第二十四話 気付かぬ内に
「……何もできないな、私」
その日の夜、私はベッドの上で寝転がり、傍に転がっているぬいぐるみを抱き締めていた。 前に水族館でこっそりと買ったぬいぐるみだ。
長峰さんは私に母親の容態を告げた。 詳しいことは長峰さんも知らないらしいが、長峰さんの母親が患っているのは癌だった。 母子家庭である長峰さんは妹の世話をしながら学校へと行き、その合間に母親が入院している隣町の病院まで足を運んでいる、ということも知った。 ぽつりぽつりと話していく長峰さんの横顔を私は見ていたが、その語る最中の彼女の顔はいつも通りで……それはとても辛いことだと思うのに、長峰さんは平然としていたのだ。 いつもの長峰さん、いつもの彼女、話していたことについて慣れてしまったのか、それとも単純に何も感じていないのか。
そんな、人には到底話せないことを私に話し、長峰さんは私に何を求めたのか。
馬鹿な私は愚直にもそれを尋ねた。 私に何か手伝えることはあるか、と。 それに対し、長峰さんは短く「何もないよ」と返したのだ。 長峰さんはただその話を誰かに聞いて欲しく、それが私であったというだけの話。 話したからといって私に何かをして欲しいわけではない、ただ聞いて欲しかっただけ。 私にできることは何もない、分かりきったことだ。
誰かに話し、自分の抱えているものを共有したかった……その行動をいつかの自分と重ねる。 私も長く、長く抱えていたものを成瀬君と共有することによって前へと歩けた。 人は一人で生きていくことが困難だと思い知った出来事だ。 それがあったからこそ、長峰さんの気持ちというのも理解できる。
しかし同時に何かをしなければ、という葛藤にも襲われる。 成瀬君は「長峰が何か困ってるときは協力してやろう」と言っていたが……果たして聞いただけでそのままにして良いのだろうか? このことこそ、長峰さんが困っていることになるのでは? けれど彼女は手伝えることはないとハッキリ言っていて……いろいろと、考えるべきことが多すぎる。 前の私であれば悩み事なんて自分の力くらいのもので、諦め人付き合いというものを放棄することで解決していた。 けれどそれを今しては同じだ、あの頃と何も変わらない私になってしまう。
でも、だからといって私に何ができる? 私には長峰さんの母親の病気をどうにかすることなんて当然できない。 気遣うようなことを言ったって、長峰さんはそんなことを望んでいるわけではないだろう。 なら、長峰さんは何を望んでいるか。
……そんなことは分かりきっている。 長峰さんは自身の口でそれを言っていたではないか。 ただ聞いて欲しかっただけ、誰かに話すことで楽になれた、と。
でも、でも……どうにかしたいと思っても、どうにもできないというのは……とても、とても歯痒い。
「……あー」
意味もなく声を出す。 行き場をなくした声はすぐに消えてなくなり、それに反応を示すものはないかと思われた。
「飯」
「ッ……と、はい」
いつの間にか、比島さんが部屋の入り口に立っていた。 というよりも、一応ノックくらいはして欲しい。 仮にも高校生女子の部屋をノックなしでいきなり開けるというのは、少し無神経。 成瀬君ですらきっと、朱里さんの部屋を開けるときはノックくらいするだろう。 いや、別にだからと言って成瀬君を褒めているわけではないけれど。
「あの、比島さん。 できればノックをしてくれるとありがたいのですが」
「……ん、ああ」
無愛想だけれど、比島さんのことが少しずつ分かり始めた私である。 比島さんは別に私のことを嫌っているわけではないということ。 それどころか気遣ってくれている面もあり、私が意思を伝えれば可能な限りそれに答えてくれている。 比島さんも比島さんで私に意思を伝えるようになっていっていて、些細な変化かもしれないが以前よりも私の家、という意識は強くなった。
……ここは一つ、比島さんに相談するというのもありかもしれない。
いつも、食事は店の奥にある居間でしている。 私が作るときもあれば比島さんが作るときもあり、今日のように私に予定があるときは比島さんが用意してくれる。
テーブルに並んでいるのはチャーハンと中華スープだ。 お昼の続きのような食事であるが、比島さんの作るチャーハンは好物でもある。 中華スープはどうやらお湯を入れるだけのものだったが、チャーハンはいつもの手作りのものだ。 男の人らしい料理だなと思いつつ、私は席に着く。
