守れなかった約束
ザウバーがミゼを捕えようと躍起になって動き回っていた一方で、リーゼは路地裏で憔悴しきってうずくまって動かないでいた。
彼女の腕には、胴を赤黒く濡らし口元にも赤黒い液体がべっとりと付いているネオンが抱えられている。ミラに胸を刺されており、大量に出血した結果このような惨状を呈している。目を開ける様子は無く、胸郭の動きは僅かで、今にもその上下運動が途絶えようとしている。
「ネオン君……」
消え入りそうな声で、リーゼがネオンに呼びかける。彼女の小さな声はネオンの耳に届いていないのか、ネオンは目を閉じたままだ。リーゼは心臓を鷲掴みにされているかのような痛みを感じながら、地面におろしたネオンの顔を見つめ続けている。
「ネオン君……お願い……。目を、開けて……」
リーゼの声は大きくなることがない。ネオンの命が風前の灯火になっていることに直面して耐え難い胸苦に襲われており、息を吐くのも辛くなっているためである。声をかけるほかには、血だらけになった両手でネオンの手を握りしめることしかできない。
すると、リーゼの言葉が通じたのか、ネオンの瞼がゆっくりと開き始めた。リーゼはそれに目を見張りつつも、ネオンの手を握る力を強める。
「ネオン君……!」
リーゼの目に涙が浮び、ネオンの目をじっと見つめる。ネオンの目もリーゼの顔に焦点を合わせており、二人は再び目と目で通じ合うことができた。それでも言葉を話すことは困難なようで、リーゼはあたかものどが圧迫されているかのように声を詰まらせており、ネオンは口をパクパクさせることしかできない。
更に、ネオンはリーゼに握られている方の手を動かし始めた。それに気が付いたリーゼは彼の手を離す。彼の手は、リーゼの手を握り返した。
「……もう無理しないで、ネオン君。今からお医者さんに連れて行ってあげるから!」
声は小さいが、リーゼはようやく流暢に言葉を出すことができるようになった。ネオンが目を開けて自身に意識を向けたことに安心したのだろう。リーゼはとっさに医者に連れていくとは言ったが、そのあては彼女には無い。ただ何とかしてネオンを安心させるために口から出た言葉である。
苦し気な表情を浮かべながら、ネオンはリーゼの手を握り続ける。ネオンの手は怯えているかのように震えており、それを止めようとリーゼが握り返す。まだ温もりを感じることのできるネオンの手を、リーゼは離さないよう必死に握っていた。
「さあ、ネオン君、行こう」
頭の中の整理がつき始めたリーゼが、路地裏から出ようと動き始めた。彼女は――自身が今起こっている騒動の参考人として拘束される可能性を全く考えず――ネオンを国軍の医療施設へと連れて行こうとしていた。そこが今彼女らがいる場所から最も近い医療施設だからである。
そして何より、彼女はネオンを守りたいという気持ちに突き動かされている。ネオンを守るという約束を守らなければならないと考えているからこそ、こうして憔悴し、一刻も早く彼を助けたいという想いに駆られて動こうとしていた。
しかし、リーゼが立ち上がろうと片膝を立てたとき、ネオンに異変が起きた。
ネオンの手が、リーゼの手からするりと抜け落ちたのだ。
彼の手は、力なくぺたりと地面に落ちた。
「……え?」
リーゼは気の抜けた声を出すことしかできなかった。彼女は身体を微動だにさせずネオンを凝視するが、ネオンは半開きの目でどこか遠くを見つめているだけである。彼の胸郭は動いておらず、その事実がリーゼの顔を歪ませる。
リーゼは過呼吸のような息遣いで動かなくなったネオンを揺さぶり始めた。ネオンの身体は大きく揺さぶられるが、彼からの反応は一切無い。
リーゼの呼吸のペースが落ち着くにつれて、揺さぶる力が弱くなる。ネオンの身体が揺れなくなると、彼の頬に水滴が落ち始めた。
リーゼは涙をとめどなく流しながら悟った。
ネオンの命が、目の前で消えてしまったことを。
もはや彼女には、泣き叫ぶ気力すら残っていなかった。立てた膝は虚しく地に付き、嗚咽を漏らしながら、「あ」や「あぅ」といった意味を持たない声を出してただただ涙と鼻水を垂れ流すのみである。
ぼやけてまともに見えないリーゼの視界の中で、彼女とネオンとの思い出が流れ始めた。初めて遭遇したとき、彼は衰弱していた。そんな中でもネオンは彼女を信頼していた。保護して助け出し、極限の場面を乗り越え、一度は離れ離れになるも紆余曲折を経て再会し『白銀の弓矢』の仲間となった。それからともに笑い、ともに泣き、ともに手を取り合って死地を潜り抜けてきた。それらがネオンの死とともに遠くにいってしまったと、リーゼは感じていた。
リーゼはネオンを失い、彼を守るという約束が果たされなかった失意と同時に、『ジン』の騒動で味わった無力感を再び覚えた。ただの装具と純粋装具との間の圧倒的な差を見せつけられた後だったため、猶更その思いが大きくなる。強くなると誓ったはずなのに、また目の前で仲間が死んだ。過ちを繰り返してしまったのだ――リーゼは炎に焼かれるような苦しみを味わっていた。
リーゼはこみ上げる悲しみや無力感で窒息しそうになりながら、ネオンの亡骸の前でひたすら泣き続けた。