陣地
セッター・レヌ・ギルヌーセン伯爵は自らウマに跨り、砂埃を高く舞い上げデッセエフ平原を駆け抜けてきた。
寒さは感じていないが、自身からも乗騎からも白い吐息が流れていく。
最後の補給から二時間、馬体の熱を感じた伯爵がそろそろ厳しいとした時、地平から現れた陣地であった。
陣地はズデーエフ大坂の手前、道を空ける形で東西に分かれていた。
大型のテントが不規則に張ってある。各家の大旗が立ててあるのは領主のテントだ。
同じ高さから見た限りでは、とにかく雑多で大量にあるとしか認識できない。
軍の訓練でも見ない大軍だが、まだ充分に集まってはいないはずだ。
護衛が付いた商人の馬車も出入りしている。近隣の物資を集めているようだ。途中で進行方向を同じくする隊商を抜き去ってきた。
陣地内では多くの黒煙と白煙が上がっている。
この大量の煙はかなり遠方から確認できた。炊事には多すぎるこれを見て、何か起きたかと馬脚を速めてきたが、陣地内を行き交う人々を見る限りでは平常。
「実に総掛かりだな」
伯爵達が陣地を見ていると、中から一騎が出てきた。
金の長髪が風になびいている。騎士団長レメリ・レヌ・ホウエンだ。
ギルヌーセン伯爵は部下を置いて、列の前へと馬脚を進める。
二人は馬を重ね合わせて止まる。
そしてお互いに上げた右手を強く打ち合わせ、荒々しく手を握り合い、笑った。
「歳を取ったんじゃないか? セッター」
レメリが明るい声で言った。
二人は王立大学の同期。揃って王都に悪名を轟かせていた。
「真面目に働いているからな。苦労の証だ、レメリ」
「そいつは柄にもない。つまらん生活をしていると早死にするぞ」
「フッ、お前こそ死んだってな、死んだと聞いても心配はしなかったとも」
「そいつは酷い。王都中の女が悲しみに暮れたんだぞ」
「てっきり、その女に毒でも盛られたのだろうと思ったのさ」
伯爵が得意げに言った。それにレメリは自慢げに返す。
「そんな日常的なことで死ぬものかよ」
「それはそれは、だ」
伯爵が深く息を吸って呼吸を整えた。それを見たレメリが、隊列に目をやった。
「随分と飛ばしてきたようだな」
速すぎる移動で列から千切れた荷馬車が、後方の地平線からようやく姿を現した。
「たまには運動しようと思っただけだ……そっちは変わらんようだな」
「こっちは元気にやってる」
「壮健そうで何よりだ」
「軽く百人ほど薙いで、少しは調子が戻った。心配するなよ、戦える」
伯爵は鋭い目でレメリを見てから言う。
「現在の総指揮官は?」
「ティーゼ大臣が大将代理だ、俺と一緒に来た。下の方にいるよ」
レメリがテントの隙間に見えるズデーエフ大坂を指差した。伯爵は坂が覗ける位置へ少し移動した。
七百メートルの凸凹斜面を下るズデーエフ大坂、高低差は二十メートル以上ある。
坂の両側から石を積んで壁を作り、その幅を狭め、守るための工事が行われている。その先の湿原では土塁が作られていた。
その向こうに枯れ葉色の湿地が広がるが、スンディの軍勢はよく見えない。
湿原の右方には特徴的なタライス大岩が見えている。
タライス大岩は高さ七百メートルもある。立方体を上から刃物でザクザクと切り落としたような形で、最も大きな平面が東を向いている。色は灰色に黒の斑。
この大岩はヌンテッカ山地の北東端から続くシュレート断崖の先端にもたれかかっている。
シュレート断崖は高さ五十~二百メートル、幅三十~三千メートル。これが二十キロ以上続く。
この断崖とヌンテッカ山地がザメシハ・スンディ間を遮断しているので、悪魔の森を超えずに軍を進めるならボジトン湿原を通過する。
そしてボジトン湿原とデッセエフ平原の間にも長く崖が存在しているので、大軍がデッセエフ平原に入るにはズデーエフ大坂を通るしかない。
大岩の向こうにはヌンテッカ山地の間を流れるトウェイ川の支流が流れている。
春、夏ならこの湿原での渡しを生業とする者が両国にいる。
伯爵は事前に確認した知識を思いだしながら、湿原を見ていた。
