第十話 所謂、使われるということ
「服が濡れるかもしれないので、雨合羽などあれば着ておいてくださいねー」
それから俺と冬木はイルカショーを観るために、ステージのある場所へと向かった。 既にそこでは入場の準備が始まっていて、そんな声と共に中へと通される。 会場は思いの外広く、それを眺めつつ口を開いたのは冬木だった。
「合羽は予想外です」
「俺も持ってきてないけど。 後ろの方なら大丈夫じゃない?」
こんなときに朱里がいれば大変助かるのだが、生憎朱里はイルカショーには興味がないらしく、姿が見えない。 俺と冬木はそんな会話を交わし、とりあえずは一番後ろの席へと並んで座ることにした。 客の入りはそれほど多くはなく、これから多少は増えそうだったが満席で窮屈になることはなさそうだ。
「イルカショーでも後ろの席なんですね、私たちは」
「……悲しくなること言うのやめようぜ」
唐突な自虐ネタである。 ちなみに俺も当然巻き込んでおり、これからの人生ありとあらゆることで一番後ろが定位置になる予感がしてきた。 考えるだけ悲しくなってくるよ……。
「ちゃんとショー前には練習をしているんですね」
と、当の冬木はあまり気にしていないのか、舞台である巨大なプールを見ながら言う。 俺も視線を移してみると、トレーナーと共に予行練習をしているイルカたちが数匹見えた。 当たり前だがしっかりと訓練がされているのか、練習風景だけでも完璧であり、それだけで満足できそうな出来だ。
「成瀬君はテスト前に勉強しないというのに」
「おい、一応してるからな。 してるけど結果が伴わないだけだ」
……あ、これあれだ。 次に冬木は「それが本当ならイルカより駄目ですね」と言うパターンだ。
「それが本当ならイルカより駄目ですね」
当たったよ! 全然嬉しくねえ! 少し酷い感じで冬木の思考を予想したが、当たったときのダメージ結構でかいなこれ! 今度から考えるのやめておこ……。
「……夏休み前のテストは、私が教えます。 クラス委員の内、一人が赤点を取っていたら私まで恥ずかしいので」
「すげえ助かるよ、冬木に教えてもらえれば俺の成績うなぎ登りだな」
「その安直な考えが成瀬君を駄目人間にしていると思いますが。 一番大事なのは日頃の積み重ねですよ、そうしなければ身につくものも身につきません」
ごもっともだな。 この前の初学期テストの結果は聞いたが、冬木空は学年で4位の成績を収めていた。 こいつよりも頭の良い奴が3人もいるという事実に言葉を失いそうになるが、冬木の場合は文系問題が壊滅的とも言えるから仕方あるまい。 というよりも文系の問題があの状態で、どうやったら学年4位になれんだろ……。
「一応ノートは取ってるぞ」
「書き写すだけでは駄目でしょう。 その内容を理解して、初めて勉強というものは成り立ちます」
「……吾輩は猫であるって知ってる? 夏目漱石の」
「……? 知っていますが、それが?」
「どうしてあんなタイトルを付けたか分かるか? そのときの夏目漱石の気持ち」
「そのときの心情を残したものはありません。 タイトルから勝手に推察するのは傲慢なので、答えは不明です」
……これである。 俺が唯一、冬木に勝てそうなところ。 むしろこういったところじゃないと勝ち目がないと言えるが……今度のテスト、全部心情を考察せよとかそんなんばっかにならないかな。 俺は一応、問題そのものについては違和感を覚えないから頑張ればいける気がするし。
「……む」
そこで、冬木は俺の顔を見ながら眉を顰めた。 きっと、今の俺の思考を聞いたのかも。
「ですが、敢えて勝手に推察すると……猫が執筆したというのは考えづらいので……夏目漱石は、猫になりきっており……猫が、好きだった?」
「冬木は猫好きか?」
「はい! たまに帰宅しているとき、足元にやってくることがあって……いえ、なんでも」
