獣との遭遇
ゼノからルシディティまでの距離は、リーゼたちの想像以上に長かった。彼女らは馬車を使ってもゼノを出てからおよそ五日かかってしまった――途中の町でどうしても馬を休ませなければならなかったという理由もある――。現在のルシディティはどうなっているのか、それだけが彼女らの気がかりだった。
彼女たちがルシディティに到着した時、そこは不気味なほど静寂に包まれていた。まるで住民全員が逃げ出したかのような異様な状況に、馬車から景色を見つめていたリーゼを胸騒ぎが襲った。ザウバーも怪訝そうな顔をしており、彼もこの状況を予想していなかったことが窺える。今にも雨が降りそうなほど分厚い雲が空を覆っている中、馬車は町を進む。
リーゼたちが馬車を停めた場所は、町に一つだけある病院だった。負傷した人々に、この町を襲った獣について話を聞くためである。彼女らにとっては獣の情報が少なすぎたのだ。
病院の中は、まるで亡霊が住み着いているかのような空気が充満している。薬草の匂いと、所々で血の匂いが三人の嗅覚を刺激する。
三人は医者から許可を得て、とある病室へと入った。そこには男四人がベッドに寝かされており、外見から腕を折られた者や脚が折れている者などといった重傷者が収容されている具合である。リーゼはその光景から目を背けたくなったが必死に我慢して、脚に添え木がされている男の方へ向かい合う。
「……一体この町で何が起こったんですか?」
リーゼが恐る恐る尋ねると、男が諦観した表情で三人の方を向いた。
「あそこの山から、獣どもがいきなり襲い掛かってきたんだ。丸腰だったから、簡単にこのざまさ」
「その獣の特徴とか……教えていただけませんか」
ザウバーが次に問うた。しかし、男は諦めたような顔をしているのみである。
「……どうなさったのですか?」
「あんたら、まさか獣の所にいくのか?」
男に問われると、三人が頷いた。それを見て、男が彼らを鼻で笑った。
「やめとけ。警察でも軍の兵士でも俺らと同じようにやられて逃げたんだ。どうせこの町はおしまいだよ」
完全にこの町は諦めムードに包まれている――リーゼはそう察すると同時に、男の態度に腹を立てた。表情には出さないが、彼女の頭は怒りでのぼせそうになっている。
「そんなの……やってみなきゃ分からないじゃないですか」
「……分かるさ。どうせ皆やられるんだ」
その言葉に、ついにリーゼがむっとしたような表情を向けた。それでも男の表情は感情を失ったかのように変わらない。
すると、ザウバーがリーゼを制止した。
「我々はやってみせますよ。ご安心ください。原因を突き止めて獣を倒し、この町に平和をもたらしてみせます」
リーゼが呆然としている中で、男はザウバーの言葉を聞いてもそれを鼻で笑った。
「……まあ、精々頑張れ」
それを言ったきり、男は三人に背を向けてしまった。それを見た三人は退室し、病院を後にした。結局質問の許可が下りた患者はこの男だけだったので――怪我人の対応で病院側も忙しいことが理由である――、リーゼたちは碌な情報を得ることができなかった。
三人は病院から徒歩で、ルシディティのはずれにある『ウルヴ山』のふもとまでやって来た。その目と鼻の先にはかつてマイアスの鉱山であった『レアフォーム山』が存在する。しかしこの鉱山はある理由によって現在は閉山している。
「リーゼに言っておく。絶対に俺たちの傍を離れるな。それと大声を出さないこと。解ったか?」
「分かった」
リーゼが小さい声で返事をして頷くと、三人はそれぞれ武器を構えて山の中へと突入した。
ウルヴ山では、風で木の葉が揺れる音しか響いていない。虫が鳴く音や鳥がさえずる声すら聞こえない。ざわざわと音が三人の耳に入ってくるが、それに合わせるようにリーゼにも胸騒ぎが襲う。
この山は静かすぎる――三人は周囲に耳を澄まして警戒する。
三人が登山道らしき道に入ると、辺りから生臭さが漂い始めた。動物の唾液が辺り一面にこびりついているかのような匂いにリーゼは顔を顰めるが、ザウバーとコウは何食わぬ素振りで辺りに目を配っている。リーゼが生唾を呑みこむ音すら彼女の耳にはよく聞こえる。
刹那。
リーゼの全身に悪寒が走り、ザウバーがコウとともに武器を向けた。
彼女が気付くと、何かの生き物がコウの剣で真っ二つに斬られている光景が目に入っていた。
リーゼは思わず短い悲鳴を上げ、ザウバーですらもその速度に反応することができず呆然とそれを見ていたのみであった。水っぽい音を立てて肉塊が地面に落ちたとき、彼女らは漸く自身たちに襲い掛かってきたものの正体を掴むことができた。
