第一森人
アイア・クローリンは十二歳の女の子。いつものように森を歩く。森は危険だ。
しかし、この時期に食料を少しでも多く貯えねばならない。森のリスたちが一生懸命に木の実を隠すのと同じように。
村を囲いこむようにそこに在り続ける森。一足踏みこめば、荒野とは一線を画す世界。もう人の領域ではない。
甲高い小鳥のさえずりにバタバタと羽音が近くで鳴ったように耳に残ったしても、その姿は得てして見えぬ。複雑に混じり合った香りが無数の生命の存在を告げるが、その意味は森に慣れてきたアイアでも解せない。
森はときに歩きやすいように道を作り広場を提供したかと思えば、急にトゲのある藪が道を塞ぐ。拒否しているのか誘っているのか。気まぐれな森で村人は食糧を求める。
一年の内でこの時期が一番森が豊かだと、長く感じた五年でアイアは学んだ。
コモンテレイよりも南にあるらしいこの地では、この時期でも暖かい。それでもいずれ冬が来る。村の食料に余裕はない。
森の外の悪い土は作物の成長を阻害して作物はあまり育たないのだと父のアゲノが言っていた。森からどれだけの食料を確保できるかが今後の一年の生活を左右するのだと、アイアは理解できる年齢だった。
街で育った大人たちは緑そのものを恐れているが、自然の空間は嫌いではない。
危険な森であっても食料を得られるありがたい場所、コモンテレイにいた頃よりは格段によい物が食べられる。危険でも、前の生活に戻りたいとは思わない。
アイアは森の道理を十分に知る。見上げる枝葉の下の世界では、数多の恩寵と破滅が手を取り合って輪舞する。この親密なる者の仲を裂くことは人の身ではかなわない。
今だって、アメリゴ夫妻は三つ目ヘビに噛まれ毒で寝込んでいる。一つ年下で仲の良かったリビアは狼のような魔物にかみ殺された。エウロパは湖の底で発見された。アシアは家族ごと森で行方不明になった。どうなったのかはわからない。
アシアの時はアイアも大人と捜索に出たが、いつもより暗い森は、これが平常と言わんばかりに静寂に包まれて何も見つからなかった。大人は悪魔の仕業だと言った。
気を抜けば――気を抜かなくとも、運が悪ければ食べられる場所――を果実や山菜、トチの実にキノコ類を求めて探索した。
朝から森に入りやや深くまで来た。粗末な草で編まれた手籠と背負ったカバンは一杯になった。肩にかけたライフルが重く感じる、疲れているのだ。
日の高さからしても、近くにいる父と合流して帰途に就く時間。父のいるほうへ向かうため、落ち葉が積もり始めた森を歩く。
前方五メートルぐらいの茂みが、音を立て小さく揺れた。
「お父さん?」
アイアが足を止めて呼びかける。
茂みから猛烈な勢いで影が出た。一直線にアイアへと跳びかかる。
アイアは籠を落とし、銃を持ち替え、銃口を影に向けようとする。
「ぐ!」
衝撃、重量感、照準は間に合わず、獣の体当たりをもろに受けて地面に転がされる。アイアの眼前には大きく鋭い牙。迫る大口、銃をとっさに盾にした。獣は銃に食らいつき、アイアに覆いかぶさった。
二メートル以上ある狼型の魔物。銃を咥え牙をむき出しにした口が、アイアの顔先で肉を引きちぎるがごとく暴れる。銃をはぎ取られないように、両手で必死に銃を押さえる。
「お父さん、助けて、お父さん!」
近くにいるはずの父を大きな声で呼ぶ。返事はない。距離があるのかもしれない。比較的大型の魔物だがアイアの銃が効く。どうにか引きはがして距離を作り、即座に発砲するしかない。
アイアの耳が落ち葉を踏みつける音を捉える。父が来たのかと思い、音のほうに目線をやる。そこには目の前の個体と同種と見られる魔物がいた。
アイアの顔から血の気が引く、しかし諦めはしない。諦めは幸運を遠ざける。
幸い、銃口は新たに現れた狼を向いている。上から圧力に銃を揺さぶられながらも、どうにか指が引き金を探り当てる。
新たに現れた魔物が鋭敏に走り寄る。まだだ、至近距離まで待つ、すぐに目の前。発砲音が響いた。安定しない銃口から放たれた弾丸は、魔物の足先をかすめて落ち葉をはじき、地面で土煙を上げた。
アイアは、ただ外れたと思った。魔物の喉奥がよく見えた。
寸前、銃声が森の中で響き終わった時、横から迫った魔物はバキャッという鈍い音と共に、悲鳴も上げず高くへ舞い上がった。
アイアはゆっくり上昇する魔物を見上げていた。猛烈な速度で回転している。銃に喰いついた魔物は力が抜けて、口が銃から離れた。
