マリナリ
管理者が廊下を進むと、少々腹の出た中年が歩いてきた。
襟元に勲章の付いた、汚れの無い高級防護服。工場所長だ。
彼がのんきな顔で言った。
「軍のあれは、何かあったかね?」
「いえ、まだ二日目ですから。あそこの住民と話しこみはしないでしょう」
管理者は過去に清掃の監督をやったから、あらかたわかる。普通はあんな仕事に熱心にならない。もしも情報を集めた者がいれば、まず嘘を疑う。それで軍がどうにかなっても知ったことではないが。
「そこはあそこに慣れた人間の眼力でなんとかならんかね?」
所長が、ただの清掃員に無理なことを言う。
「そもそもスラムとしては正常で、あそこはいつもあの調子でしょう。まさにゴミ溜めですよ」
「うまいこと邪教徒でもいてもらいたいものだねえ」
「異常がないこと自体はよいことだと思いますが、できるだけ催促しておきます」
「ハハハ。そうかそうか、足を止めさせたね。じゃあ、よろしくやってくれ」
何がそんなに楽しいのやらと、管理者が訝しんでいると、所長は階段を上っていった。
所長の部屋は工場の上階にある。彼はその部屋の窓から内側の下を眺める。
一面が白い大部屋、そこには手前から奥へ続く溝が規則正しく並ぶ。水に満ちた溝内に赤鉄色の棒が無数。
あの錆びた鉄の棒に微弱な電気が流れている。棒に付着した細菌は電気で活性化し、鉄があると効率的に活動する。水を流しておけば勝手に増殖する。
部屋で作業員がある列の溝の鉄棒を水から出して、表面をこそぎとり、器に移している。
あれを別の部屋で小さな虫が食べ、それを原材料の肥料として使って、別棟で、ライート――背が低く太いイネ科植物――などを水耕栽培する。
「変化なし。順調順調」
なんとなく仕事をしている気になる。確認しないよりはいいだろう。
隣の大きな区画では廃棄物の粉砕、粉砕物をアームがすくいあげ、粉粒体運搬機に積む。あっちの肥料はひと手間あってから使用される。こっちは見たくはない。
所長は自分の机に来ると、周辺の地図と、それに対応する新しい表を並べた。表の最後にある数字に着目する。
「農地は増えんどころか、減っておる。元が減るとここの稼働も落ちる。ありがたくないねえ」
帝国では西部を除き、管理された工場での農業が基本だが、未回収地では街の外の農場が多い。
現在では荒野の開拓は事実上不可能となっている。
土は汚染され、川はほぼ無く、異形の魔物が闊歩する荒野。これは不変である。汚染に関しては、昔よりよくなったとの主張もあるが、はっきりとしない。機神教会の働きかもしれないし、自然に汚染が流れたのかもしれない。
このような汚染度の軽減の噂があっても、現場の者の声は開拓不可能で一致する。
現在に限らず不可能に思えるが、昔はそれなりに開拓できた。
まずショベルを買う。普通の鉄ショベルは安い。誰でも買える。
メーカーには多少こだわったほうが無難。初心者は路線バスで有名なカナトソとかを買うが、材料は車両に使えなかった落ちこぼれで、悪い。ちなみに見た目だけはいい。
正しい選択は個人向けの農業会社である。彼らは客に嫌われると潰れるからだ。
それで荒野を掘り返す。来る日も来る日もひたすら。やがて汚染されていない土の層に達する。汚染された土を除けて、代わりにまともな土を地表に配置する。
次に水がいる。深めに井戸を掘れば確保できる。
資金があるなら電動ポンプを買えるが目利きが必要。販売されているのは、なぜかほぼ中古だから。
種をまいて、毎日欠かさず水をまく。最初は保水能力が無いから休めない。
生真面目で体力のある者なら、ここまではやれる。
やがて、虚弱ながら作物が育ちはじめる。
魔物に無料レストランの開店が知れる。敏腕広告屋がいるらしい。ここから武力も要る。人数が多ければ死人を出しながらも、ある程度は守れる。
土地が良ければ、収穫が得られるだろう。
ここまでは信用できる身内でやらねばならない。日々強くなる餌の匂いを嗅ぎつけた魔物に慌てて傭兵を雇うなら、開拓者は簡単に行方不明になる。
さもなくば、正しい人の雇い方を知る必要がある。護衛と肥料を同時に得る手法だ。
鉄柵を並べても、完全な防御はありえない。
荒野の魔物が農地に入るとわずかに呪詛で汚染される。なかなか素人には除去できないという。
ほとんどは被害が軽く、浄化できる神官は多いので教会は安くやる。
しかし、汚染回数の多さに経費がかさむと放置したなら、汚染が悪化して大金を取られる。しかし、大金がある開拓者がいるか? それも貯蓄が尽きてきた頃に。つまり失敗だ。
農業経験がある者でもなければ、ほぼここまでに脱落する。
