一難去って
先ほどまで希望に満ちていたリーゼの表情が、瞬時に怯えの感情を露わにした。
木から見下ろしていても分かるほどの巨体――自身の顔が胸の辺りにくるだろうか、と彼女は推測した――、興奮して血走った目、口から滴る唾液、ついさっき研いだばかりかと見紛うほどの鋭い牙と爪。一目で危ないと思わせる獣である。
リーゼはその姿を見た瞬間に固まってしまった。恐怖に身体を支配されている。
「この木から降りろっ」
ザウバーの叫びにより、リーゼの意識は瞬時に彼の方へと引き寄せられた。ザウバーとコウは大木から飛び降りてすぐに後ろに下がることができたが、リーゼは大木からの着地の際に隙を見せてしまった。上手く着地できなかったのである。
ザウバーが叫ぶと同時に、クマも動き出した。
全てを吹き飛ばすような勢いのある咆哮を上げたかと思うと、大木に向かって数歩歩み寄り、それに向かって腕を振り下ろした。
そこで三人は信じられない光景を目にした。
クマの爪で薙がれた跡が、きれいに抉り取られていたのである。それも、大木の幹の半分以上を、だ。リーゼは恐怖から短い悲鳴を上げ、震える脚でなんとか二人の所へと合流する。
すると大木から軋んでいるような音がしたかと思うと、リーゼたちの方へそれが倒れ掛かってきた。周りの木の枝を巻き込み、豪快に大木が倒れる。三人は幸いにも巻き込まれなかったが、リーゼはその光景に肝を冷やしていた。もし着地したまま動けなかったら――そのようなことを考え、彼女は泣きそうになりながら体勢を立て直す。
コウとザウバーは既に武器を構え、巨大なクマの動向を窺っている。リーゼも慌てて自身のファルシオンを構え始める。三人は並んでクマと対峙する。
「……俺が奴を引き付ける。その隙にコウとリーゼで仕留めろ」
「分かった」
「……やってみるよ」
ザウバーの指令にコウはいつも通りに感情のこもっていない声で返すが、リーゼの声は明らかに震えていた。ファルシオンを持つ手も、大地を踏みしめようとしている足も震えている。
「リーゼ」
ザウバーがリーゼを呼ぶと、彼女はびくつきながら彼の方を向く。
「恐れるな。俺たちがいる」
「……うん!」
リーゼが勇気をもらった風に頷くと、ザウバーが二挺拳銃の銃口をクマの頭部に向ける。彼女の足の震えは、幾分か収まっていた。
「行くぞ!」
引鉄が引かれて銃口が光ると、二発のマイアの弾丸は見事にクマの顔面に着弾した。クマは呻き声を上げながら顔を抑えて巨体をぐらつかせる。
それを見るなりコウが地面を蹴って果敢にクマの懐まで距離を縮めた。鋭い目つきで急所を捉え、ブロードソードを横に薙ぐ。
クマの胸の毛皮に刃が食い込んだかと思うと、それは瞬時に引き裂かれた。クマが絶叫してのたうち回る中で、リーゼは自身が飛び出すタイミングを窺っていた。今飛び出すと、のたうち回っているクマの腕や脚の一撃で返り討ちに遭ってしまう可能性がある。
彼女が攻めあぐねているうちに、コウは次の一手に出た。腕を振り回している中で胴を狙うと腕に当たってしまう可能性があると考え、今度は脚を狙い始める。
「コウ、回り込んでくれ!」
「うん」
ザウバーの指示に従い、コウは即座にクマの背後を取ろうとする。
しかし、クマはそのコウの行く手を巨体で阻んだ。丸太のように太い腕で正確に彼を叩き潰そうと振り下ろされる。コウは冷静に後ろに飛んでリーゼが立っているところまで戻ることができたが、叩きつけられたクマの腕は轟音を立てて地面を揺らし、土埃を辺り一面にまき散らした。三人が土埃から目を守るために腕で顔を防御する中、クマはそこら中の空気を吹き飛ばすような勢いで雄たけびを上げた。
視界が開けると、三人は絶句した。
クマは胴を斬られてもピンピンとしており、目の前の獲物に興奮して四足で此方に向かってくる。三人が急いでクマの突進を横方向に避けると、ザウバーが再び銃を乱射する。マイアの弾丸は毛皮を焦がし、充血した皮を突き破ろうと襲い掛かる。
「このっ……!」
ザウバーが引鉄を引き続け、狂ったように弾丸を射出させる。マイアの弾はクマに当たっているものの、体毛を焼き焦がしているだけで決定打にはなっていない。クマはリーゼたちの方へ方向転換し、再び突進してきた。
ザウバーは、馬鹿正直に突っ込んでくるクマの頭部を狙い始めた。敵は直線的に向かってきているので、的を絞りやすい。
「いい加減倒れろっ!」
ザウバーが引鉄を引く。彼の声には怒りが混じっていた。