俺の唐突な質問に冬木は顔を明るくして答える。 そうでもしないと、一生思考していそうな勢いだったからだ。 しかし夏目漱石が猫好きだという結論に至りそうになるなんて……。
「普通なら人間の話は人間同士でのものとなる。 それを夏目漱石は猫からの視点にすることによって、物語としての面白さを味わい深く出したのよ」
と、そんな解説が突然左から聞こえてきた、 俺と冬木は同時に顔をそちらへ向けると、そこに立っていたのはよく見知った人物だった。
「北見先生」
冬木が短く紡ぐ。 そんな言葉に返事をするように、北見は片手を上げて「よっ」という短い返事をする。
「一人で何をしているんですか?」
「冬木さん? 冬木さんってもしかして私のこと嫌い? 好きで一人なわけないでしょ! 私だって彼氏とか友達とこうしてきたかったけど……!」
予想外の一撃だったのか、北見は必死な素振りで訴えている。 こんなところで出会うのは正直考えていなかった……。
「ん、んん……水族館好きなの。 こう、なんかゆったり泳いでいる魚を見ていると、仕事の疲れとか悩みとかそういうのがどこかに行く感じがしてね……」
北見は俺の左隣に腰掛け、そんなことを言う。 その言葉にどんな返しをすれば良いんだ……なんか哀愁漂ってるけど大丈夫か、この人。 担任ながら心配になってきた。
「どうしてそこに座るんですか?」
「ぐっ……!」
しかし、そんな北見に対して冬木はさぞ不思議そうに言う。 もうやめて上げてと言いたいが、冬木は冬木で単に疑問に思ったから口にしているだけだろう。 無自覚の言葉ほどダメージがでかいのは俺もよく知っている。 冬木によって俺の心がどれほどズタボロにされたことか……! そりゃもうボロ雑巾のように扱われてたからな……!
「ふ、冬木さんは今日は成瀬君とデートかな? いいなぁ青春羨ましいなぁ」
「違いますが、仮にそうだとしたら、北見先生は私と成瀬君のデートを邪魔している……ということになりますけど」
「冬木さんもうやめて上げて……」
「ふふ、うふふふ……そうね、私は邪魔者よね……」
ああ、こうして冬木の言葉によってボロ雑巾が量産されていくのか。 側から見ていると本当に恐ろしい。 そしていつもこれに耐えている俺は偉いと思う。
「北見先生、良かったら一緒に見ます? イルカのショー」
「……いいの?」
泣きそうになりながら、藁にもすがる思いとでも言うべきか。 そんな表情と弱々しい言葉で言う26歳の担任を見ていたら、俺はもうそう言うしかなかったのである。
「はーい! それではお次は、私の手の動きに合わせてイルカさんたちがジャンプを見せてくれます!」
「良いわねぇイルカは。 ただ言われるだけにジャンプしてご飯もらえて……」
……一緒に観るんじゃなかった。 少なくとも担任と一緒にイルカショーを見て、イルカを羨ましがる姿なんて見たくなかったよ! そして同じく俺の横に座る冬木はというと。
「おぉ……」
先ほどから、とても真剣にそのショーを見ている。 正しき反応だと思うけど、今までそういった類のものを見たことがなかった所為なのか、感動が人一倍である。 感嘆の声というべきか、目を大きく開いて開いた口を両手で抑えて、冬木はそのショーを真剣に見入っていた。
「それはそうと成瀬くん、冬木さんとどうなのよ?」
そんな冬木を見ていたところ、後ろから北見が話しかけてきた。 冬木とどうなのと聞かれてもな……いや北見が言いたいことってのはさすがに分かるけど、別に冬木とはそういうのじゃないし。
「仲良く友達ですけど」
「またまた、そんなこと言っちゃって。 水族館デートなんてしてるのに?」
「まぁ、はい」
友達だからですよ、先生は友達と水族館に行ったりしないんですか? と、冬木のように言いたくなってきた。 さすがに言ったら泣き出しそうだから言わないが、非常に鬱陶しい……。
