牙の羅列が体から飛び出し、ねじれながら液を吐いた。
乱気獣だ。
ルキウスは気負いなく群れに向っていく。乱気獣の動きは不規則で、彼に一直線には向かわない。ノミとリスを混ぜたような動きだ。 そこに、ブオー! という轟音。
ルキウスが斬りこみ、剣を振りぬいた音だ。彼は造作もなく乱気獣を追い、切り刻んでいる。その半数は、剣に触れただけで内から爆ぜていた。
ソワラは〔魔法誘導弾の嵐/マジックミサイルストーム〕を発動し、多数の魔法弾が彼らの上に滞空した。それのほとんどが直上に打ちあがる。乱気獣の群れは上からも来襲している。
魔法弾が彼らの頭の上で連続してさく裂し、複数の乱気獣が彼らを囲むように落ちる。
距離が近づいた瞬間に、フィリはその精神に触れる。シカと同程度の知能、しかし、思考はめまぐるしく変化しており、すべてを憎む錯乱状態の精神病患者をさらに悪化させたようだ。
練度の低い超能力者が下手に眺めていると、狂ってしまう精神。どう干渉するのが効果的か判断できないが、とにかく精神を潰せば止まる。
そう判断した時、一匹の乱気獣が、フィリを無視して後方へ転がった、かと思うと飛びかかり、すでにトーヴァが壁で、ルキウス以外を守っている。しかし、それにもぶつからず、どこかへ走っていった。
「無茶苦茶だな」
トンムスは落ちてきた一匹を切り伏せている。その勢いで次にも行こうとしたが、急に乱気獣から突き出した長く鋭利な角を警戒し慎重になり、複数の個体と牽制合戦になっている。
ソワラは普通に杖で殴り倒している。
前に出ていたルキウスはすぐに仕事を済ませて集団に戻り、まとわりついていた群れを外をはじくように斬った。
フィリは慎重に精神に干渉し、操ろうと試みていたが、困難だとわかった。ただし、その思念に覚えがあった。
「こいつ、もしやコモンテレイの森に侵入している異形では?」
「さすがだな、そのとおり。混沌のエネルギーに満ちたここではずっと不定形だが、外に出るときはある程度固定されるらしい」
ルキウスが答えた。
「斬る以外にも何かやっているように見えたが」
「混沌の力を注いで、混沌過剰で破裂させた。事前に言ったが、真っ二つにしても生きていたりする。油断するな」
ここからは頻繁に乱気獣の襲撃を受けた。一定の規模の襲撃が断続的にあり、とんでもない大群には合わなかった。
ルキウスによれば、同じようなぐちゃぐちゃ生物に見えても、角の多さ、大きさ、色合いなどで分類可能な違う生物で、協力はしないらしかった。名前も違うらしい。
フィリは直接戦闘に加われないように思われたが、ルキウスの混沌の力を注ぐ魔法は参考になった。より強く思考をかき混ぜてやると、乱気獣は体の内から引き裂かれ、死に絶えたのだ。
通常の生物と異なるがゆえに、精神への干渉が直接肉体のダメージになっている。界が異なるというのを、肌で理解した。
腐邪界に慣れてきた頃。フィリは横目でチラチラと遠くを見ていた。ふよふよ不安定に上下する黒い渦が遠くで浮遊しているのだ。たまに青く点滅する。魔力は感じない。自然現象だろうか。
多くのキノコの向こうにあるのが、自然と目につく。
ルキウスはそれを無視している。
「あれはなんでしょうね?」フィリはそれを脅威だと思わなかった。
「森で誘いに乗れば死ぬ」トンムスが言った。
「童話にあるようにですか?」
「悪魔の森でも多い。導きは要注意だ」
「何かあったか?」
ルキウスがやや妙な気配でトンムスに確認した。
「あれですよ。ウィル・オ・ウィスプのようなものでしょう?」
トンムスが渦を示した。ルキウスをそちらを視た。視覚ではない。かなり集中し、これまでになく神経質に魔法を使っている。そして言った。
「うーん、私には認識できないな」
「え?」
トンムスが渦を見つめた。
「こっちは見えている」フィリが言った。
「俺は見えねえが」トーヴァがフィリに顔を寄せ、同じ方向を見る。
「もしや、何か受けたか」トンムスが真剣な表情になる。
「いや……現時点で有害ではない。悪性の気配を感じない。行ってみよう」
ルキウスがトンムスを見ると、渦へ向かうように促した。
「え? あっちへ」
「これは初めて見た。探る価値がある」
ルキウスの思念は仕事のものではない。強烈な好奇心だ。恐れなどまったくない。
渦は近づいたかと思うと、別の場所に現れ、その距離も曖昧に思えた。しかし、何度か大型の敵をしのぎ、さらに追うと、ある地面にフッと吸い込まれて消えた。
フィリはルキウスの期待を受けて、そこに近づいた。
「ここは、何か人間的な思念が、かすかに」
そう言ったが、すべては暗い思念だ、生活感はない。多くの悪いものを集めたように感じられる。街中ではまずない。例えるならどぶ川の匂い。生活臭ではあっても、人自身がいない場所。
「調べてくれ、敵は潰しておく」
「時間をかけても?」
「なんだってかまわない。何か刺激を――悪魔やらと契約はするなよ。いや、まあいい、出てきたら殺すから」
フィリはしゃがみ、カビで覆われた土をよけて、その下の石に触れた。
渦のイメージが見えてきた。回転は不規則で、ときおり全体が歪む。そこに緊迫した感触と、鉄が混じった。――戦闘、フィリが慣れた思念。しかしこれは、焦燥が強い。困惑もある。
これは過去の思念だ。ここに住んでいた誰かの。となれば、基地の兵士しかない。
フィリは振り返りルキウスを視た。これまで認識できなかったものを感じる。彼の表面では、微細な渦が集結し、さらに大きな渦を形成している。
この気配は、過去の思念にわずかに混じっている。そこにいたということだ。
(基地をやったのは彼か? いや、ソワラの気配も近い。これが混沌? だとすると彼は)
フィリは自分の思考をまとめつつ、渦に自分の精神を触れさせる。決して飲まれぬように守りつつ、表面だけを触れさせ、その面積を拡大していく。
この渦の性質には、間違いなくルキウスの何かが含まれている。それと邪悪な汚染をより分ける。ここには、多くの魂だったものが溶けている。バラバラになった残骸だ。
(理解したぞルキウス。フィリという人間がではなく、この深き渦を通してだ。お前という人間はこれに内包される。渦のごとき者だ。形は違っても、あの乱気獣と同じ、常道を曲げずにはおられない)
しゃがんでいたフィリは、精神をのまれぬよう、たまに意識して近くの景色を見ていた。すると、自分の皮靴の一部に目がいった。
非常に小さな楕円系の傷がある。
この傷はいつできた? 切っても擦ってもいない。焦げたような損傷。体の内側で、靴の裏に近く目に入らなかった。ここに入ってからか? 違う。溶けている。
あのアリ人間の酸のしぶきか。嫌な予感がした。
――虫にはフェロモンだ。
黒い渦の中から、糸のようなものが伸びて、足につながっている。それは極めて微細な竜巻だ。
自分はどこかが接続されている。非常に細い線だ。精神に影響はない。しかし、思念や魔力と違う因子が強ければ、はっきり認識できない。何か、別の情報で結び付けられている。
渦を強い力で拒絶した瞬間、押し返してくる力を感じた。
「離れろ」
ルキウスがフィリを強く引いた。フィリの体が浮き、ルキウスが前に出た。
あの渦があった地面から、強烈な黒の奔流が巻き上がった。