狂気の森5
全員の警戒は静寂となり、すぐに室内の物が燃える音が聞こえだした。
「近くに明確な思念はない」フィリは集中を解いた。「最初は人の思念だったが、完全に複数の虫になって散った。理解しがたい。虫はちらほらいるぞ」
「あれは人間か!? 戦車並みだったぞ!」
トーヴァの声が大きくなる。
自然の力が満ちた場所では、動物の力をまとう術者は珍しくないが、虫は少ない。虫はあまりに人から遠く、まとえる力は部分的な性質になる。それを完全に変化し、おそらく他人を変異させた。普通ではない。
「この部屋は、魔術より宗教的だ。あのせりふからしても」
トンムスが奥へ通じる通路をのぞいた。そこには、臓物と骨が不規則に散乱していた。それは処理したというより、食べかけだった。肉をかじったような痕跡があり、骨は表面が溶けている。
「燃える前に捜索する。罠に注意、呪物を確保、思念は読めるか?」
ジョージが、槍で燃えている物体を部屋のすみによせる。
部屋に棚はなく、箱にいろいろな物が雑に詰め込まれている。これは電子機器が多い。
「部屋全体に微弱な思念がある……妙だな。強いのは……複数人が利用している。おそらく、さっきのと同じような奴がほかにもいるな」
役割に集中して見えるフィリは、冷静ではなかった。
さっきのはおかしい。眼前の脅威への対処を優先したが、やはりあれは精神を砕いた感触があった。ダミーではない。確実に砕き、すぐに復元した。意思のバックアップでもしたのか、相当に卓越した技術だ。それほどの魔法には、精神の専門家でなければ困難だ。物理的な対処なら、脳が二つあるとでもいうのか。
フィリ・キセン・スターデン元帥は小規模戦闘では無敵に近い。人相が見える距離にいる敵は、思うがままに廃人にできる。標的を目視する必要もない。敵意が向いた瞬間に、刃のごとき思念をぶつければ終わる。広範囲攻撃も可能で、思念を殻で覆って残し地雷にもできる。
天敵の機械以外は、壁が防いでくれればなんでも殺せる。耐えるには、前もって魔法で精神を保護するしかない。無防備で受ければ、あのルキウスでも意識は飛ぶだろう。
この自信があっての二人での行動。敵との距離が近い地下は彼向きの戦場。にもかかわらず、相性が悪い上に理解しがたい敵との遭遇で、彼の余裕が消え、任務よりも目の前の謎に興味が移った。この部屋は隠れ家というより儀式場だ。
「あんなのがほかにいるって?」
トーヴァは疲れが見える。ジョージは部屋の中の物に直接触れず、布でくるんでバックパックにしまう。そして通信機を出した。
「別班はでかい虫とやりあってる。応援はまだかかる。物を確保して撤退するぞ」
フィリは臓物が無造作に飛び散った部屋で、壁全体に傷んだ彫刻刀で刻まれた幾何学的模様と血で書きなぐられた文字の羅列を見ていた。
彼の視線が最後に止まったのは、さほど思念を感じない図形だった。きっと、道路標識と同じように自然に掲げた印だ。それは所々にとげのある線で描かれた、地面を示す横線、三つの穴、大地に刺さる管を示す縦の太い線。
「沈下系カルトだ」
「そのようだ」ジョージも納得した。
「相当強い祈りだ」フィリが壁の一部にある文字に触れた。「そして、何かと交信したな。それで力を得たか」
「どこでもカルトはわくようで」とトンムス。
「教会勢力が抜けたすきをついてきたな。文明の根幹は自然であり、その根源たる大地のより深くを支配したものが神の恩恵を得ると考えている」
「それで虫になろうってのか? 地面掘ったら出てくるようなのに」
トーヴァは部屋の奥に入るのをちゅうちょしている。入り口を封鎖できる位置を確保する役割をこなしているが、奇抜な物が転がる部屋に入りたくないだけだ。
「あいつらの派閥は、菌類を尊ぶ【小賢人】、蟲の文明化をめざす【うずもれたる殷賑】、死体の種類と数を豊かさとする【死体収集家の経済学】だ」
「虫だ」ジョージが来た道を確認する。「めぼしい物は確保した。一度離脱する」
ゾト・イーテ歴 三〇二〇年 十月 二十二日 星旅烏の巣
