戦2
西の森の中央を走る道は、木が生えていないだけの荒野だったが、森に車両が入れない状況では高速道路として機能する。
商人の武装トラックで混雑していただろう白と黒の土が入り混じった道は、轍が刻まれている。地面は固めてあるのか、深くえぐれてはいない。
そこを第八戦車中隊と、それに随伴する第一二五歩兵中隊がゆっくり進んでいた。
第八戦車中隊は精鋭で、編制は戦車十二台、装甲車四台、大型トラック二台。第一二五歩兵中隊は歩兵百四十人。
部隊は戦車を前面に押し立てて二列で進み、何事もなく、門まで十キロまで来た。
ほぼ直線の道の先には巨大な石の門がある。かつてのコモンテレイには無かったもので、進軍を開始した時よりかなり大きく見える。
ここは完全に迫撃砲の射程に入っている。しかし敵の姿は門の前には無い。西に面した建物の高層階にも人影は見えないが、こちらは確実に認識されている。
司令部からの命令は待機。
この周囲を陣地化できれば、コモンテレイの西側を砲撃可能だ。それは一気に二十キロの前進に成功したことを意味する。劇的な戦果である。
両側の森からの攻撃は最大限に警戒されている。枯れ草が多めの森は、比較的奥まで見えるが、人の気配はない。赤外線・魔力探知にも反応なし。
それでも兵は気が気でない。この位置に留まるのは自殺行為だ。
一斉砲撃を受ければ、数十の砲弾が一度に降り注ぐ。戦車も直撃には耐えられない。
早い段階で敵を誘引し、敵の性質を明らかにしつつ後退するものだと多くの兵が思っていた。
しかし、この緊張の待機状態がしばらく続いても何も起こらず、思いのほか敵は弱いのではないか、という楽観も多少混じり始めた頃、強い寒風が吹き、両脇の森の大樹が大きくそよいだ。
一帯は葉音で満ち、木がぐわんぐわんと揺れた。その木の歪曲は尋常ではない。大きな木が道を深く覗きこんでいる。両側の木が、どちらも道へと曲がっている。
索敵手が「魔力反応!」とよく通る声で警告した。
同時に歩兵のひとりが宙を舞った。多くの兵が、それを視界の片隅で捉えた。飛んだ歩兵はあまり回転せず、戦車に当たって地面に落ちそのまま動かない。彼は道へ飛び出した長い木の枝で払いのけられたのだ。
歩兵が状況を認識するには時間がかかった。一本の枝が道へ出てきた以外は、やや森が近づいたようにしか感じなかった。そのためらいのあいだに、木々が根をうねらせて歩き、道へ進出してきた。木の襲撃である。
歩兵が命令を待たず各自でアサルトライフルのルガル三七を散発的に撃ち、敵襲が認識される。戦車砲塔がウィーと回頭を開始した。
木々は到底植物とも思えぬ勢いで、車両に突進して横滑りさせ、振り回した枝が歩兵を打ち倒した。
トラックの上にいた兵が、ロケットランチャーを肩に担ぎあげる。巨大で近い的、外れるわけもない。木が爆発と共に倒れ、続いて戦車の機銃、主砲が火を噴いた。
これで数本の木が大きく割れて活動を停止したが、木を倒されることなど気にせず押し寄せた。多くの戦車が木にのしかかられ、つかんで引っぱられた砲塔はいびつに曲がった。
次から次へと木が湧き出てくる。普通の木と動く木の区別などつかない。誰もがとにかく銃を乱射し、必死に後退する。
部隊は大きな損害を受け行動不能になった車両を放棄し、準備されていた砲撃支援を受け全速で離脱した。戦闘現場には数本の倒れた木が残るだけで、また森に静けさが戻っていた。
第三対魔突撃隊、第五戦闘工兵隊は森を六キロほど入っており、そこで銃声を聞いた。
彼らの部隊は小隊単位で動いており、それが横に並んで長くなった探索隊形だった。
「遠い、中央だろうな」
第三対魔突撃隊の現場指揮官であるクライヴ大尉は、森の中で足を止めた。葉の落ちていない木が多いが、枯れ葉も相当に落ちておりカサカサ、パリと鳴る。
「おお、ついに。で、どうします? 降伏するなら受け入れるそうで」