成功して引退したハンターの道楽であれば別。自分で食べたい作物を育てる者はまれにいる。
そして当然立地の問題はある。
今ある外部農地は、比較的汚染が少なく大きな街から近い場所で、貴族の援助などを受けて大規模な開拓が成された地域だ。近くの方が安全で便利。
これはコモンテレイから北西方面に多い。ギルイネズ内海に面した北部は、魚が荒野の魔物を捕食して減らす。農場の南部は未回収地の玄関のアダラマドレと、コモンテレイを結ぶ道で、軍の巡回が多く比較的安全だ。
そこにも盗賊やら、大型の魔物やらがたまに来る。
軍が巡回しても、悪人は逃げ足が速く、特殊な魔物は通常編成の小隊ぐらいは軽く粉砕する。
危機を認識すればハンターを雇うことになるが、安く仕事を受けてくれるのは神父ぐらいだ。それで損害から再起不能になる農場が多い。先月のニュースに、恐怖! 悪霊に呪われた農場主、家族を惨殺、とあった。
かくして近辺では開拓が止まり、経済が縮小したところに来た貧民で渋滞している。仕事にありつけないから、開拓の準備もできないだろう。
「がんばってもらいたいねえ。工場に影響が出ないように」
所長の仕事はここで椅子に座って書類にサインすること。それ以外はしなくていい。しかしここでちょっと点数を稼いで、本国の小さな役職でも確保したい。定年まで僻地はつらい。
「足元でトラブルでもあれば、解決できるかもしれんのになあ」
サインを終えると暇で困る。こうなると高所から工場の外を眺めるしかなくなる。
所長になって十二年に学んだ、この季節の最善の場所は、屋根の上に突き出た大きな肥料貯蔵庫、その影にある古い監視所。開拓初期は兵士が詰めていた場所。
所長が今日はよく働いたなと思い、幹線道路をぼけっと眺めていると、ガンと音がして屋上の四角い作業用扉が下から開く。
作業着を着た工員が工具箱を持って出てきた。作業帽を深く被った若くはない男だ。工員がほこりを払って、所長に気が付いた。
「これは所長、こんにちは」
「ああ、君か。ここには慣れたかね?」
余計な恨みを買わぬように心がけている。工場所長はちょっとした顔だが、軍が必死で守ってくれるほどではない。
「おかげさまで円滑にやらせてもらっている」
「専門外だと聞いたが?」
「どうあっても受けた仕事は完遂させるもんだ」
「それは頼もしい。ちなみに今日の作業はどんなものだったのかね?」
「第二基盤の断線を自作して補修、電源基盤は取り換え。電圧が安定しないから、在庫のコンデンサの組み合わせで調節した。こいつが検査したらメーカーのスペックと一致しない。製造元か仕入れに問題がある。ほかは第三殺菌室の内壁が朽ちて穴が空いてる。こっちは土木業者を呼んでくれ。すべて報告書にまとめてある」
書類をきっちりやる工員は珍しい。ベテランほど嫌がる。それぞれが自分の流儀でやるから、つぎはぎで最後には無茶苦茶だ。
「いやはや、すばらしい。仕事は順調らしい」
「きれいではないが、そこそこ動くといった程度だ」
彼はここの民間人では貴重な人間だ。本国で面倒にでもあって逃げてきたのだろうか。所長はなんとなく親近感が湧く。
「こんな僻地には経験者は少なくてね。若いのは使えないらしい」
「役に立てたなら何よりだ」
重い走行音がした。大通りを戦車とトラックの車列がゆっくり走っている。整備工場に入るのだろう。戦車は青と白に縞模様で、主砲はメッキで光っている。
「ハンターというのはいつも派手な戦車だ。ああいうのはどう思うね?」
所長が戦車を見て言った。
「意欲的だが荒い。左が重すぎる」
「細かい感想だね。この距離でよく見えるものだ」
「重心がおかしいのぐらい、揺れを見りゃわかる。なっちゃいない。磨きだけはいいようだ」
「ほうほう」
「機械の癖は、人と違ってリズムってものがある。丁寧にやってやらんと機嫌が悪化する。最初が大事で――ああ、俺はそろそろ上がらせてもらいますよ」
工員は予定を思い出した顔だ。
「それはご苦労」
工員は屋根を歩いて、階段口へ去った。
所長は、いま聞いたのをどこかで言おうと思った。働いてる感じがする。
工場を出た工員は、片手で荷物を肩に担ぎ大通りを行く。中型蓄電池を満載した荷車とすれちがった所で曲がり、工場街の小道を奥へ進んだ。小高い建物に囲まれた、暗い行き止まりで立ち止まり、呟く。
「阻めぬ雨水は浸透する」
彼がするっと落下した。足元のコンクリートを抜けて姿を消したのだ。
彼が落ちた先は地下構造である。ひざを曲げて着地する。
ほぼ光が無く湿度が高く、天井と両脇に気を使う細道。素人が掘ったらしく、石は荒く削られている。
未回収地の都市の多くは過去に都市があった場所に造られている。過去に都市化した場所では、地下水が入手しやすい。