それは、一匹のネズミであった。白目を向いて既に死んでいるが、その大きさはザウバーが持っている銃一挺程度の大きさであり、野生の個体よりはるかに大きい。リーゼはそれを見て絶句した。
「……何、これ――」
「まだ来る」
コウがぽつりと警告すると、風で木々が揺れる音とはまた異なる、何かが擦れる音が周りから聞こえ始めた。
そしてそれらは、一斉に飛び出してきた。何十匹といるネズミが三人に襲い掛かる。
ザウバーは引鉄を引き、連続してマイアの弾を射出する。此方に向かってくる目標を一匹ずつ的確に撃ち抜き、彼を襲うものは返り血と獣の死体だけになった。コウは襲い掛かって来る敵を避けながら一匹一匹確実に切り裂いている。
それに対してリーゼは、雨のように此方に向かってくる敵を避けることしかできなかった。悲鳴を上げながら、ファルシオンを振ることもできず、ただ敵に噛みつかれないようにするのが精一杯になっている。
すると突然、彼女の耳元で銃声が鳴った。彼女は反射的に屈んで当たらないように努める。彼女の頭上で、何発も銃声が鳴るのを感じていた。
さらに今度は、誰かに腕を掴まれる感触を覚えた。リーゼが短い悲鳴を上げて掴んだ主を見る。
「もう獣はいない。大丈夫だ」
ザウバーがリーゼを落ち着かせるために優しく声をかける。その顔には笑みが浮かんでおり、彼女はそれを見て泣きだしそうになったがなんとか堪える。
「……ごめん。早速足手まといになっちゃった」
「気にするな。あれは不意打ちに近い。俺も反応できなかった」
そう言って、ザウバーは茂みの奥を見つめているコウをちらりと見た。
「あいつは反応できたけどな……」
コウの周りには、夥しい数のネズミの死骸が散乱している。それを見たザウバーはうって変わって苦笑いを浮かべた。
「あいつは本当に分からないな……」
リーゼはコウの強さに驚嘆しているだけで、何も言葉をかけることができなかった。しかしそれは、ザウバーでさえも同じコンディションである。
彼はコウに恐怖さえ抱いていた。一体何が彼に獣の飛び出しを感知させたのか、ザウバーには分からなかった。
すると、コウが再び剣を構え始めた。それを見たリーゼとザウバーも武器を構える。
「……また来る」
コウが呟くと、茂みががさがさと揺れ始めた。それを合図にするように、コウが走り始める。
「……おい、コウ!」
ザウバーがコウに向かって叫ぶと、茂みから先程のネズミが再び飛び出してきた。数は凡そ三〇――この数を一々相手にしていてはキリがないと判断したザウバーはコウとリーゼとともに走り出した。
時折後方にザウバーが弾を撃ち込んでネズミの数を減らそうとしたが、ネズミの大群は止まる気配を見せない。このまま止まって相手をするか、どこまでも逃げ続けるか――三人は決断を迫られていた。
すると、息を切らして走っているリーゼがある物を見つけた。
「見て、あれ!」
リーゼが指を差した先には、一本の大木があった。太い幹に太い枝が何本も生えており、それらは大量の木の葉によって隠されている。隠れるのにうってつけだと感じた彼女の指し示した先に、ザウバーとコウは注目した。
「そこに登るのか?」
「それしかない!」
高いところに登れば、ネズミ共はそこまで追ってくることができないだろう――リーゼはその思惑で一か八かの提案をした。
「……その提案、乗った!」
ザウバーがリーゼにニッと笑いかけて道を外れ、茂みをかき分けるようにして走り始める。コウとリーゼもそれに続く。
ザウバーは木の幹を蹴り上げて高く跳び、枝を掴んでそこに飛び乗った。コウは自力で高く跳びあがり、ザウバーよりも高い位置に陣取ることができた。リーゼは一番低い位置にある枝を掴んで身体を持ち上げ、時間はかかったがなんとかザウバーと同じ位置まで上がることができた。
リーゼは地面を見下ろした。そこには木を登ることができず周りにたむろするだけのネズミの大群があった。思惑が見事に的中し、彼女は胸を撫で下ろした。胸に手を当てると、心臓が未だに暴れまわっているのを感じる。
するとザウバーが二挺拳銃を再びホルスターから取り出し、地面に固まっているネズミの群れに向けて銃口を向けた。
「ここなら――!」
引鉄が引かれ、マイアの弾丸が群れに着弾する。ザウバーは目標を睨みつけ歯を食いしばりながら、何度も何度も引鉄を引いて弾丸を雨のようにネズミに浴びせ続ける。短い断末魔とともにネズミの身体が弾け飛んでいく光景をコウは呆然と見続け、リーゼは目を強く瞑って顔を背けていた。
