余波
ルキウスは直接潰した基地以外の影響は出ないはずだと考えていた。生命の木を含む森の中を探査するような魔法が行使された痕跡が無いからだ。もしもこちらの幻術による隠蔽を貫通して探査しようとすればわかる仕掛けになっている。
現在は誰にもこの悪魔の森の中は疑われていない。万事うまく運んだと安心していた。
しかし、神とその軍団の降臨は惑星に隠しえない力場の波を起こした。
それは液体の満ちた器に比重も熱量も異なる液体を注ぎ込んだようなもの。器はあふれ、大きな乱流が沸き起こり、その流れは大気にも波及する。時として、しらけたそよ風が大嵐に成り得る。
預言者のような資質を持つ感覚の鋭い者達は、この波の影響を受け揺さぶられた。
「ホワタァーッ、ハーイッ、ハイッハイハイハイ」
大いに気勢を含んだ掛け声が一室に響いている。
揺らされるロウソクの火によって影が一層揺らめき、その影の持ち主によって火はまた揺らされる。暗い部屋でロウソクの光を受けた刃物が独特の赤い輝きを放つと、先の尖った髪の毛の束が少しずつ石の床へと落ちていく。
木造の壁天井に石床の部屋、丁度人一人分の大きさの石の寝台の上で老人が横たわっている。その老人の頭部目がけて若い男が全力で刃渡り一メートルほどの苗刀を振り下ろした。
「アチョーッ」
これは散髪である。
ここ、照霊寺の武僧にとっては生活の全てが鍛練である。重い石の食器で食事をとりそれを洗い、石を背に担いで農作業を行う。寺は峻険な山間にある。切り立った断崖に大岩が転がる道を直進するために、時には硬い岩に打たれた長い杭の上をピョンピョンと跳ねて渡る。散髪の行は当然に危険であり、これを行えるのは相当に鍛練を積んでいる証だ。
苗刀を振り下ろした若い男、スーザオは武僧らしく動きやすい道着に身を包んでいる。身分の高い巨躯の老人、ザチェン大師もいくらか飾りはあるが同じような道着であり、これは照霊寺が武断の場所であるのを示している。若いスーザオは当然、老いた大師の道着ですら隠し切れぬ筋肉によって大いに盛り上がっている。
しかし、外部の者が初めて照霊寺の武僧を見た時に注目するのは頭部である。武僧の頭部は几帳面に剃られているが、一部には長髪が垂直にセットされて生えている。真上から頭を見れば完全な×の形である。この×は敵を撃破した際、記録に付ける記号を示したものであり、位の高い僧ほどの髪が伸びる。大師は三十センチ以上の頭の×、スーザオには二十センチほどで、それらの髪先は×の中心部になるほど高くなるよう綺麗に切り揃えてある。
宗教的にも重要な髪型を作るため、スーザオは汗をしたたらせながら刃を降り続けた。
スーザオが極限の集中を維持しながら、最後の切り揃えをするべく散髪刀を振り下ろそうとした時だ。刹那にして景色が変わった。極限の集中が手繰り寄せた白昼夢。
謎の空間、明るいとも暗いとも言えず、自らの上下左右も定かならざる空間。ただ正面がとことん緑のうねりで埋め尽くされている。薄いのか分厚いのかも分からない、うごめく緑の壁の中には時折、赤や紫の色も潜んでいる。
スーザオはその凶悪で鋭い目を見開く。手にしていた苗刀は無い。あるのは己の身一つ。
突如目の前に現れた謎の存在、いや、そもそもここが何のかも不明。だがそれを気にすることもなく直感に従い拳は機敏に動く。照霊寺に後退はない、障害は破砕して進むのみ。前へ、ひたすら前へ。
「アーッタタタタタタタタタタ、カーッダダダダダダダ」
貫手、打突、掌打、手刀、打つ打つ打つ打つ打つ、あらゆる拳が硬くも柔らかいうごめく壁を押し込む。かつてルドトク帝国で排斥された魔族達が磨き上げ辿り着いた武術、極まれば戦車の主砲すらも蹴り返す対機械拳法、照霊拳は機械以外にも有効、しかし。
(何だこの手応えは……これは大地、いや自然そのものだ、何と美しくも悍ましい生命の根源の力が宿っている、無限の弾力、打てば打っただけ返る波。これには勝てぬ、いや、戦い自体が成り立たぬ。しかしこの力が内から弾けそうにみずみずしい禍々しさは一体。このままでは怪しき心地よさに包み込まれてしまう)
「照霊寺に破れぬもの無しぃぃ、ハッアアアァァッザアァァーーーク」
スーザオは不安を打ち払うべく、空間を縦に割る全力の手刀を振り下ろす。
その手刀は何も斬らなかった、白昼夢が去り視界が元の部屋に戻ったからだ。
