覚醒
リーゼとザウバーは、今自分たちの目の前で起こっていることを信じることができなかった。リーゼに至っては、信じたくないという気持ちが心の底から湧き出てきた。
ネオンが、ミラに刺された。リーゼたちの目の前の出来事は、紛れもなく現実であった。ネオンは口から血を吐き、焦点のあってない目でミラを見つめるだけである。
その直後、ネオンの首飾りから光が消えた。まるで彼の命と連動しているかのように、それは突然起こった。
更に奇妙なことが起こった。首飾りの珠から光が消えたかと思うと、プツリと糸が切れるような音がし、首飾りを構成する珠が重力に従って全て床に散乱した。これはミラも予想外だったようで、彼女から笑みが消え、ネオンの胸から刃を引き抜き散乱した珠を拾おうとする。人を刺した後とは到底思えないような落ち着いた動きだ。赤黒い返り血がドレスに大量に付着しネオンが彼女の眼前で仰向けに倒れるが、気にも留めない。
「いやああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
リーゼが倒れたネオンのもとへ半狂乱で走り寄る。
自身が守ろうと誓ったネオンが凶刃に倒れた――リーゼの精神は崩壊しそうになっていた。ネオンの近くには純粋装具を持ったミラがまだいるが、彼女の視界には血だらけのネオンしか入っていなかった。
「あんなに大口叩いてたのに守れなくて残念だったわね。この子の隣で貴女も死ぬ?」
ミラは珠を拾うのを止め、邪悪な笑みを浮かべながらリーゼに純粋装具の刃を向ける。刀身にはそこに刻まれている紋様の一部が隠れてしまうほどネオンの血がべったりとついている。躊躇なくリーゼを刺し殺そうとするミラを見て、ザウバーはようやく我に返り動き出した。
「だめだ、リーゼ。近づくな!」
しかし、リーゼにはザウバーの声が全く聞こえていなかった。彼女の意識は全て死にかけのネオンに向いている――彼女の命をミラが刈り取ろうとしようとしていることに気づかずに。
「聞こえてないようだけど……貴女も殺すわね」
ミラが純粋装具を構えると、刃が妖しく光る。彼女はリーゼを切り裂こうと、地面を蹴ろうとした。
しかし、そこでミラを違和感が襲った。ミラだけでなく、ザウバーや『ソウル舞踏団』の五人、憔悴しているリーゼすらもそれを覚えた。
「『ネオ・ソウル』……、刺した……、斬った……、血……」
コウが、まるでおぼろげな記憶をたどろうとしているかのように単語をぽつぽつと呟いていた。しかし彼の目は焦点が合っておらず、何故か息が荒くなっている。それを見たミラの顔から笑みが消え、彼女を胸騒ぎが襲う。
一方ザウバーは、その感触に覚えがあった。コウをべリアル山で保護したとき、彼のブロードソードから発せられていた気持ち悪さと全く同じものを感じ取っていた。彼は思わず動きを止めてしまった。
ネオンが刺されたというリーゼとザウバーにとって絶望的な状況は、コウが放つ異様な雰囲気に塗り替えられてしまった。リーゼたちも『ソウル舞踏団』も、コウに釘付けになっている。
「リーゼ、ネオン君を連れてそこから離れろ!」
まず先に動いたのはザウバーだった。リーゼは固まったままだったが、ザウバーの鬼気迫る顔を少しの間見つめていると、さすがに彼女でもこの異様な状況は理解できたようで、ネオンを抱えてその場を離れようとした。
「あなたたち、ここからすぐに逃げて! かなりまずいことになってる!」
ミラもまた、彼女の仲間にその場から離れるように指示を出した。彼女の指示を聞いた『ソウル舞踏団』の五人はそこから逃げる体勢を整えようとする。
ところが、そこでさらに不可解なことが起こった。
コウの首に巻き付いているシリオンの鞭の尾が、氷に覆われていた。
シリオンはそれを信じられないといった目つきで凝視するばかりで、その場で立ち尽くすのみである。シリオンと一緒に鞭を持っていたリオは慌てて手を離したが、シリオンは泣きそうな顔になりながら身体を震わせているだけだ。
すると、シリオンの鞭を持っている手が凍り付き始めた。リオやトーリア、プティ、そしてミゼは悲鳴を上げて彼女から離れ、天井の穴から一目散に脱出した。シリオンの鞭はすべてが氷に覆われており、一種のオブジェのようになっている。
「団長……助けてください……。痛い……死にたくない……」
腕が凍り始めているシリオンの眼から涙が零れるが、その涙も凍って結晶になった。ミラはそれを唇を噛んで見つめることしかできなかった。彼女ですら近寄りがたいほどのマイアが垂れ流されているからである。
その隙を見計らって、リーゼはミラのもとからネオンを運ぼうと動いていた。すると、彼女の視界にあるものが目に入った。
ネオンを運ぼうと彼を持ち上げると、彼がつけていた首飾りの珠が血だらけになった状態で一粒落ちていた。ネオンが倒れたときに下敷きになっていたのである。リーゼはせめてもの抵抗で、これも回収してミラから離れた。幸いにも、ミラはコウに気を取られておりリーゼたちを追ってはこず、首飾りの珠をとられたことも気付いていない――気付く余裕すら無いというのが正しいかもしれないが――。
「ネオン君……、ネオン君……」
ザウバーと合流したリーゼは彼とネオンとともに、天井の穴から脱出した。しかし、ネオンを抱えたリーゼとザウバーの行先は別々で、リーゼはネオンの安否を確認するために人気のない場所へ、一方ザウバーは『ソウル舞踏団』の残りを追うために彼女らを探しに向かった。
コウが絶対に帰ってくると信じて。
コウの周囲には、尋常ではない量のマイアと、彼から発せられている冷気が漂っている。彼は全身が脈を打っているような奇妙な感覚に囚われながら、熱に浮かされているような顔で、凍り続けているシリオンを見つめている――彼女は既に身体の半分ほどが氷に覆われており、泣き叫んで助けを請うている。だがミラは諦めているのか動こうとせず、コウにいたってはその悲鳴が心地よいとさえ感じていた。
「留められ忘れられた翼」
コウの口から、奇妙な言葉が出始めた。それが口ずさまれるにつれて、シリオンが凍るペースが速くなる。
「永久の冬を望まん」
それが発されると、ついにシリオンの身体全体が氷に覆われ、彼女は物言わぬ氷像と化してしまった。
「恐れは反響する」
今度は、コウから発された冷気が彼自身を覆い始めた。いよいよ危ないと感じたのか、ミラが純粋装具に力をこめ始める。
「――過ちを砕け」
コウの声が、大きくなった。
「――氾濫に溺れろ」
刹那。
「『コラプス』」
純白の衝撃波が、倉庫全体に広がった。