やがて弾丸の発射音が止むと、リーゼは目を開けてザウバーの方を見た。彼は安心したかのようにホッと息をつき、地面を見下ろしている。それにつられるようにして、リーゼも地面の方を向く。
そこは焼け爛れた大地が広がっており、ネズミのものであろう肉片がそこら中に散らばっていた。木の幹も一部分焦げ付いている。動いている敵は見つからない。ザウバーが一匹も漏らさず掃除したのであろう――リーゼはそんなことを考えながら口に手を当てて嘔気を我慢している。
「……大丈夫か?」
ザウバーがリーゼを心配するような表情をして声をかける。リーゼは二回頷くだけで何も返答しない。
「少しここで休もう」
「分かった」
ザウバーの提案に、コウが賛同する。リーゼは二人に感謝するとともに、そのような光景に耐性がない自身の軟弱さを酷く恥じた。傭兵は害獣の駆除だけが仕事だけではない。人を殺したり、その血や臓器を至近距離で見ることだってあるのだ。仕事として、自分の村を救うために、このようなことはこなしていかなければならない――彼女はそのことを肝に銘じて、嘔気を抑えようと努めた。
暫く休んで、リーゼは漸く気持ちの悪さを感じなくなった。深呼吸をして、彼女はザウバーの方へ向き直る。
「ごめんなさい。時間の無駄になっちゃって……」
「気にするな。丁度俺たちも休みたかった頃だったから」
その言葉を聞き、リーゼはザウバーに頭を下げた。
「話は変わるが」
ザウバーは、彼より上の枝に腰かけているコウを見上げる。
「何でアレに気が付いた? 一度だけじゃなく何度も」
真剣な表情で尋ねているザウバーに対して、コウは無表情で俯いた。何かを考え込んでいるのだろうかとザウバーが期待を寄せたとき、コウが顔を上げた。
「……コウ、教えてほしい」
「……感じた」
ポツリと、コウが呟いた。その言葉に、ザウバーだけでなくリーゼも耳を傾ける。
「何を感じた?」
ザウバーが前のめり気味にコウに尋ねる。
するとコウは、地面に散らばっている肉片を見つめ始めた。
「マイアを、感じた」
リーゼとザウバーはぽかんとした表情でコウを見る。本人はよく理解せずに答えているのか大真面目に答えているのかが分からなかったからである。
「確かに、俺はここにマイアの弾を大量に撃った。それが理由じゃないのか?」
「違う。あいつらから、マイアを感じた」
コウの言ったことに、ザウバーは首をかしげた。
「……おかしい。このネズミがマイアを持っていたっていうのか?」
「……感じた」
同じことしか言わないコウ。彼の言うことで考え込んでしまったザウバー。リーゼは孤立しながらこの状況を彼女なりに考えようとしていた。
ザウバーが考え込んでしまうのも無理はない――リーゼは思った。マイアはマイアスにしか存在せず、動植物には通常含まれていない要素だと彼女は信じていた。この理論が通用するのなら、先程のネズミの存在自体が自然界では異常だということになる。
すると、リーゼの頭の中に一つの考えが浮かんだ。
「もしかして……誰かがマイアを使って動物を操っているのかも」
その言葉に、ザウバーがリーゼの方を向いた。
「それが本当だとしたら……この獣の襲撃は、人為的に行われていることになるが」
「原因はそれかも」
リーゼとザウバーは衝撃を受けた表情で顔を見合わせた。しかしそれでもリーゼの中に懸念があった。
「でも原因がこれで決まったとしても、どこにその犯人がいるのかが分からないよ……」
「獣を倒していけば、犯人は焦って出てくるかもしれない。それまで辛抱するしかなさそうだ」
しょぼくれて俯いているリーゼを、ザウバーが励ます。
獣を駆除していけばそのうちに犯人が現れることを期待するしかない――ザウバーの言葉を受け、リーゼは顔を上げた。この長く険しい道を超えていかなければ、この事件は解決しない。そして成功報酬を受け取ることができない。
「……やってやろう。『白銀の弓矢』で、この事件を解決しよう!」
「急に元気になったな。……まあ、リーゼが張り切ってくれて一安心だ。俺たちもやるぞ」
「うん」
急にやる気を出したリーゼを、コウが不思議そうに見つめている。それにも気付かず、リーゼは目の前の目標に向かって突き進もうとしていた。
しかし、彼女の前向きな思考は、腹に響くような重低音によって途絶した。
三人が留まっている大木を、巨大なクマが涎を垂らして血走った目で見つめていた。