発射された弾丸はクマの顔に命中、クマの巨体はそのままよろけて無様に転倒した。走って勢いのついている体躯はそのまま三人の方へと転がっていく。リーゼとザウバーはそれに巻き込まれまいと側方へステップして逃げるが、コウは留まっている。
「コウ、逃げて!」
リーゼが悲鳴に似た声を上げると、コウはその場で飛び上がった。尋常ではないジャンプ力に、二人の目はコウに釘付けになった。
彼は既に抜き放っているブロードソードの切っ先を下に向け、滑るように此方に向かってくるクマへとそれの照準を定めた。
風を切る音が、刹那に鳴る。
次の瞬間、ブロードソードの切っ先は、クマの巨大な背中に突き刺さっていた。赤黒い血が剣と肉の隙間から漏れ出て、すぐに地に垂れる。
その光景を、リーゼとザウバーはただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。ザウバーがある程度弱らせたとはいえ、今まで暴れまわっていたクマがコウの一撃で大人しくなったのだから、驚くほかはない。
コウが剣を引き抜くと、噴水から噴き出た水のように血が辺りに飛び散った。彼の純白の髪にも、血がこびりついている。
「……まだ生きてる」
コウが淡々と呟くと、もう一度剣を振り上げ、傷口に向かって深々と刃を刺した。木々を薙ぎ倒すような勢いでクマの絶叫が山中に響き渡る。血液が先程よりも勢いよく噴き出て、周りの葉や地面を赤黒く染める。
クマの絶叫が終わると、今まで暴れまわっていた巨体がピクリとも動かなくなった。リーゼとザウバーは一連の光景を畏怖をもって見つめていたが、その瞬間クマの討伐が完了したことを悟った。コウが剣を引き抜き、二人の下へと歩み寄る。
リーゼはコウを讃えることは無く、ただ血まみれのクマの死体を見つめることしかできなかった。もはや自身が何もできなかったことなど考えることもできず、目の前の惨状に絶句している。
「……感じた」
コウの言葉に、彼女の意識が引き戻された。
「感じた……って」
「マイアを、感じた」
先程のネズミの時と同じことを、コウは指摘した。ザウバーがクマの死体とコウを交互に見始める。
「どうやら、動物が暴れさせられていることは事実の可能性が高いらしいな……」
「そうみたいだね……」
リーゼがザウバーの言葉に同調する。意気消沈気味なリーゼに気付いたザウバーは、心配そうにして彼女の方を見た。
「まだ血は慣れないか?」
「……それもあるけど」
まだ何か言いたげなリーゼの態度に、ザウバーが首をかしげる。
「……すごく、怖かった。あんなに大きい獣がいるなんて……」
彼女の言葉に、ザウバーは深々と頷く。
クマの巨体や咆哮、そして繰り出される攻撃の全てにリーゼは恐怖し対応できなかった。またしても二人におんぶにだっこの状態となってしまったことに、彼女は自己嫌悪に陥りそうになっていた。弱気な表情の後、彼女は心底悔しそうに唇を噛んで両手に拳を作った。
「ひょっとしたら、マイアの影響で身体が大きくなって強化されているのかもしれない。でなきゃあんなに大きくはならないし、力も強くない。俺も仕事上森に入ることはあって、クマも見たことがあるが、あんなにデカくはなかった」
ザウバーの言葉で、リーゼは独りで考えることを止めて其方に意識を向けた。
「……これもマイアの影響なのかな?」
「可能性はある。兎に角、先に進んで犯人を見つけよう」
ザウバーが言うと、リーゼとコウが頷いた。と同時に、リーゼは否定的なことをうじうじと考えないように心の中で誓った。
――今は、任務に集中しよう。考えていたらきりがない……。
しかし、三人が歩き出したその時、彼らの周りから不穏な音が響き始めた。
それは、何かの唸り声や呻き声のような不快な音。それを聞き、リーゼの身体がビクリと跳ねた。ザウバーが口の前に人差し指を立てて、二人に声を出さないように示す。
更に三人は、鼻が曲がるような臭いを感じ取った。涎の臭いと肉が放つ生臭さ、そして肉が腐ったような臭いが混ざった酷く不快な代物である。
それらによって、三人は再び獣が襲来したことを悟った。それも先程のクマのように単体ではなく、複数が襲ってきていることも察した。
そして、声の正体は三人に向かって走り出した。茂みが揺れる音が喧しく響くが、三人は気にも留めずにその場から走って逃げだすことに決めた。
「走れ!」
ザウバーが号令をかけるが、リーゼとコウは既にザウバーの後ろにぴったりと追随しながら走っている。
ふと、リーゼは何が迫っているのかを確かめるために振り向いた。クマのように巨大な獣が襲ってきている気配は感じないが、正体不明のままであるのも気味が悪い。