「上から様子を見たいが」
伯爵は南部と縁がない。一生来ることはないと思っていた地だ。
「案内しよう。今日も戦はなかろう」
「兵に休息を取らせたい」
伯爵が言うと、レメリが部下を呼び誘導させた。
二人は並び、ウマに揺られながら陣地を巡る。
「兵数は?」
「二万を超えたほどだ、敵さんはまだ増えていない。湿原の南方まで下がった」
「半分は……来ていないな」
伯爵が陣内の旗から貴族家を確認した。北部貴族の旗が一つも無い。
「妨害の影響が大きい。故意に遅れているとは思わない。それに北部を赤恐鳥騎士団が突き抜いた。これで北部の連中も必死に飛ばしてくるだろうよ」
北部の貴族はエファン堅蹄王国と多少の諍いを抱えている。そのため北部を警戒し、出だしが遅かったが、その相手が送った援軍に後れを取ったとなれば相当な屈辱だ。
「西部の動きも鈍い。事態の認識に差はあると思う。陛下は?」
「陛下は明日着陣される。王都は王都で立て込んでな、簡単に動けない」
「吸血鬼のせいか。詳しい情報は西部まで届いていない。深刻か?」
「事態は不透明だ、こちらも把握できていない。発見した群れと巣は多分滅んでいる。逃れていても少数だろう。目下のところ、最大の問題は発見された地下迷宮だ。複数発見した入口を封鎖している。そっちは?」
「こっちは俺が戦う必要もなかった。ハンター任せだ。数日狩りをやってから、出没なし。それで落ち着いたと判断した」
「そっちだけ楽とは不公平だな」
「お前だけ戦っているのもそうだろうよ」
それから二人は中央と西部の情報を交換した。
「しかし、ここ数か月の騒動、半島の動きも激しい。まるで大戦後の抗いの時代だ。数多の英雄が生まれる時代に入ったのかもな」
「そうだな。こんな状況でなければ、迷宮は面白そうだが」
伯爵は王都の状況を想像しながら周りを見た。湿原には兵がいるわりにテントが見えない。
「陣地は上にしたのか? テントが見えないが」
伯爵は崖下を見ている。
「いや、下にもある。崖よりだ。大体の兵はそっちで、ここにいるのは職人、商人、治りきっていない重傷者だ」
「それにしては多いようだが」
「下が水不足だからな、湿原の水はあまりよくないという話だ。それでウマは上に置いている。食事も余裕があれば上だ。まだ戦は遠いからな、士気を下げたくない」
「なるほど。水は不足か」
伯爵が平原の土を掘り返す作業者を見た。彼の知るコフテームの土より固そうだ。
鉄のシャベルや鍬で掘る部隊と、魔法で土を操っている穴を造る部隊がある。
土魔術師の掘っている穴からは、小さな人型の泥人形が自力で這い出して来て土に戻る。魔術師はその土塊の中から札を取り出すと、呪文を唱えて札を穴の中に放りこんでいる。
これは井戸を掘っている。陣地中に同じ光景がある。
「あれ、採掘専門ではないだろう」
「贅沢を言える状況ではない。現状では全軍が集結すると足りない」
「鉄もか?」
「ああ、スンディの鉄は質が違うからな、一度溶かして直すんだと」
陣の一角に鍛冶場が作られていた。木組みにテントを被せただけで壁の無い建物だ。
小さな炉の前で、金床を叩く音が響いていた。
職人が、荒い言葉で土の質に文句を言いながら、白い粉末を土に混ぜ込んでいる。それを焼いたレンガが窯から取り出され、どこかに運ばれていった。
その近くにはレンガで造られた五メートル以上の高炉まで設置されている。
高炉の上からは折れた剣などが放り込まれ、下では魔術師が精神集中して魔法で熱風を送っている。別の魔術師は中を攪拌したり、中の反応に干渉する魔法を使っていた。
突貫工事の炉には不釣り合いな運用コストが支払われている。まるで魔法金属などを扱う様子だ。
暖かい設備の周囲には、暖を取ろうと兵が集まっていた。
「砦にはないのか?」
「簡単な鍛冶場だけだ」
「最寄りの都市は?」
「北のカノピータムにも輸送しているが、往復で二日掛かる」
伯爵が考えていたより国境地帯は空いていた。物資の都合方法も考え直す必要があった。