「クラス委員の仕事もしっかりやってくれてるし、生活態度もそこまで問題ないし、私としてはとっても助かってるんだけどねぇ……当面は皆と馴染む、ってところかしらね?」
俺の適当な返事で察し、話題を変えてくれたのか、北見は次に俺と冬木の学校でのことに話を変えてきた。 いや待て、今イルカのショーやってるじゃん? 俺、少し楽しみにしてたんだけど。
「難しいんじゃないですか、いろいろあるみたいだし」
「……まぁそうかもね。 けど、私は切っ掛けってとても大切だと思うの。 何事にも付き物でしょ? 切っ掛けって」
何事にも切っ掛けは付き物。 適当に流そうと思っていた北見の話だったが、その言葉は妙にしっくりときた。 俺と冬木がこうして仲良くなれたのも、様々な切っ掛けがあったからに他ならない。
入学初日、朱里があのとき俺の背中を押してくれなければ、冬木の秘密というのにも気付けなかっただろう。 それもある意味切っ掛けで、それがあったから今の形がある。
それ以外にも、たくさんの切っ掛けがあったんだと思う。 だから、北見のその言葉は軽く流そうとは思えない。
「私にもいつか白馬の王子様が、なんかの切っ掛けでやってこないかしら……」
「来ると良いですね。 でも冬木のことって、そう簡単なものでもない気がしますよ。 俺は知らないけど」
あくまでも冬木には聞こえないように。 まぁ、当の冬木は先ほどから「おぉ」や「わぁ」など発していることから、今頭の中にあるのはイルカたちのことだけだろう。 なんの変哲もないただのイルカショーなのに、そこまで興味を示すとなれば、他にも冬木にとっては新鮮なことというのが多いかもしれない。
「簡単なことじゃなければ、余計にそういう切っ掛けも必要なのよ。 私が教師になろうって思ったのも、そういうことだったしね」
「北見先生がですか。 参考までに、どういう切っ掛けがあったんですか?」
「高校生のときだったかな。 クラスの中で大きな派閥みたいなのが二つあったのよ」
苦笑いのような顔をして、北見は言う。 それこそ、学生なんかでは良くある話だった。 仲の良いグループ同士で固まり、それがいくつか生まれるというのは俺も良く知っている。 カースト上位は人気者の集まり、クラスの中心的な集まりで、他には趣味が同じ者同士や部活仲間、そんな風にグループがいくつか生まれるのだ。
「とは言っても私のところは特別でね、学年でも人気の男の子が二人、別々のグループだったのよ。 それで文化祭のとき、その二つの意見が真っ向から割れちゃって……言い合いをしている内に熱くなったみたいで、片方の子が手を出しちゃったんだ」
「うわぁ……」
それは、最悪だ。 大きなグループが小さなグループに手を出したら、こういうのもあれだがそこまで大きな事件にはならない。 小さなグループが反撃をしたとしても、グループの圧力によって潰されるだけ。 しなかったらしなかったで、なんの変化もなく丸く収まってしまう。 だが、北見の場合は大きなグループが二つ、言い方からして同程度の力をそのグループは持っていたのだろう。 そんなグループが衝突してしまった。 結果は……。
「教室内は大騒ぎで、殴り合いで収拾がつかなくなっちゃって。 男の子は参加するし、女の子は泣き出しちゃうし、教師は怒鳴るしで、終わったーとか思ったのよ。 それで、私はそんな光景を見てるとき……悲しくなっちゃった」
「怖いとか、止めないととかじゃなくてですか?」
「不思議とそうは思わなかったんだよねぇ。 それで、そのあとが本当に面白いのよ」
北見は笑っていた。 苦笑いでも、悲しみを含めてのものでもない。 そのときのことを思い返して、面白そうに笑っていた。
「もちろん結構な人数が停学くらって、それが明けた日だったんだけど……みんなね、面白いくらいに仲良くなったの。 分かれてたグループが一つにまとまったみたいに、自然とよ? 驚いたし、それがなんだか面白くて……」