常に軽く構えるマップ軍曹がニヤニヤと軽口を叩いた。
「戦う前に降伏する馬鹿がいるかよ」
重機関銃オプテム二五を背負った命知らずのカース伍長が言った。
「調子に乗ってやがる。魔法で色々できるからってな」
荷物が多いタクリエラ一等兵が言った。
「弾をぶちこめば死ぬのは、神代の魔術師でも同じだ」
ゴフィーナ上等兵が言った。
「ラクセン、大丈夫か?」
クライヴは、緊張で表情が固まり気味のラクセン大尉をおもんばかった。彼は部隊付きの心覚兵だ。刺繍の入った軍服を着ているが、森になじむ色合いだ。
「ああ……問題無い。近くに敵意は存在していない」
ラクセンは片目に力が入った険しい表情だ。
「道を進んでいた戦車中隊が、市から十ラッツで森より敵襲を受け後退中」
通信兵のカリエールが無線から耳を離して報告した。
「深いな」
クライヴが暗い森の奥を見つめた。太陽が上がってもあまり明るくならない。
「こっちの前を行く素人どもも順調だ」マップが言った。
「順調では困る。命令は森の突破ではなく、脅威の調査と排除だ」
クライヴが前進を再開した。
「そう言っても、敵はいねえ」
「まったくいないはずはない」
敵が配置されていないなら大雑把な砲撃をしてもいいはずだ。この森の西側には帝国軍しかいないことになる。命中精度は低くとも牽制になる。
「偵察だってのに、重装なんだよな」
ゴフィーナが腰の鞄に詰まった榴弾の感触を確かめた。
「起爆魔法をもらったらドカンだ」タクリエラが目を見開いた。
「ここまで人の痕跡はなかった。獣の痕跡もだ」マップの目は小刻みに動いていた。
「森だが敵は蛮族ではない。爆弾ぐらいあるはずだ」クライヴが言った。
「工兵が反応してないし、そもそも我らの前には二万の生贄がいらっしゃる」マップが邪魔な木の枝を鉈で落とした。
「生贄はやめろ」クライヴが注意した。
「予備役が俺たちの前で最前線なんですよ。連中もそう思ってますって」
「前線が広大なため常備軍だけでは薄くなりすぎる。予備役が戦闘に突入してから、そこに後方の我々が向かう作戦だ」
隊員がしゃべりながら進む。この大人数ではこそこそする意味はない。周囲はすべて友軍で距離も近い。
「でかい木に仰天して、森に入る前から敗北してるのは結構いたでしょ」
「あれは南部の工業地帯の連中だ。あいつらは道草ぐらいしか見たことがない」
「この寒さのせいか虫がいねえから」
「素っ裸でルガルの直撃を耐える奴もいないでしょうよ。あいつらはいかれてる」
「だから言ってるだろ。カポ族は服を着ると身体能力が劇的に下がるんだ」
「ここの敵は服着てますって」
「前、何かあったか?」クライヴが言った。
木々の切れ間に第七一〇予備大隊の姿が見える。背中があきらかに近くなった。一定の距離を保つようにしているが、意識していないあいだにかなり詰まってしまった。
「疲れたのか渋滞してます。速度を落とすようにと」
カリエールが伝達した。
「退役してからまともな職に就いてないのが過半数だって話だ」とマップ。
「失敗者どもは、ぼんくらだから失敗するんだ」とカース。
「非就業者と呼べ」と事務的にクライヴ。
「痩せてやがったな。ああならねえように名兵入りしねえと」とタクリエラ。
「これだから予備役の連中なんぞとは――うお!」
カースが軽く転倒して手をついた。
木の根にけつまずいた。クライヴはそう思ったが、カースの足元に茶色の塊を見つけ、その上の草と落ち葉をのけた。大きめの石だ。二本の根に挟まれている。引っぱっても抜けない。押しこまれている。よく周囲を見ると、このような石が各所にある。いずれも木々が少なく人が通りそうな道の中央だ。
さらに木々の根っこが東西に伸びている。多くは低い根だが、まれに平たい板根がある。同じ木の根なのに一筋だけ高い。それに、根はほとんどが東西に伸びており、多くが平行だ。
