時の止まった学校で……
夕焼けに溺れた教室が彼を包んでいる。
彼はまどろみの中から抜け出し、突っ伏していた顔を持ち上げた。
いつもならガヤガヤと騒がしいはずの教室がひっそりと黙り込んでいた。
寝惚けた頭が今の状況を把握しようと、周囲を亀のように見渡す。
そうする内に彼の意識は覚醒し、あり得ない状況がより鮮明なモノとなった。
いつも仲間内でバカ騒ぎをしている男子グループや、それに加わる男に媚びたような女子達、いつも教師を小馬鹿にしたような態度を取る奴ら、はたまた学校にアニメの話をしにきているような、所謂オタクっぽい人々がそれぞれたむろっている。
勿論、それだけでは何時もの放課後としか言いようがない。
あり得ない状況とは、その全ての人々が一切の活動を停止させていたことであった。
哄笑、叱責、落涙、嘲笑、歓喜、憤怒、悲哀、享楽。
様々な感情を持った虚像が無造作に並べられていた。
彼の心は驚きに塗れていた。
もしかしたら未だに夢の中にいるのではないかと、おもむろに頬を痛めつけるが、夢でないのが残念に思う他なかった。
一体彼らに何が起こったのだろうか?
その問いに答えるものは誰もいない。
何時ものように話しかけてみようと、じりじりと像の一つに近づいていく。
像の前に立ったとき、彼の心臓は陸に上がった魚のように跳ねまわった。
いつものようにというのがどういうものであったか、一切思い出すことが出来なくなっていたからだ。
こういうときは当たり障りのない会話で場を取り繕う他ないと、彼は深呼吸をした後、重々しい口を開いた。
「今日は良い天気ですね。明日も晴れるでしょうか?」
震える声で絞り出した言葉は儚く宙に消え、返ってきたのは沈黙であった。
それはそうだ。
目の前の像は明らかに生命活動をしておらず、もし人の形をしていなければ、人であるかどうかも怪しいものだった。
像であるならば問題ない。
力一杯殴ってやろうと彼は拳を振り上げたが、それを行うにしては、その像が絶対に人でないという確証もなく、実行に移すことはできなかった。
ここで彼は一つの結論に至った。
自分以外の時間が止まっているーー
漫画や映画など、色々な媒体で使用されてきた使い古しの陳腐なファンタジーが自分の身に起こっている。
それ以外にこの現象を説明できる要素を、彼は持ち合わせていなかった。
教室を改めて見回す。
そうしたところで、彼に一つの疑問が生まれた。
この教室以外の場所はどうなっているのだろうか?
彼はゆっくりと廊下の方へ歩み始めた。
自分自身の目で、時の止まった世界を見てみようと思ったのだ。
ドキドキと、不安とも歓喜ともつかない複雑な感情が彼の心を支配した。
最後にもう一度だけ教室を振り返った。
「また、明日」
誰に向けたか分からない台詞を口にした。
無論返事はない。
期待もしていなかった。
しかし、彼はなぜか置いてきぼりにされたような気分になり、そんな気持ちを振り切るように、彼は足早に教室を遠ざけた。
他の教室を覗いてみると、やはり同じように皆が像になっていた。
多分他の教室も同じだろう。
ならば、特別な部屋ならどうだろうと保健室へと向かった。
保健室には怪我をした生徒を治療する先生がいた。
窓から外を見ると、部活動を勤しむ者達でごった返していた。
勿論動きはない。
ある者は投球中に、ある者はシュートの体勢で、ある者は美しい走行フォームで固まっていた。
まるで絵画のように切り取られたその場面は、西洋画のように写実的であり、日本画のように喜劇的でもあった。
彼らは楽しいのであろうか?
皆険しい顔でただひたすら競技に没頭している。
頑張ってもレギュラーになれなければ、試合に出ることすらできない。
今の彼の目に映る努力すらも、全くの無駄になってしまうというのにーー
彼は自分には真似や理解などできないことだと思った。
日差しのせいか、酷く眩しく感じた彼は、その輝きから目を反らし、図書室へと足を向けた。
図書室には本を静かに読む者、勉強の為に教科書を広げる者、読みたい本を探す者などここにも様々な人間がいた。
しかし、やはりここにも動く者はだれ一人として存在しなかった。
『図書室ではお静かに』と書かれた貼り紙が目に入る。
ふと、彼の頭に微かな悪戯心が芽生えた。
深呼吸をして、大きな声を出すために、心と喉の準備を整える。
いざ、というときになって、昔図書室で騒いだときに、周囲の視線が一身に注がれたときのことを思い出す。
もし今、虚像の群れに一斉に目を向けられたなら、蛇に睨まれた蛙のようにすくみ上がってしまうであろう。
結局、彼は逃げるようにそこを後にし、次は職員室に行ってみようと決意した。
向かう途中、中庭で何かが動いたような気がした。
そこで、世界をぐるりと見回してみるが、動いているモノを見つけることはできなかった。
改めて目的地に向かって歩みを進めた。
職員室。
正直言って、彼はそこに入りたくなどなかった。
好き好んで教師が大量発生している場所に乗り込みたい人間は居ないだろう。
その上、特に用もないのに入るのは、例え、動く人間が誰一人居なかったとしても勇気のいる行為だ。
今日何度目か分からない深呼吸を行い、扉へと手を伸ばした。
彼は恐る恐ると引き戸を開け、隙間から中を覗き込んだ。
一身に視線が注がれたような錯覚を覚え、彼は思わず頭を引っ込めた。
バクバクと騒がしい心臓に鎮まるように命令を下すが、全く聞き入れられていなかった。
見たのは一瞬であったが、動く像は一切存在していないように彼は感じていた。
彼にこれ以上ここを捜索する気は既に失せていた。
他に人の居そうな所はあったであろうかと考えながら、廊下の窓のサッシ部分にしな垂れかかり、そこから見える中庭を無感情に眺めていた。
中庭にはベンチがあり、そこに座り本を読む像が目に入った。
パラっと、像の持つ本の表紙が揺れた。
風のせいであろうか?
