黒狗の暴動
鉤爪を装備した長髪で細身の男――ヴェルデ・アリスは、デイトン邸の裏口から侵入しようと待機していた兵士たちへと歩み寄っていた。鉤爪は地面の方を向き、殺気はまるで存在しない。まるでこれから自分から捕まりに行くように、その歩調はゆっくりである。当然、兵士たちは警戒して銃口をヴェルデへと向けている。
「貴様、何のつもりだ!?」
兵士の怒鳴り声に、ヴェルデはふっと息を漏らす。彼の顔には、陶酔しているような表情が浮かんでいる。
「決まってるじゃない」
すでにヴェルデは兵士たちに取り囲まれている。その数は十数人。更に銃も突き付けられている。しかし、彼は余裕そうに兵士たちを舐めまわすようにして視線を向ける。
「団長の命令よ。あんた達には大人しくなってもらうわ」
ねっとりとした声の後、ヴェルデの正面にいた兵士が突然宙に浮かんだ。
ヴェルデが兵士の顎に蹴りを食らわせたのだ。蹴られた兵士は数秒間宙を舞った後、短い悲鳴とともに地面に落ちた。その後は呻き声を上げた後動かなくなってしまった。
「まだ息はあるから心配しなくていいわよ」
「か、かかれっ」
兵士たちが銃をしまい、ヴェルデを確保するために殺到し始める。その状況にもかかわらず、彼は余裕の笑みを浮かべながら突っ立っているだけである。
するとヴェルデが、鉤爪を地面に突き刺した。その突飛な行動に兵士たちの足が止まりかけるが、意を決した表情で捕獲しようと腕を伸ばす。
「甘い」
心臓に直に響かせるような低い声。今度こそ兵士たちの足が止まってしまった。
しかし、遅かった。
地響きの音がしたかと思うと、突如ヴェルデの周りの地面が隆起し、十数人の兵士たちを一斉に突き上げた。兵士たちは悲鳴を上げながら空高く吹き飛ばされ、一人また一人と隆起した地面に叩きつけられる。その様子を見て、ヴェルデは見下しているように息を漏らして笑う。
しかし、何人かの兵士は蹲らずにその場で立ち上がった。ヴェルデに銃が向けられる。それに気付いたヴェルデが鉤爪を引き抜くが、顔は相変わらず笑ったままである。
「死ね……っ! 貪食の黒狗!」
引鉄にかかった指が動く。
すると、鉤爪を引き抜いた直後、隆起した地面が一斉に崩れ始めた。その崩落に兵士たちはまとめて巻き込まれ、一部は生き埋めになってしまった。立っていた兵士もバランスを崩して土塊に倒れこんでしまう。
「くそっ……!」
「あらあら、さっきまでの威勢の良さはどこにいったのかしら?」
地面に這いつくばっている兵士を見下ろしながら、ヴェルデが鋭い視線を向ける。兵士はヴェルデの放つ殺気に顔を引きつらせ、ついに萎縮して動けなくなってしまった。
ヴェルデの鉤爪が、兵士の方を向く。先端が陽の光に照らされて光り、それに視線を釘づけにされている兵士の顔は真っ青になっていた。
ヴェルデの口角が上がり、鉤爪を刺突した。兵士が死を覚悟して固く目を瞑る。
その一撃は、兵士が持っていた銃の銃身を貫いていた。乾いた音とともに、銃が呆気なく鉤爪に貫かれる。
「これで無力化は完了。あんた達みたいな雑魚、端から興味ないわ」
ヴェルデが全ての兵士の無力化の完了を確認すると、彼は呆然としている兵士を一人残して跳躍し、屋敷の敷地内へと消えていった。