彼女が後ろを見ると、そこには三頭の灰色の野犬が血走った目をしながら追いかけてくる光景が映った。悪いことは重なるもので、野犬たちは此方との距離をどんどん縮めている。元々高かった獣の身体能力がさらに強化されていることを確信し、彼女の背筋を悪寒が襲う。
「ザウバー! 相手はイヌだよ! このままじゃ追いつかれる!」
リーゼが必死な思いで叫ぶと、ザウバーはようやく後ろを振り向いた。
「リーゼ、コウ、どけてくれ!」
ザウバーが指示を出し、二人は大人しく従う。ザウバーは既に抜き放っていた拳銃の一挺を後方に向かって撃つ。しかし彼が狙っているのは獲物本体ではなく、それらの進路だ。地面を撃って相手を怯ませ、そのまま逃げるという算段である。
ザウバーは何度も何度も地面に向けて弾丸を放つ。それでも野犬たちは、まるで『恐れ』という感情を排除されているかのように猛進してくる。三人を上回る速さで近づいてくる敵を見て、ザウバーは舌打ちをした。
「ならば……」
ザウバーは突然立ち止まり、三頭の野犬と正面から向き合い始めた。彼は二挺拳銃を構えて、臨戦態勢に入っている。
「ザウバー!?」
「走れ! ここは俺がやる!」
ザウバーが叫ぶと、彼は二挺拳銃の引鉄を引いた。一頭につき二発、合計六発の弾が、突進してくる敵に向かって一直線に放たれる。
発射されたマイアの弾丸は、正確に三頭の野犬の頭を撃ち抜いていた。頭部を焼かれた野犬は断末魔を上げることもなく、走っていた時の勢いそのままに地面を転がる。
ザウバーはそれだけでは安心せず、さらに野犬の頭めがけて拳銃の引鉄を引いた。一頭につき五発、マイアの弾丸を容赦なく撃ちこむ。敵の頭部の原型はもはや無く、三頭が無残な肉塊に変貌したのを確認してようやく彼は安堵の表情を浮かべた。
リーゼは一安心してザウバーの方へと引き返した。野犬の死体は敢えて見なかった。彼女なりの対策である。
「良かった……」
「その程度じゃやられないさ」
ザウバーがリーゼに笑顔を見せると、彼女もつられて笑う。それをコウは少し離れたところで見ているだけだった。
しかし、そこでコウが二人の方へと走り始めた。何事かと思い二人が彼の方を見ると、彼は既に剣を構えて右に曲がった。
「コウ?」
リーゼが叫ぶと、彼女の目の前に何かが吹き飛んできた。と同時に、彼女の頬に生温い感触が付着する。吹き飛んだ物体はリーゼの顔の辺りを横切り、地面に落ちた後に少しの距離を転がり木に当たって止まった。
「……え?」
彼女が目を向けると、白目を向いた野犬の生首が彼女の視界に入った。彼女は小さく悲鳴を上げ、ザウバーと顔を見合わせる。恐らく顔に付いたものは――彼女はそこで考えるのをやめる。血のような臭いがするが、彼女は考えないようにした。
「コウ!」
ザウバーが叫ぶと、彼は二挺拳銃を再び構えてコウの背後に跳びかかってくる野犬を撃ち抜いた。その直後、コウの刃が既に息絶えている野犬を捌く。
「……まさか」
ザウバーは辺りを見回した。先程の悪臭が強くなったのをリーゼとザウバーが感じる。
「もしかして……囲まれた?」
リーゼがパニック状態になりかけている頭を必死に働かせて推測した。その言葉に、ザウバーが苦虫を噛み潰したような顔で頷く。リーゼのファルシオンを握る手が、俄かに震え出す。
リーゼの想像通り、野犬が草を揺らしながら此方に歩み寄ってきた。数は数えただけで一〇以上はいる。今にも三人に跳びかかって首元を噛み千切らんとする勢いで唸っている。
いよいよピンチだ。今まではコウやザウバーが頑張っていたから良かったものの、流石に今の状態では二人は自身にまで手が回らないだろう。自分が敵を斬るしか生き残る手立ては無い――リーゼは泣きそうな顔になりながら震えを止めようと努めるが、どうしても止まってくれない。呼吸の数と鼓動も急上昇している。
するとザウバーがリーゼと背中合わせになった。彼女は身体を痙攣させたように震わせる。
「私……こいつらと戦う。戦わなくちゃならない! 戦わなきゃ、ここを抜けられない!」
「落ち着け。きっと大丈夫だ。君は強くなる努力をしてきた筈だ。マイアで強化されているが、リーゼなら勝てる」
ザウバーがリーゼに優しく語りかける。彼の言葉を聞いて、彼女は心身を落ち着かせようと深呼吸を一回した。手の震えはまだ残っているが、彼女は戦う覚悟を決めた。
目はしっかりと目の前の野犬を見つめ、その目つきはまだ頼りないが戦う意思を明確に示している。その様子にザウバーは一安心して、彼もまた目の前の敵に集中する。
――……行くぞっ!
リーゼが腹の底から声を出し、彼女の方から野犬へと突っ込んでいった。