そして、いざこざなんて最初からなかったかのようにクラスは一致団結したという。
「子供の力って凄いんだなあ……なんて今思い返すと思っちゃうの。 どれだけ派手に喧嘩しても、いつの間にか仲良くなってるんだもん。 だから私は教師を目指したの」
「うーんと……学生たちを喧嘩させるために?」
「なわけないでしょ」
ぽすんと、軽く手刀を頭に落とされた。 わりと本気な意見だったのだが、違ったらしい。
「最終的に仲良くなれるなら、最初から喧嘩する必要もないじゃない? もちろん、全力でぶつかることだって必要よ。 言わなきゃ伝わらないことだってあるんだから」
……それは、冬木も一緒だろうか。 思考が聞こえてしまう冬木空という人物も、果たして同じなのだろうか。 言わなくても伝わってしまう彼女の場合は。
「だから私の目標は、今のバラバラなクラスを一つにまとめること。 そのために協力よろしくね、クラス委員!」
「俺と冬木が馴染めば解決って感じですけどね、それは」
「そう簡単な話でもないの。 私から見たら、今のクラスはバラバラすぎてどうしようかって毎日頭を抱えてるんだから」
と、言うことは……俺や冬木が知らないだけで、いろいろな問題というのがあるのかもしれない。 仮にも三十を超える人数を一つにまとめるのだから、北見はかなりの難題に立ち向かっているというわけだ。 正直言って、応援はしたいけど協力したいとは思えない。 俺や冬木なんかは特に、自分のことで一杯一杯だ。
「けど、まだ始まったばかりで行事も沢山あるでしょ? 体育祭に文化祭、10月には紙送りがあるし、旅行もあるし、クリスマスイベントもやる予定なのよ」
そんだけ行事が沢山あるということは初めて知った。 とりあえず体育祭は休んで、文化祭も休んで、紙送りは秋月のために一応参加。 旅行ってのはつまり泊まるはめになるってことだよな……これも休んで、クリスマスイベントも休もう。 てか、クリスマスとか普通何かするものなのか? いやでも、もしや。
「……先生が寂しいから?」
「うるさいわね、ほっぺた引っ張るわよ。 そういう行事があるから一致団結したいってのはあるじゃない。 何年も経って、高校卒業して、たまに思い出すのがつまらない学生生活だったなんて、絶対に思わせたくないもん」
教師として、俺は北見にかなり面倒事を任されているということもあるし、極度の方向音痴で本来北見がやるべきことを任せられていたりして、正直尊敬はしていない。 が、一人の人間としては少なくとも、尊敬できるとそう思った。
「確かに、死ぬ間際になって「今思っても一年の担任酷かった」とか思いたくないです」
「そうやって明らかに私に喧嘩を売ってくるのはわざとかしら? 成瀬君。 仕方ないじゃない、私も一年目で……ああ駄目ね、教え子の前で弱音なんて」
言うと、北見は自らの頬をパチンと強めに叩く。 気合を入れ直し、今度は笑顔を俺に向ける。
「ともかく期待してるわよ、クラス委員!」
「それなりには、やりますけど」
あまり期待されてもな。 自分のことで一杯一杯というのは変わらないし……まぁ、今後どうなっていくかは俺にも分からないが。 ともあれ結局、うまいこと丸め込まれてしまった気がしてならない。
そんなことを考え、北見と話していたそのとき。 横でイルカショーを真剣に見ていた冬木が唐突に口を開く。
「成瀬君、手を上げてください」
「え? 手? えっと、こう?」
俺は言われるがまま、手を上げる。 すると、マイクを通しての声が響き渡った。
「はーい! それじゃあそこのお兄さん、ステージへどうぞー!」
「……はい? え、おい冬木」
「イルカのジャンプを近くで見れるみたいです。 良かったですね、成瀬君。 私は少し怖いので、成瀬君に是非見て欲しいので。 感想をぜひ」
……どうしてこう、俺の周りには人を使うことに長けた奴が集まるのだろうか。