兵士は腰が抜けており、動くことは叶わなかった。
動きがあったのは、デイトン邸周辺だけではなかった。
アイド市街地でも、『貪食の黒狗』の傭兵は暴れていた。
兵士たちが次々と木の葉のように軽々と吹き飛ばされ、石畳が敷き詰められた路面へと叩きつけられる。地面に強く身体を打ちつけられた兵士たちはうめき声を上げながら痛みに悶絶することしかできない。
とある兵士は、足元に爆炎が着弾した衝撃で瓦礫諸共吹き飛ばされ、石畳の上を転がる。着弾した場所は灼けて赤熱した石が散らばっており、路面が抉れていた。放たれた火炎弾の威力をまざまざと物語っている。
「けっ、湧いてくるのは雑魚ばかりかよ」
「文句言わないの。露払いも私たちの大事な仕事でしょ?」
市街地の道路上では、ビストとミアータが背中合わせで装具を構えながら立っていた。ビストの大斧の刀身の周りからはつむじ風のような空気の流れが巻き起こっており、ミアータの杖の先端は常に光っている。しかし、ビストの方はやる気のなさそうな表情で、向かってくる兵士を大斧の一振りで突風を巻き起こし、淡々と処理している。ミアータの方も、半ば流れ作業的に兵士たちの銃弾を魔法陣のような防御壁で防ぎながら彼らの足元に火の玉を撃ち無力化している。
「……早く先に進もうぜ。このままじゃ団長と合流できねえ」
「そうね。珍しくあんたの言う通り」
「『珍しく』ってなんだよ」
ミアータの笑顔から漏れた軽口にツッコミを入れながら、ビストはデイトン邸の方へと走り始めた。彼の巨体からは想像しがたいほどの速さで道路を駆け抜けていく。その後ろには、ミアータがスカートをはためかせながらビストの後ろを追随している。
道中、轟音を聞きつけて駆けつけていた兵士とかち合ったが、二人は難なく彼らを吹き飛ばして先に進んだ。二人にとって装具を持っていない兵士たちは、路傍に転がっている石ころ同然なのである。
デイトン邸の庭園は、『貪食の黒狗』の団員から『団長』と呼ばれている男――ライト・ムスタングが放った一撃によって瓦礫の山と化していた。マイアが彼の周辺の庭園の枯れた草木に触れたせいで火が燻っており、黒煙が上がり続けている。
その一撃によって、シルビアとポールが率いる部隊は壊滅状態に陥っていた。瓦礫と土塊に呑みこまれた兵士たちは全員がそこから抜け出すことができたが、もはや戦える状態ではない。あまりの強大さに戦意を喪失し、怯え竦んだ目でライトを見つめるのみである。
「……これが……『貪食の黒狗』の団長の力……」
辛うじて瓦礫に呑みこまれずに済んだシルビアが呟く。ポールも助かってはいたが、衝撃波によって吹き飛ばされ、シルビア同様泥まみれになって地面に這いつくばっている。なんとか身体を起こし立ち上がる二人だが、ライトはその様子をただ見つめているだけである。金髪のオールバックは一切乱れておらず、金色の瞳は鋭い視線を二人に向けている。
二人が完全に立ち上がるのを見届けると、ライトは再び大剣の切っ先を彼らの前に突き付ける。反射のように、二人もそれぞれ装具を構えた。周りの兵士たちは完全に怖気づき、我先にと門へと走っていく。
――これでいい。これ以上兵士たちを傷つけるわけにはいかない……!