飛んだ魔物の体は、縦回転しながら高い木の枝に当たり、回転を止めて地面に落下した。落下した魔物はアイアの目の前で横たわりピクリともしない、死んでいる。
「去れ、去らねば死ぬ」
顔を上げれば、低くうなる魔物に向けられた声。
アイアの知らない声。森のすべてをかき集めた器からあふれ出るような、豊穣と枯渇の隙間の空白を抜けて来る余波だ。
「そっちか」
銃を放し、自由になった牙が再度アイアを狙う。
アイアもそれに反応し、また銃で身を守ろうと腕に力が入った瞬間、彼女の上から鈍い音がして魔物が消えた。代わりにブーツがある。
何が起きたのかは彼女には見えなかった。離れた木に叩きつけられた魔物を確認して、蹴ったのだと理解した。
ここで初めて声の主がまともにアイアの目に入る。
知らない顔、知らない服装。何より長い耳だ、森の悪魔、妖精人に違いない。
「……動物の癖に言うこと聞かないし。力にまだ慣れん。威厳が足りんのか? それとも動物型ロボットじゃあないだろうな? なんであれ、猫のほうが頑丈だな、三百はないと見た」
妖精人は口をもごもごと動かして何かつぶやいている。
「こんにちは、お嬢さん。ところでこいつらは機嫌を悪くしたペットだとかではないだろうね?」
起き上がるアイアにルキウスが尋ねた。
ルキウスは魔法の映像を見てすぐに転移した。これには二重の障壁が存在した。
まず〔緑の瞬間移動/ヴァーダントテレポート〕は、ひと繋がりの緑の中しか移動できない。目的地がもし緑の途切れた場所なら、この世界でもおそらく転移できない。
もう一つはすべての転移魔法の基本。
アトラスでの長距離転移魔法は事前に登録した場所にだけ跳ぶ。これは転移魔法は術者が正確に行き先を思い浮かべる必要があるとの設定による。初歩の転移魔法はそもそも成功率が低く、発動失敗に、意図しない場所に跳ぶ。
(なんとか死なずに転移できた。石と混ざって死亡とか嫌だ。〔命知らずの跳躍者/クレイジージャンパー〕じゃあるまいし、転移事故上等で未知を目指す気分じゃない)
彼は荒くなりそうな息を強引に整え、絶命した二匹の狼型魔物に目をやる。
蹴りを手加減したのは英断だった。上手く頭蓋骨を砕く力加減になった。全力ならば、狼型の生物は爆散し、血と臓物の雨が降り注いだろう。
この少女が血の雨大好きっ子の可能性もゼロではないが、そんな博打をやるほどにルキウスの精神に余裕はなかった。森の神名物の、精神を破壊する問いかけや、万人をいら立たせる愉快なおしゃべりは出ない。
しかし予知でこの場面が見えた、予知がこの少女の救助を推奨している。ならば、これは正しい選択。救助以外の選択肢がない。
「お嬢ちゃん大丈夫かな。名前はなんて言うんだい?」
少女は混乱しているようだ、ルキウスは優しく語りかける。
「アイア」
言葉は通じる、アトラスの自動翻訳とは聴こえる感じが違う。
〈共通語〉のスキルが働いている可能性もある。だが理由はどうでもいい。言葉が通じるという結果が大事だ。
少女は継ぎ接ぎだらけの粗末な服。上下同じ素材で地味な色で長袖長ズボン、作業服のような印象。短めの黒い髪は乱れている。落とした手籠の中はキノコで一杯だ。
プレイヤーではないだろう。凝視しても最低限の魔力しか帯びていない。
それでも少し距離をとっている。アトラスの理不尽な推理クエストの洗礼を受けた者は用心深くなる。この少女がとんでもない危険人物である可能性も消えていない。
「そうかアイアかー、いい名前だね」
「森の悪魔……」
少女がつぶやく。英語ではない。見慣れた言葉は口で多少わかる。
「ああ、悪魔、悪魔ね。悪魔は状態異常攻撃が多くて面倒な割に実入りが少ないから困るよねー」
ルキウスは適当に話を合わせる。初対面で親しくなるには話を合わせるのが基本中の基本。
しかし、少女は難しい顔で黙ってしまった。ルキウスのビジネス経験は役に立たなかった。
「アイアちゃんはここで何をしているのかな?」
「……木の実とかを拾ってるの」
か細い声が返ってくる。
会話しながらルキウスは必死で頭を回転させる。少女がライフル片手にキノコ探し、これはどんな状況だろうか? 地球の歴史上でこれが一般的な時代・場所は少ないだろう。
ライフルはボルト式ライフル、実体弾を用いる古い型の銃。この見た目からして、なんらかの粒子を飛ばす銃ではない。魔力も無し、魔法の弾丸は所持していない。非常に貧弱な武装である。
ただし、この少女が一人でないとはわかっている。