翌日、帰還した四人は、ハンター御用達の酒場にいた。そして同じテーブルにいすを持ってきたのが一人。
「そうか。いたか、邪教徒」
ルキウスは持ち込んだ白ワインを片手に、退屈な世間話の調子だ。
ギルドはハンターが虫に強制変化させられたと判断し厳戒態勢になっているが、彼はどうでもいいらしい。
「虫対策がなければ難しかった」ジョージが言った。
「上に出てくるなら、殺虫剤でも作らないと。しかし術者も虫になるとは。幻術や魔法の装甲ではなく、体が変化してたか?」
「切りつけた感触には、甲虫の硬さと弾性があった」とトンムス。
「そちらも同じ?」ルキウスがフィリに視線を送る。
「あれは人に虫が混ざっていた。邪悪で乱れ、この世のものとは思えない」
フィリが言った。
「それ、機神教の定義で?」ルキウスはおもしろそうに言った。
「さあ、厳密な教義は知らない。しかし邪悪なる存在、悪魔がいるとすればあれ以外にない」
「そうだな。悪魔か、魔神もしれない」
「残された思念は確実に人だったし……化ける前も、やや壊れた人間だったが」
壊れたというのは、認識能力が偏り、精神の構造が歪になった状態で、周囲に放つ思念の質も偏る。
「信者が力を熱望し、仲間入りすることはよくある」
ルキウスは常識のように語る。
「あれがよくあったらたまらない」トンムスが言った。「私は悪魔と会ったことがないし、ギルドが教示する対処法以外の理解もないが、お詳しいので?」
「悪の次元界は宇宙と同じほど広いといわれ、邪悪な存在も居住領域で分類される。悪魔は純粋な悪でひたすら悪行に勤しみ、その意に沿う者に力を与える。魔神と違って交渉は困難だ。帝国では魔王とか出たことないの?」
「そんなものが出たらたまったものではない。それに悪魔を使役する術は許されておらず、その分野に詳しい者は稀だろう。あなたは、異次元に住まう精霊などにも詳しいのか?」
フィリは興味を抑えられなかった。彼らの会話を聞くに任せたほうが無難だが、ルキウスがよほどの話したがりでなければ、素人相手に難解な説明はしない。そして、近距離で感じられる彼の気配は、秘め事を好む人間のものだ。さらに諦めが混じっている。これは卓越した能力の持ち主にはままある。
「まあまあだよ」
「私は物理現象は苦手で、次元というものについてうかがいたいが……」
フィリが身を引いて遠慮を示すと、ルキウスは自然に語りだした。常識を語るようで、熱も楽しさも悩みもなかった。
「次元というものは、我々が見て触れる次元以外にも存在している。線の一次元、平面、絵などの厚さがない二次元、我々の存在する立体空間の三次元、時間を足した場合は四次元。それより上は認識できない、普通は」
「認識できねえものをあるってのは、うさんくさくてどうもなあ」とトーヴァ。
「ベクトルみたいな概念だって、ある種の異次元の存在だよ」
「それは考え方の話では?」トンムスが言った。
「高次元を迂回させた計算を行い、その結果を現実用に換算することで、現実での理屈で考えていてはわからない物事の答えを得られる。魔術の儀式もそういった側面がある気がする」
「雲をつかむような話で……」トンムスは悩む。
「物事は大きく考えようってことだ」トーヴァの理解はいつも大雑把だ。
「理論の話はわかります。実態を伴うものならどうなります?」フィリが言った。
ルキウスは手のひらの上にワインボトルを浮かせた。
「これが物理的な力だが、下から吹いてはいない」
「最初に浮かせる魔法をかけた。力をまとっているのは手とボトルで、魔力の接続もない」
「これを、魔術師は見えない紐で繋がっているとよく言う」
「遠隔地で発動する力全般はそうですね」
「だが、紐があるなら、見えずとも切断できる」
「紐は高次元にあると言いたい」
「そうだ。我々のいる次元は高次元から見た時、数え始めることも困難なほどに入り組んだ大量の紐で、あらゆる所が結ばれており、きっちり密封されている。どうにかすれば、ベリベリ剥がせるかもしれないが」