「周辺警戒、全隊停止だ。後続も停止させろ。工兵にも警告」
クライヴが手を払いながら立った。
「なんです?」
タクリエラが不思議そうな顔をした。
マップが落ち葉を拾い、周囲の木々を探った。
「この落ち葉、ここに無い木だぞ」
「なんだって?」
「地形に若干の細工がある。根っこが、低い、低い、低い、低い、少し高いだ」
クライヴが言った。マップが続く。
「この葉の木が近くにない。葉だけ持ってきて撒いてる。罠を警戒」
一同は一瞬だけ顔を見合わせて、全方位に神経を集中した。
その時、すぐ目の赤い人影が現れた。
「はぁーい、こんにちはー帝国の男たち」
帽子を深く被り顔がよく見えない赤い魔女、それはアブラヘルだった。即座に四人が一発だけ足を狙って発砲したが、弾はすり抜け、その先の草を揺らした。
クライヴは対幻術サングラスをかけた。薄く見え、光学的幻影だとわかる。
「素敵な女性を紹介してあげる。とても殿方に飢えているのよ、楽しんでいってねぇ」
言うだけ言って赤い魔女の幻影は消えた。
「近くにいるはずだが、やみくもに撃つなよ。幻術使いだ。上下も注意」
友軍が多く敵は幻術使い。確実に同士討ちを狙ってくる。隊員も言われるまでもなくわかっていて、水平射撃はできるだけ避ける。
すぐ近くの細い木がきしみ、木の表面の一部が盛り上がり人の顔のようになっていく。同時に伸びていた枝が縮み、幹に吸収されていった。
「距離を取れ、周辺警戒」
クライヴの命令で、小隊は密集隊形ですばやく後退する。
そのあいだに木は変形を終えた。枝が無くなると同時に餓死者のような細い腕が二本突き出て、根元は分かれて二本の足となった。
異様に細長い木の老婆だ。身長は人間の二倍はある。
顔は異常に細長く所々に剥げかけの樹皮があり、ゴワゴワとして固そうな髪が長く伸びて全身にまとわりつき、白い流れが垂れた体にはひび割れと黒いシミが散見される。
木の老婆はかくついた動作で首を回し、その顔を小隊に向け、肌と一体化した切れ込みのような目を四方に向かって限界まで開け、よだれが垂れて生々しい口を顔の半分ほどまで開いた。
「ギ、ギ、キャー」
木と木がこすり合わされたような異様な発声だ。
「こいつは――本物だ!」
ラクセンが言った。
「応射!」
クライヴが命令を発した時には、すでに周囲が銃声で満ちていた。前後左右で怒号が飛んでいる。
木の老婆の側にいたマップ、ゴフィーナ、タクリエラが発砲、それ以外はそのまま警戒している。新たな敵が別方向から同時に来ることはよくある。
しかしすぐにクライヴは次の命令を発した。
「集射! 集射だ!」
三人の火力では足りていないということ。木の老婆は直撃弾をものともせず、小隊へと一歩一歩大きく左右へふらつきながら走ってくる。小刻みにのけ反って衝撃は感じているようだが、表皮が剥げ飛んでいるだけで貫通していない。
クライヴも拳銃を抜いた。高くにある脳天を撃つが無視された。
「九時と七時にも出現中……距離三十と二十、こっち認識した!」
ひとりで周辺警戒役になっているカリエールの抑えた声に怯えの波がある。
目の前の木の老婆は一気に姿勢を低くした。上半身を狙っていた弾が外れ、老婆は加速してくる。そして低く飛びこんだ。猛烈な勢いで隊へまっすぐ飛んでくる。そのまま届く。
「クソ、注意!」
ゴフィーナが強引に擲弾を発射し、空中を滑る木の老婆に直撃した。爆発の衝撃と回避動作で隊員が倒れた。
「ギャアア」
隊員が即座に起きあがり戦闘態勢に復帰した時、ゴフィーナがこれまでない声で悲鳴を上げた。
彼の近くからむくりとよつんばいで起き上がった木の老婆は、血まみれの男性器をくわえていた。口から血を垂らして、目元はどこか満足そうに見える。大地に手を突いて、そのまま前を見て咀嚼している。
「なんてこった!」
カースがかすれた声で叫んだ。