「ふむ、街ができそうだな」
そこで目に留まったものがある。木が組まれ燃やすための準備をしていた。
「まだ死体を焼いているのか、煙が多いわけだ」
陣地の端では死体が山積になっていて、見張る兵が囲んでいる。同じような死体の塊は方々にある。
「数が多い、まさか埋める訳にもいくまい。後方から不死者の軍勢に襲撃されてはかなわん」
「にしても残りが多くないか?」
「焼くための木材が無い。平原に木は少なく、湿原の木材はあまり燃えないんだと。それで、それも買い集めねばならん」
「木材は西部まで来ればあるぞ」
「遠すぎる」
「まだ死体が出る予定だろう。西部の商人を焚き付けておこう。金にならんごみ木材でも金になる、とな」
「そいつはそうだ」
二人が笑った。そして伯爵は道中を思いだした。
「途中でも死体なら見た、結構な数だ。あれは?」
「南部貴族が集結ついでに殲滅した平原の不審者――大体は隊商狙いの盗賊だ。じゃなかったら知らん。まあ、治安は良くなったろう」
「そいつは素晴らしいな。肝心の取引先とは戦争中ときているが」
「巨利を生む黒と赤の道も終わりかもな」
黒はザメシハの木炭、赤はスンディの火精石だ。小さな隊商でも商えるものだった。食料品や木材は水運でモヌクを経由する量が多い。ほかにも二国間の商いは盛んであった。
二人はシャキ砦の近くまで進み、断崖の上から湿原と大坂を見下ろした。
「上の様子は大体わかった」
「湿原は厄介だ。金のかかった重装の連中が敵陣の威嚇に行って、ズボッと深い水溜まりに落ちてしまってな。かってに死ぬところだった。足元に気をつけろ」
「水辺の賊狩りは慣れている。川を渡って逃げる賊が多い」
「そうか。坂の要塞化は間に合いそうにない。湿地で会戦だ。スンディ軍がトウェイ川を越えて布陣したなら仕掛ける。主力の魔術師を減らせれば、守るなり平原で戦うなりできる」
「左右の断崖から支援しても無理そうか」
「本隊には山ほど魔術師がいるだろうからな。矢は返されるぞ」
「ふーむ」
大量の火球を想像するだけでも気が重い。
「兵力差も大きい。人の海だぞ、考える気も失せる」
「冬の収穫期も終わる。それで少しは兵が増えるはずだが」
それぐらいしか良い条件が探せない。
「そうだな、向こうの主力が見えた時に間に合えばいいが」
「敵兵の質は?」
「民兵は貧弱。正規兵は我らの兵より二段下だ。ウッチャ地方の兵だろうが、ほかも変わるまい」
これは伯爵の思ったとおりだ。
「ほかに感想は?」
「矢も剣も槍も足りん。戦なら大型の盾も必要だ。機動力は使えん。生きてるのか死んでるのかわからん民兵だが多い。一度やってわかった。重装で押しこむか、ひたすら薙ぎ倒すか」
「そっちは言葉だけで判断せぬ」
「ならお前も一度味わうがいい」
レメリが笑った。
「無理な相談だな。神殿の動員は?」
「治療・不死者目的に限定してやっている。しかし、王都の問題があるのでな」
「少ないと」
「これはどうにもならん。少ないと言えば、お前の軍は? あれで全部ではないよな」
「当然だ。五日もあれば二陣が着く」
「いかほど?」
「ハンターを含めれば二千は来るだろう」
「無理をする」
コフテームの守りはその人員に依存している。悪魔の森に隣接する街の多くは頑丈な城壁を持つがコフテームには無い。
それと引き換えに簡素な壁で手早く街の領域を拡張し、安い食料と土地、稼げる仕事を用意して人を呼びこんだ。
結果、腕利きのハンターも多く滞在しているし、商人も奥地を訪れる。
それがコフテームが特別に発展したからくりだ。
つまりコフテームの壁は居住する戦闘要員そのもの。それを大幅に引き抜いてきている。
「国が無くなればそれまでだ」
伯爵は事もなげに言った。レメリは呆れる。
「下手をすれば王軍を上回るぞ」
「なら、低めに申告するさ。自前の物資はあるからな」
陣地には伯爵の王都時代以来、顔を合わせていなかった旧知の者が多くいた。彼は、再会した友人たちと、昔話から戦の展望までを語らった。