フィリは自然と【世界一新】の言葉を思い出した。
――私の宇宙は、世界をほぐして得た糸で織られており、それは厚さを持たず、どこまでも深いのです。それはなんでも織り込んでしまえるのです。
彼は全宇宙を自らの織物に取り込もうとしている。今もそれを可能にするための瞑想をしているだろう。ルキウスは彼と似た答えを支持している。
「つまり、あらゆる力、情報の転移は日常のことと?」フィリが反応した。
「そうそう。我々は意識せず、常に高次元で結び付けられている。だから、目に見えない力が、距離を無視して伝わるわけだ。次元の切り取り様によっては、我々自体が複数同時に存在しているかもしれん」
ルキウスは楽しさを仮面の下に隠して言った。これは絶対に始原の生活を営む者の考えではない。伝統から飛躍している。
フィリは素直な尊敬の念が沸き上がる。自然の中にあって、学識を心得ている。それは彼の思想が、必ずしも帝国と断絶していないことを意味する。
「どういう意味です?」トンムスは怪訝な表情だ。
「絵本の国に住む人たちは、本を読む我々を認識できないが、私が本を破けば、何かの力が外にあることを知り、三次元の存在を推測できるだろうってな」
「余計になんのことやら」とトンムス。
「現実から離れないと、トンムス。理論上の存在で、特別な定義下で存在するんだ。魔法はそのような特殊な空間を作るが、魔法の行使者ですら、厳密な説明はできまい。私も説明できない。だが、実物はある」
ルキウスが亜空間袋をテーブルに置いて、口を開けた。植物、薬品、剣や矢などのほか、小型の電子機器も入っている。彼はそこに右手を突っ込んだ。
「さて、私の手は今どこにある?」
「袋の中です」とトンムス。
「この近くではないどこか?」とトーヴァ。
「それはどこかな?」ルキウスが袋の向きを変えて、腕を隠しより深くに入れた。「座標で言うなら、地図で書くなら様式はどうする? 絵ならどう描く?」
「魔術で人為的に構築された小規模な亜空間」フィリが言った。「しかし、どこかと問われるなら、我々の絵本に密着した別の絵本ということかな?」
「おお、それはいい線。でも、本当はここから先の腕がなく、あるように見せられているだけかも」
ルキウスが笑顔で袋に腕を出し入れする。
「手の感覚はあるんだろ?」とトーヴァ。
「感覚など容易にごまかせる。その技をやるタイプだろ?」ルキウスの視線はフィリ。
「ええ」フィリがうなずいた。「しかし、幻覚をかけつつ、実際に物をしまっておけるように作るのは容易ではない」
「だますより、空間をねじまげるほうが楽か? すごい力が要りそうだな?」
ルキウスがからかった。
「物理的な……科学技術なら大戦前ですら困難です。しかし魔術では、召喚術研究の歴史が長く、空間への干渉方法は確率されている。それに力を固定する媒体があれば、空間能力者でもできるはず」
「空間が歪んでいる幻覚を見せるほうが簡単じゃないか?」
「それは……そうだが、その袋は実際に機能している」
これは個別の話で、議論からは逃げている。その自覚はあった。理論の話で実物を例を挙げれば、話は終わってしまう。しかしルキウスの言葉は止まらなかった。
「入れる前の物体からして幻覚だったら?」
「世界のすべてを疑えと? あまりに非現実的だ。そういう事を考える人なんですね。自然を受け入れろと言うと思ったが」
「受け入れているよ。だから考えている。それこそ、高次元レベルの干渉技術があれば可能だ。人の魔法使いには難しいが、ちょっと視点を変えればいけるかも」
(これは自然の調和を好んでいない。安定でもなく、変化を好む人だ。それがなぜあれほどの力を使う? 知識と趣向がずれているぞ。彼の軸が見えない)
「……その可能性は否定できないが、あまりに空想的すぎて、それを言うとなんでもありになるのでは?」
そのちょっと変わった視点は、神の視点だ。その意味はわかっているはずだ。
「若いのに頭が固いな」ルキウスがボトルを握って、ワインを飲んだ。「要は紐が感じられるかどうかなんだな。力の大きさじゃない」