それまでとは違う質の汗がドッと流れる。スーガオが初めて直面する未知の脅威だ。
「ジジイ」
「なんじゃ、大師と呼べと言っておろうが」
「俺には使命ができたぜ」
「なんじゃ急に」
「俺はあれを打ち倒さなければならん」
「あれ?あれってなんじゃ」
「……緑の奴だ」
「スーザオ、またやっとるんじゃないだろうな?」
「今日は飲んでねえよ」
「ここはいつでも禁酒じゃろうが……」
「そいじゃあ、俺はちょっくら旅に出るんで、そこんところよろしく」
スーザオは言い切るや否や、扉を勢いよくバタンと開け放ち暗闇に消えて行った。
「まったく、いつになったら真面目になるんじゃ、あのはなたれは……」
大師はいい年になっても精神的成長が見られないスーザオに呆れながら、おもむろにその真っすぐで長い髪に触れた。
「んんー?」
見れば床には大きな髪束が落ちている。髪の斜めにスッパリと切られて高さは半分ほどになってしまった。
「あの馬鹿、やりよったな。待たんか、こら!スーザオ!」
緑の月が真ん中にある、ここはどこだろうか。暗闇でただ緑の月が太陽の如く輝き、周囲には星一つ無い、これは夜空ではないのか。
そんなことを考えていると暗闇全体がざわめきうごめき始めた。暗闇はそれぞれが太い紐状になると、うねりながらに動き出し、皆が中央の月へと向かい絡みついていく。
全ての紐が月にまとわりつき、月は見えなくなった。ただ黒い球だけが存在している。次の瞬間、球は目をくらませんばかり光を放ち破裂した。
光が止み、視界が戻る。
中からは青く輝く葉を付けた木が現れた。明らかにこの世ならざる力を宿した木、あれは……。
「は! ……ふう」
月見の巫女は目を覚ました。
布団から出て窓から空を覗けば、そこにはいつも通りの夜空がある。緑の月も青の月も星々も普段通りで異常はない。
「何かが起きた……」
いつもと同じ確信だけが残る。
ルドトク帝国は一つの穴から始まった。ルドトク帝国初代皇帝は機神に導かれ掘り当てた穴から出現した機神に祝福され得た力で、近隣を武力で平定し帝国初期の地盤を築いたと伝わる。
その穴は今も帝都ゼル・ダーエケトスに存在している。
周囲を柵に囲まれたこの穴は選ばれた者しか入る事はできない。
かつて、土がポロポロと崩れていた穴の入口は豪華な石材で補強されている。入口からは石材で舗装された階段と道が五十メートルほどある。しかし、石材の区間を過ぎれば景色は様変わりして、白の通路が現れる。
切れ目や傷みが一切見られないこの白の通路をひたすら奥まで進んだ先、空気の流れもわずかな一室が存在する。
この部屋には入ると左右にはロッカーのような箱がずっと並んでいる。この無機質な箱を開いて見ると中には、あらゆる種類の機械部品に有機的な配線が箱から飛び出さんばかりにあふれ返っている。
そして部屋の正面には操作卓が数席並んでいる。
その卓にある小さなモニターは人知れずに起動して文字を表示する。
降臨・識別・緑。
「またどこぞに顕現したぞ、久方ぶりの大物よ」
「今回は二千年前とは違う、明らかに数が少ない」
「散っておらず狭い範囲に留まっておるから少なく感じるのであろうよ、ごちゃごちゃして何か分からんぞ、人か魔物かも判別できぬ」
「こっちの大陸ではないな、気配が遠いわ」
「人の気配は間違いなくある。人を超越した類かも知れぬ」
「海底女王に近い者かも知れぬな」
「また大陸沈没は嫌じゃぞ、魚ばかり食わねばならぬ」
「その魚を獲ってたのは我ではないか」
「食事などいらないでしょうに」
「下手に突かぬ方が身のためよ、今度こそ我らも途絶える事になるわ。二千年前を思い出せ」
「だがあれのおかげで人の数は減ったではないか、発展した退廃の世は好かんな」
「今回は闘争とは違う匂いを感じますね」
「ならば星の意図は何ぞや?」
「我は修復期と見る」
「修復とな?星の願いは闘争ではないのか」
「それはこれまでを見た結果に過ぎぬであろう、新しいものを見るやも知れぬ」
「これまで以上に星の力場が不安定になりよるわ」
「うねりが大きくなれば眠っている者も起きよう」
「食べ残しの掃除をしてもらたいのー」
「これほどの波とあれば食べ残しも動き出すかもの」
「こちらに挑んで来る手合いで無いと願いたい」
古い者達の会話に新たな話題が加わったが、十日もせぬ内にこの話題もこれまでの話題と同じように延々と同じループを繰り返す事になる。