恐怖の衝動にかられた隊員の射撃は、おぞましい顔面に集中した。老婆は耐えきれなくなり、顔を背けて倒れた。しかしすぐにばっと起きあがり、枯れた細長い両腕を抱きしめるように広げた。血のついた口を縦に大きく開き、向かってくる。
「排除! ポーション! 防護射撃、防護射撃!」
ほとんどの隊員が命令と無関係に後ずさる中、マップは老婆の横から接近し手榴弾を大きく開いた口の中に滑り込ませた。老婆は口で大きな丸い物を噛み潰そうとして、すさまじい形相で立ちどまる。手榴弾が炸裂、顔が爆散した。
さらに胴体に擲弾が炸裂、殴られたように倒れ、そのままになった。
タクリエラはゴフィーナを引きよせ、ポーションを使おうとしていたがピクリともしない。
「死んでる」
「そりゃあ、そうなるぜ! あれがちぎれればよおおお!」
マップは叫び、必死に弾倉を交換した。新たな二体が迫っている。
「即死する傷じゃない! 毒か呪いだ。攻撃は回避、軽傷でも即死の恐れあり」
「まじかよ!」
「ラクセン、停止させろ!」
クライヴが叫んだ。ラクセンは敵へ右手の手の平を向けて集中している。
「だめだ! こいつには人間的な精神がない。ほぼ植物だ」
「あの顔で意思がない!? ふざけるな。食いたがってるぜ」
「ルガルじゃ弱い。オプテムを」
「やってるよ!」
カースが重々しいオプテム二五の三脚を大地に固定してしゃがんでいた。そして連なった弾倉が絡まないように荒々しく伸ばし、引き金を引いた。
「ぶっとべぇぇ」
ドガガガガガと爆発音と金属音が連続した。地面に降る薬莢はルガルの倍以上の太さだ。
木の老婆は重機関銃の直撃を受け、体がはじけ飛んでいくが形を保っている。どんどん腹の体積を減らしながら、足の先から大地に根を張って一歩一歩をガクンガクンと進む。片方を撃てばもう片方が走る。それでカークは慌ただしく交互に撃っている。二体はガタガタ振動しながら、確実に接近している。後退しようにも、老婆は森に大量発生しているらしく戦闘音は激しくなるばかりだ。
マップが焼夷手榴弾を二体の中間で炸裂させた。両者に火がまとわりつき、わずかにたじろいだ。そこのオプテムを受け両者ともに転倒、さらに火力を集中させて撃破した。
「まだまだいるぞ!」
「なんで隣がフォローに来ねえ」
「全隊が同時に襲撃されてんだよ」
計三体の木の老婆が撃破され、部分的に焼けた木片になって散らばった。周囲では戦闘音が続いている。
「ラクセン、索敵を。術者が近くにいるはずだ。可能なら魔法を妨害。ゴフィーナが確実に死んだか確認しろ。麻痺かもしれん。本部に敵の特徴を知らせろ」
クライヴの指示でカリエールが通信を始める。マップはゴフィーナの脈をとった。
「出血が収まってきてる。正常に死んでる」
クライヴがリズムをつけて笛を吹いた。
「全隊を集結させる。防御隊形、味方を撃つなよ」
「撃たれる心配が必要だ」
ヒュンと風切り音がして、カースが頭を押さえ姿勢を低くした。
クライヴはゴフィーナのルガルを装備した。
「通信生きてるな!?」
「生きてますよ」
カリエールは通信機を耳から遠めにしている。本部も混乱していそうだ。
「来てる! 周囲の隊員は集結してる。伝わってる」
「そりゃあいいが、敵も一緒に追ってきてるぜ!」
タクリエラは合流しようとする小隊の背を追う老婆にルガルを連射した。化け物は兵士より走るのが早い。マップが木の老婆の高めを狙ってフルオートで撃った。
「でかくて助かる。人の可能性がないからな」
「しかし固いし、多すぎるって!」
「やはり敵意はない。ちょっと思考に介入します」
ラクセンが言った。
「なんだって!?」
クライヴは聞き返した。銃撃音がうるさい。
「思考強化をやる」
「ああ! やってくれ」
ラクセンは次々に隊員に触れて力を注いでいった。
「また出るぞ!」