「……いただきます」
「いただきます」
特に示し合せることもなく、私と比島さんは食事を始める。 食事が終われば比島さんはジャズバーの仕事がある。 人はあまり来ないけれど、殆ど趣味の範疇でやっているらしくあまり気にしていないらしい。 つまり、比島さんに相談するとすれば今このときが最も適しているということ。
「あの」
「……ん」
いつも、食事は無言で黙々と行われる。 私はテレビを見ながらでも見ずともでもどちらでも良いのだが、比島さんは静かな方が好きなように見えるので食器の音が響くのみの食事が多い。 しかし、今日はそんな沈黙を私が破った。
「少し、比島さんに相談があります」
「……成瀬のことか?」
すぐに成瀬君の名前が出てしまうところに不満を覚えるも、私は冷静に返事をする。
「いえ、成瀬君ではなくて……別のお友達のことです。 詳しくは話せないのですが」
別に比島さんのことを信頼していない、というわけではない。 長峰さんは比島さんとそもそも面識がなく、面識がない相手に話されるというのは長峰さんにとってはあまり気持ちの良いものでもないだろう。 だから詳細なことは伏せて話すことにした。
「悩んでいる……ではなく、どうしようもないことを抱えてしまっている友人がいて、そのことを私に話してくれて……私は今、何もできないことを不甲斐なく思っているんです。 何かをしてあげたいけど何もできない、という状態のとき、私はどうすればいいのでしょうか」
自分で相談しておいておかしな話だけれど、とても答えられる内容ではないなと改めて思った。 どうしようもないという前提がある以上、私にできることは何一つない。 私はただ、何もせずに彼女といつも通りに接することしかできない。
「……良く分からないが、どうしようもないことはどうしようもない。 俺にも何度か経験はあるが、大体のことは時間が解決してくれる。 そうならないこともあるが」
私の考え、どうすればいいという自問自答によって出た答えと、比島さんの答えは殆ど同じであった。 比島さんがどのような人生を歩んできたのかは分からないが、少なくとも私一人で考えるよりも余程現実的な目線で見れているだろう。 だから、やはりこの問題はどうすることもできない。
「空」
現実というのを前にして、ご飯を食べる手が止まっていた。 そんな私に比島さんは声をかける。 私が顔を上げると、比島さんもまたご飯を食べる手を止め、私の顔を見ていた。
「……俺はお前が小さいときからお前のことを見ている。 親の代わりらしいことなんてできはしていないという自覚もあるが、少なくとも誰よりも長い間お前のことを見ている」
比島さんの言葉に遠慮や配慮というものはなかった。 でも、それらがないおかげか、比島さんの言葉は真っ直ぐに私へと向かってくる。 悪い気分ではなかった、決して。
「……一度に色々抱え込みすぎるな、悪い癖だ。 お前の心はお前にしかない、一つしかない。 だから一度に全てをやろうとするな。 それにお前の周りには友人がいるだろう」
比島さんは比島さんなりに、私のことを見ていたのだと感じた。 悩みや解決すべきことをいくつも抱え、そして収まりきらなくなって放置してしまう。 その結果、私は誰とも関わらなくなっていった。
……反省だ。 全部が全部、能力の所為なんかではない。 他ならぬ私自身、私の性格、私の考え方というものにも原因はあるのだ。
「それでも駄目なら俺に相談しても構わない、暗い男だがな。 俺に相談するのが嫌なら、田村でも八藤でも紅藤でもいい、きっと手を貸してくれる。 今まで一人でやってきたお前には、難しいことかもしれないが」
成瀬君ではないが、比島さんの言葉に嘘偽りはないように見えた。 私が知らない間に私の周りには多くの人がいた。 高校に上がったばかりでは絶対に予想ができなかったこと、見ることができなかった光景がそこにはある。
「ありがとうございます、比島さん。 目の前の問題から、やるべきことを。 まずはそうしてみようと思います」
考えるのは後でも良い。 悩むのは後でも良い。 放っておいて良い問題でもないが、それは決して棚上げにするということではない。 まずは私が今取り組んでいる問題、それを片付けそれからだ。 いざというときは周りの人を頼れば良い、そんな当たり前のこと……当然とも言えることを学んだ私だった。