さらに拡張の際に地下構造を発見を期待する部分もあった。この市においても、下水道や地下室、基礎などが流用されている。ちょっとした財宝を手にした人の噂話が尽きない。
入植してから長いコモンテレイでは、地下を安い住居にもしていた。そして使われていない場所は各々が勝手に改造され迷宮化して、誰も正確な地図を持っていない。
工員は特に細い道を慎重に進み、さらにやや整備された地下道を歩き止まった。
壁に手を触れると、壁が左右に開いた。長い下り階段が続いている。進んでいくと壁は勝手に閉じた。彼は下った先の木戸を開ける。
赤い魔女がワイングラス片手にふんぞりかえっていた。
「遅かったねえ、アルトゥーロ。そんなにじらされたら、干からびちまうよ」
アブラヘルが言った。
「仕事をやっていたからな」
工員は仏頂面で答え、帽子をインベントリにしまった。
アルトゥーロ。ルキウスが鹵獲品を運用する目的で最後に創ったサポート。千レベルだが主力ではない。動かせる機器の多様性を求めて作成された。
地中海系の顔つきで、刈り上げた短髪は青みのある灰色、側頭部に少々白髪がある。
灰色の眼は力に満ち、目元にしわがあり、皮膚がかすかにくたびれた感じで、サポートの中で唯一人間味のある顔をしている。
ルキウスが時間のある時に、手間をかけて作ったからだ。
「私は来たばかりですよ。遠目にスラムを視察してきましたの」
部屋のすみには、眼鏡を掛けた褐色の女。
外で見慣れた防護服が瞬時に溶け、もやをまといウィピルに変化した。服には、輪郭線がはっきりした象形文字的なタッチで、うごめくツルの塊が描かれている。
マリナリ。ルキウスが緑の古き神を得た時の副賞で、サポートの中で唯一無料。
基礎職業は《森人/マセワルティン》系で、《異端審問官/インクィジター》系の構成。すべての標準職業にヴァーダントが付く。
アブラヘルがワインを飲み干した。その前の机には豪華な料理が並んでいる。
「・・・・・・豪勢だな。上は飢餓の街だってのに。軍人でも大概は痩せてるぞ」
アルトゥーロが言った。
「私が気にする理由にはならないね。ああ、貧乏人の前で食べるご飯はおいしいわ。贅沢って比べてこそよね」
アブラヘルがアルトゥーロに酒瓶を渡した。彼はそれをラッパ飲みする。
「ほかにやることがないのよ。ここにずっといたらお料理上手になっちまうね。あんただって生活してるだけでしょう」
アブラヘルがマリナリに言った。
「スラムで単純に緑色を好むようにそれとなく暗示をかけております」
「はっきりと信仰せよとすればいいものを、そうすれば街ごと乗っ取れるんじゃないのさ」
「カルト化するだけでございます。生贄、自殺、発狂、その他あらゆる奇行におよぶでしょう。神の意をくむのは難しいのでございます。私のように正しく主の意思を理解し実行しなければならない。そもそも主とは・・・・・・」
マリナリが突如として直立、両手を高くに掲げた。
「おお! 偉大なる主よ」
目はこれでもかと開かれているが、何も見ていない。
「主よ。どうか、お声を」
「むやみに交神して神託を求めるなって言われてるだろうに」
アブラヘルが言った。アルトゥーロは酒瓶から口を離した。
「我慢した方だ、前のは十五日前だから」
「神金の栓抜きなら、二十八階の第八部屋の左の棚の二段目に置いてございます。キツツキの卵割り機の横でございます。おもちゃ用電池の充電機は、三十三階の第二保管庫の小棚に」
「神託で話す内容か」
アルトゥーロがあきれて椅子に座り、ドライフルーツのプラムをつまんだ。
「まあ、秘匿した通信はコストがかかるけど、神託は一応ノーコストだし」
「神託は音質が最高だからって言ってやがったぞ」
「悪魔の手があっても遠いからね。汚染のおかげで多少荒れる」
「おお、お役に立てるとはなんたる幸せ」
マリナリが喜びで回転したが、途中で急停止した。
「え、ディブマスカーをぶつけてへこませたと」
アルトゥーロの気に入っている尖がった飛行バイクだ。
「おい」
アルトゥーロが眉間にしわを寄せた。
「それなら三十三階にある、シェーガン式修理薬で隠蔽できるのでございます。塗装も直るはずでございます」
「おい、これまでにやってないだろうな。一度目か? 一度目だよな?」
アルトゥーロの目つきが厳しくなってきた。
「聞こえちゃいないって」
アブラヘルは机に肩肘を突いた。
「基地跡の森は、混沌が混沌を呼び異界化の気配がございます。森は狂気で満たされ混沌が世界に満ち、個の境に、時も上下も定まらぬ世が訪れる! 原初の混沌が顕現し、新たな世界を造りあげるのでございます!」
マリナリが熱を帯びてきた。