カリエールがある木を指差したが、その木の変化が途中で止まり、すぐに集中砲火で粉々になった。普通の木であるせいか、化け物に変化する前はもろい。
「わかったぞ。何かの法則魔術でこちらの恐怖対象を実体化させている。今ので恐怖をしばらく消したんだ」
ラクセンが息を荒くしていた。
「この森全域でかよ? ここらだけだろ?」
「ほかはどうでもいい!」
「恐怖心を消せばこいつらは新しくは出ない」
「確実か!?」
「多分、多分ですが、思考に反応してるは間違いない。不自然な思念の流れを感じる」
「周りにどれだけ友軍がいると思ってるんだ! ボケッ!」
タクリエラが叫びながらも、正確に狙いつけて遠くで誰かを追う木の老婆を撃っている。強化されて冷静になっているが、悪態をつかずにはいられない。
「とにかく木から離れろ。盾に使うな」
「思考強化なんて十分とちょっとだろ?」
「あきらかに木が触媒だ。先に壊せばあれは出ないはずだ」
「それこそどれだけあるんだ!」
「砲撃支援はできないんですか?」
ラクセンはゴフィーナの鞄の発煙弾を確認していた。
「無理だろ。兵が散りすぎている」
「まず集結、それが完了しだい離脱するぞ」
彼らの元には四つの小隊が集結しつつあった。
アブラヘルは大きな木の内側に身を隠し、目を閉じて魔法で森の様子を見ていた。
「〔狂愛の鬼婆/ハグ・オブ・クレイジーラブ〕の性質がばれるには早い。摘んでおくかねえ、でも見ているのは一部だけだし……ほかのどこかで気付いていてもおかしくないか。恐れるものが現れる、わかったところでねえぇ」
アトラスでは、〔狂愛の鬼婆/ハグ・オブ・クレイジーラブ〕の噛みちぎりは、男性の急所に攻撃が命中すると通常クリティカルの十倍のダメージと出血による継続ダメージを与える。同レベル帯の五百レベルではほぼ即死であり、視覚的にも恐れられた。
物理攻撃に多少の耐性があり、銃と相性がいい。魔法に弱いのが欠点だが、火以外にはそこそこ耐えるし、心覚兵が大量に森に入るなら狙って刈り取る。
これを召喚する最高位魔法〔萌え出る恐怖の森/フォレスト・オブ・スプラプティングフィアー〕はあらかじめ木に魔術の準備をしておき発動させている。一度に出せる数は周囲の恐怖の量と質で限界が決まっており、兵は男性で、一度あれを見れば恐怖の質は固定されるから、この戦争中はあれしか出ない。
通常は味方が受ける恐怖を吸って戦力に変えるが、敵の人数に応じて一定の数が出るので、ほどほどの足止めにはちょうどよかった。
減った分は夜中にでも補充しておく必要がある。消費のほうが圧倒的に早く、いくらかよくなる程度の意味しかないが、長丁場だ。
「ルキウス様は言われた。物理戦なら帝国が有利、精神戦ならこちらが有利と。一般兵でも百万、決死の突撃ならこちらも危うい」
アブラヘルが森の各所を見て状況を確認した。ドンドン出現する恐ろしい老婆により哀れな男が量産されているが、集結に成功した部隊はアサルトライフルの火力だけで接近前に撃破できている。
もっとも、あれでは森を出るまで弾はもたない。生き残りたいなら装備を捨てて全力で走るほうが賢い。
「まずは恐怖から始めじわじわと精神を削り、次に同士討ちを誘い、迷わせ、それで無理なら直接止めるしかない」
戦いは始まったばかり。まだ彼女が手を出す段階ではない。
敵が逃げたり森に入らなくなる攻撃は、ルキウスに止められている。森を突破するための人員を投入させ続けろという命令。彼女にも楽な事ではない。
悲鳴が木の中まで響き、敵は引き返している。最初の足止めは成功だ。
事前の仕掛けだけで、森に入っている十万以上を停止させなければならない。
仮に軍が森を突破しても、その先に畑が十キロほどあり、そのあいだに防衛を厚くできるが、こちらの兵は二万しかいない。
コモンテレイ市の外周を四つに区切れば、一辺は二十キロ以上ある。