「極限集中状態での能力使用感覚では、紐を引いている感触はない」
フィリは何より自分の感性を信じる。これは超能力者でないものとは共有できない感覚だ。
「ならなんだ? 悪酔いしてつまらない映画を見る感覚でやってるのか?」
「どう……と言えば、頭の中に粒子が入ってくるというか。辺りに無数の点が浮かび、触れそうだが速すぎるし、時に無限に感じるほどに密度があり、時に何もない空間が無限に広がる」
これを聞いたルキウスは感心して言う。
「思念術者は精密な力だから、本質に近いのかな」
「というと?」
「紐というのは例えだ。高次元では、微細な粒子が激しく移動しており、それらは我々の次元に干渉している。粒子そのものの観測は困難であり、間接的に観測される。それは自然における無数の有機物質とエネルギー合成の帰結を、花の開花という象徴的サインで知るように、表面だけを我々は認識できるのだ」
「この世界の裏に奥底の世界があると、世界は二重三重だと」
「そうそう」ルキウスは気楽に言った。
「やはり、私には何の話か……」トンムスはあきらめた。
トーヴァは黙っているが、彼の能力は選択的な遮断ができるから、様々な力が存在することは理解している。見えなくとも、熱エネルギーだけを遮断したりできるのだ。これは感覚的行為だが、その紐の情報を得ているからできている。
「ハンター向けにするか」ルキウスが切り替えた。「多重の層なら理解できるんじゃないか? 層が現実と重なって存在するから感じられる」
「仕事で層というものを意識しないので」トンムスが申し訳なさそうにした。
「ここでは、幽霊の襲撃はよくある。肉体を持たないあれは、幽界層にいる。だから物理的には触れられず、魔法で戦わねばならない。しかし干渉はある。幽霊が憎悪を振りまかずとも、あの冷え冷えとした手が体を通り過ぎたなら、物理層以外で接触がおき、物理的身体に変調が出る」
「幽霊の領域と言われれば、わかるような気も」
「影の世界とかもあるな。とにかく別の次元にいるが、相互に影響を及ぼすために同じ次元にいるように感じられる。悪の次元界も、特殊な状況で我々の世界と重なり、その場合は――」
そこに威勢のいい声が響く。
「こんな所にいやがったか!」
現れたのは怒気に満ちたスーザオだ。彼は酒場をのぞくと、すぐさまルキウスのテーブルに駆け寄り、さらに文句を垂れようとした。しかし彼が次の口を開く前に、大きな腕が彼の後方より現れ、その頭髪をむんずとつかみ、体を引っ張り上げた。
「誰だ! ぶっ殺す!」
スーザオは吊られて後ろが見えていない。彼は体をひねった反動で後ろを向いた。
そこには大師ゾオ・トオの顔があった。
「スーザオ、元気そうじゃな」
あの髪型で酒を飲む四人の武僧は、とてつもなくめだっていたが、スーザオの前例から、ハンターは寄りつかなかった。
威圧的だったスーザオの顔面は、純然たる驚愕に変貌した。
「じじいィ! なんで!」
「さあ、貴様の功夫を見せてもらおうか」
スーザオは四人の武僧に手足をつかまれ、外へ運ばれていった。ルキウスが酒場全体へ呼びかける。
「ええ、近いうちに彼らの寺が開基しまーす。門下生になりたい方は緑化機関までー。十年修行すれば、素手で車が解体できるようになるぞ」
ハンターたちはなんとも言えない顔だ。
「さて、仕事をするか。自由にさせすぎたな」ルキウスが席を立った。
「あなたが行かれるのか?」
フィリが言った。
「いや、狩人がご機嫌で出撃した。その部屋にいた邪教徒は逃がさん。本土寄りの町が心配だが……やはり、それより根本の問題を解決しないと」
「あの化け物以上の問題があると?」
「魔王便秘だ」
「はあ?」
「魔王が出そうで出ない」
「だからそんな気軽な存在では……」
「いや魔王とは限らなくて。とにかく虫人間と似た気配を感じたら、ギルドに報告を」
ルキウスが酒場を出ていき、フィリが尋ねた。
「東では、魔王がよく出るので?」
「出るわけないでしょ」トンムスが即答した。