彼は期待と不安がない交ぜになりながらも、その像をじっと見つめた。
そして、パラリと、彼女の指が滑らかにページを捲るのを見たとき、主人を見つけた犬のように彼は走り出した。
彼女に近付くにつれ、彼はぜんまい仕掛けのおもちゃのように、緩やかに速度を落としていく。
本に没頭する彼女は近付く彼に気づく様子はない。
一歩一歩彼女への道を歩んでいく。
ようやく会えたまともな人間に、彼は気を良くしていたのだろう。
彼女の目の前に辿り着くと彼は不躾に語りかけた。
「なあ、君は何とも思わないのか?」
「いきなり何なの? 藪から棒に……」
彼女は不機嫌そうな眼差しを向けた。
「何って……今の自分たちの状況のことだよ。このまま……じゃまずいだろう?」
彼女も気付いて居るはずだ。この異常事態に。
「まずい、ね……。本当に、そうかしら? 私は別に構わないわ。私は望んでこの状況に身を置いているのだから」
彼は非常に驚いた。
この時の止まった世界で、彼女は一生を過ごしていくつもりだとでも言うのだろうか?
「誰も自分の話を聞いてくれない。自分のことを視界に入れようともしない。ただ時間を無駄に浪費していくような世界に身を置きたいだなんて、馬鹿げているとしか言いようがないよ」
彼の言葉を受け、彼女は少し考えて言った。
「……今の状況は自分の撒いた種だと思わないの? 全て世界のせいにして、自分の行動を省みない人間の方が馬鹿げているとは思えないのかしら?」
「でもさっきも図書室とか教室とかで、勇気を持って行動したって誰も……」
「もうこんな時間なのだから、あまり人もいないでしょう? 明日からでも良いのよ……。結局、変えたいのなら、変わらなきゃいけないのだから……」
彼女の言葉は正しく、彼は反論することができなくなった。
「そうだね……明日になれば、もしかしたら良い方向に転がるかも知れない」
「……そうね、頑張って」
「君は良いのか?」
「さっきも言ったけれど、私は今の居場所で満足しているのよ」
「そうか……」
「そんな悲しげな表情をしないで頂戴。それと、もしあちら側に行けたのなら、もう戻ってきてはだめよ? 私のことも忘れなさい」
「どうして?」
「まあ、忠告しなくても問題ないのだろうけど……。どうせ向こう側に行けば、こちらに戻ってきたくなんてなくなるはずよ」
「……いや、僕は忘れないよ。それに、もしあちらに行けたら、あちらから君を引き上げてみることにするよ」
彼女は少しだけ逡巡し、彼に向って微笑んだ。
「そう……期待しないで待っておくわ」
そう言って、彼女は本を持ってどこかへ去ってしまった。
闇に溺れ始めた空にハッとして、彼は無人の教室へ向かい、荷物を回収し家路についた。
翌日、彼は学校へと向かった。
下駄箱に着き、息を整えながら、牛歩のように、ゆっくりと、教室へと向かう。
教室前の廊下。
昨日高鳴っていたどの鼓動よりも激しく跳ね回る心臓を押さえつけ、彼は声を絞り出した。
「お、おはよう」
視線が注がれる。
彼の背に冷たいモノが伝っていった。
「ああ…おはよう」
もう物言わぬ虚像は存在しなかった。
彼は自らの手で時を動かしたのだ。
あれから、数カ月が経っていた。
彼の世界に変革をもたらした一件は、今では遠い過去の話になっていた。
教室でも保健室でも図書室でも職員室でだって、彼は何の不自由もなく世界を謳歌していた。
ある日の放課後、ふと中庭を眺めた。
そこはあの時とすっかり様子が変わってしまっていた。
季節も変化していたし、人通りも多くなっていた。
そして、何より違うのは彼女が居ないことだ。
彼女はどこにいるのだろうか?
そんな疑問を嘲笑うかのように、ひと際激しい風が彼の身を襲う。
思わず顔を背けてしまう程の強い風だ。
近くを少女が通り過ぎた気がした。
しかし、彼は目を向けなかった。閉じた目を開けなかった。
十分な時間をかけて、恐る恐る目を向けてみると、やはり少女などいなかった。
彼は誰ともなしに言い訳のように呟いた。
「君の忠告守っているよ」
心の痛みを誤魔化しながら、彼は思い出を振り払い、ここよりも明るい場所を目指して歩き出した。
「嘘つきね……」
この世界のどこかで、彼女は恨み事のように呟いた。
心の奥底に燻っていた羨望が、彼女にその言葉を紡がせたのかも知れない。
そして、今日も彼女はたった一人。
時の止まった学校で……。
これは作者が子供の頃を思い返しながら描いた作品です。
大人になるって悲しいことですね。
これは色々な解釈ができるんじゃないかと思うんですが、私としてはその感性を大事にして欲しいので、詳しい解説はしないつもりです。
よろしければ感想や評価などよろしくお願いいたします。