兵を均等に配置すると、一メートルにひとり。あまりに薄い膜だ。それで歩兵は南に集中しており、東は機甲部隊が守っている。
初日で一般兵が森を三十キロ進むことは物理的に不可能だが、手練れなら一時間で森を駆け抜ける。監視に気は抜けない。
ルキウスが帰還するまで、東西に三十キロ、南北に二十キロの森を彼女一人で守る必要がある。
「一番大事な戦場をくださった。ルキウス様はわかっていらっしゃる。多少なりとも森の誘いを体現できるのはこのアブラヘルだけであると」
アブラヘルが自分だけが配置された森でいい気分になっていると、ソワラから通信が来た。
「アブラヘル、道の南側の軍は後退していますが、北側は前進を継続中ですよ」
「すぐに行くよ」
アブラヘルの木に刻んだ印を使って北側に転移した。この攻撃は侵攻部隊を東西に分断する形で行われ、市に接近していた東側の部隊はそのまま置きざりになった。彼女はあえてそれを攻撃せずに敵の対処を待った。
未回収地奪還軍司令部は、市の西方のコンクリートで固められた地下壕にあった。
「森に建設中の迫撃砲陣地破壊されました」
ザノン・キセン・ベリサリ大将は幕僚の報告を聞いた。平静に命令を返す。
「侵攻部隊はすべて防御隊形に移行し、接近戦は回避し後退」
「火力不足です。ルガルでは歯が立ちません。接近までに無効化できない。携行型ロケットの直撃にすら耐えている。重機関銃の集中射でなんとか撃破しています」
「そりで無反動砲を入れろ。とにかく砲だ。撤退支援部隊を重装化しろ」
機銃は故障しやすく、射手が精神系魔法を受けると味方が一瞬で壊滅する。
「そりはほぼ支給済のはずです」
「木で作れ。山ほどある。あとは迫撃砲を直で使え。でかい的なら当たる。徹甲弾は持たせているな? 外れるときは撃つなよ」
徹甲弾を使うと砲が傷むが、死ぬよりはいい。
「極少数です」
「次から増やせ。榴弾は減らせ。魔道加速弾を少数支給、補給も増やせ」
至近距離で榴弾は使えない。自分も破片で死んでしまう。
ベリサリは森林戦の経験が豊富だが、森での重装甲目標大量出現は初めてだ。大型の魔物は通常少数で、誘導したのちに集中砲火で撃破する。しかし自軍が広域に展開しており、すでに肉薄されている。
「同士討ち回避を徹底させろ。魔物慣れしていない兵は容易に錯乱する」
「密集隊形の大隊突撃で敵出現地帯を突破し、前線部隊を回収します」
「まずはそうしろ。歩兵砲をもっと増やすべきだったな。敵が鈍く固いなら強引に横をすり抜けて都市まで到達できるか? まだその段階ではないが」
蛮族の集落は小規模で簡単に放棄されるので攻略する意味は薄かった。敵は都市を守る必要がある。敵を削らず、機動で強引に突破する戦略もありえる。
「確認ですが、機装部隊、心覚部隊は待機ですね」
「ああ、主力を温存し敵を削る。帰還者の予備陣地行きを徹底させろ。誰が戻ってくるかわかったものではないからな」
「了解、再度通達します。まずは部隊の撤退に集中ですか?」
「今日は引き上げだ。中の戦力は人ではなく、召喚か従えた魔物と知れた。敵の指示も受けつけていない可能性もあるが、どちらせよ突破せねばならん。森を外部から削りつつ、中に陣地が構築できないか探っていく」
ベリサリは少し安堵していた。もしも森で抵抗がなければ、森は防御拠点ではなく障害物だった。それを恐れて長い時間を使い調査し、遅い足取りで進む徒労は少なからず兵士を疲弊させたはずだ。
しかも森が純粋な時間稼ぎ用の障害物なら、森を造るほど強大な敵が森の先に迎撃の準備をしていることを意味する。それを予測するのは困難。
しかしこの苛烈な迎撃、森は時間をかけて攻略するべき拠点。なら当初の予定どおりゆっくり押しこむ。そのための重機なども用意してある。
敵は森で優位に戦闘できるが、確実に戦力を減らしていく。敵は防衛のためにコストを集中した。このまま森の防衛にコストを使わせて消耗戦にする。