ショートソードを構えているシルビアは、次々と退避していく兵士たちを尻目に安堵していた。これで被害が最小限に抑えられると考えたのだ。ライトが逃げ帰っていく兵士たちを見ずにシルビアとポールに集中しているのがその証拠である。狙いは明らかにこの二人だ。
「これで邪魔者は消えたな」
低く凛とした声が、軍人二人の心拍数を上げる。一対二の状況で顔色一つ変えないライトと、対照的に装具を握る手に力が入るシルビア。
シルビアがライトを睨みつけ、前のめりになって駆けだそうとしたその時、彼女の背後から引鉄が引かれる乾いた音が鳴った。
「シルビア、避けろ!」
ポールが叫ぶと、シルビアが跳躍したと同時にポールの銃から光弾が発射された。計三発放たれたそれらはライトの足元に着弾しただけで、彼には傷一つ付いていない。跳躍したシルビアは後方へと退避しており、ポールの左隣に着地する。
「今のは警告だ。これ以上動けば容赦はしない」
ポールがきっぱりと言い放つが、ライトは無言で大剣を構えたまま二人を見据えるのみである。それに負けじと、シルビアも眼光鋭くライトを睨み返す。
両サイドが睨みあうこと数十秒、ライトの足が動き始めた。土を踏みしめる音が突き刺さるように耳に入ると、ポールは再びライトの足元へと銃口を向け始める。
しかし、ポールの口角は上がっていた。それに気が付いたライトが一瞬ポールの表情に気を取られる。
「かかった」
ポールが呟き、引鉄を引く。しかし、弾は出てこない。
するとその直後、先程光弾が着弾した位置がまばゆい光を放ち始めた。それらはすぐに膨張し、直近のライトを包み込もうとする。
ライトが後退しようとした瞬間、三つの光が爆発した。巻き起こった爆発は大地を揺らし、土煙と瓦礫を巻き上げて吹き飛ばす。
ポールの装具から放たれるマイアの弾は、相手を直接撃ち抜くことができるだけでなく、彼の任意で発破させることもできる。彼は威嚇射撃としてライトに向かって発砲したわけではなく、完全に殺すことを目的として仕掛けたのだ。
「シルビア」
「分かっています」
二人が短く言葉を交わした直後、彼らの目の前にもうもうと出ている煙が切り払われ、そこから無傷のライトが姿を現した。煙が晴れるや否やライトは瞬時に二人との距離を詰める。
「させるか!」
シルビアが前へ出て、ポールが後ろへと下がる。前へ出たシルビアは更に突進し、握っているショートソードを勢いよく左から右へと薙いだ。それに纏われているマイアは、薙ぎによって白い光の線を描く。
ライトはシルビアの一撃を大剣の刀身で防ぎ、刃を振り回して弾き返す。刃同士がぶつかると鋭い音が響いたが、まるで剣に何も当っていないかのようにライトの大剣の太刀筋は綺麗だった。押し返されたシルビアも負けじとショートソードを正面に構え、再び突撃する。
「食らえ!」
ショートソードの切っ先が、ライトの腹に向かって突き出される。しかし、ライトは大剣の腹でそれを受け止めた。シルビアは攻撃を押し通そうとするが、まるで壁のようにライトは微動だにしていない。
「ちぃっ」
シルビアが毒づいて飛び退くと、ポールがライトめがけて発砲した。今度は地面に向けてではなく、しっかりと本体を狙っている。飛び退いたシルビアの下を通り抜けるようにマイアの弾がライトに襲いかかる。
ライトは放たれたマイアの弾丸を剣の腹で受け止め続ける。何の感情も湧いていないような無表情で、淡々とそれに耐え続ける。その間にシルビアはライトの背後へと回り込もうと全速力で駆け抜け始めた。
すると、ライトが盾代わりにしていた大剣を地面に力強く突き立てた。その衝撃は彼の周りを走っていたシルビアや彼から遠く離れて発砲し続けていたポールにも伝わり、行動を止めてしまうほどである。
「小賢しい」
ライトが更に深く大剣を地面に突き刺すと、刀身が白く光り始めた。そこから漏れ出るマイアの濃さに、ポールは絶句して怯えた表情のまま棒立ちになってしまった。
「逃げてください、ポールさん!」
シルビアが絶叫して退避を促したが、遅かった。
ライトが大剣を突き刺したところから地面が割れはじめ、そのひびは蛇が地を這って獲物に迫るように猛然とポールの足元まで伸びていく。
彼の足元まで地割れが迫った瞬間、割れ目から突如光が溢れ出した。ポールはシルビアの言葉が聞こえていなかったかのようにその場を動くことができない。
その直後、マイアの光が轟音とともに解き放たれた。
ポールの身体はいとも簡単に宙に舞い、瓦礫とともに地面へと叩きつけられた。彼が地面へと落ちた後、彼の装具である豪奢な装飾が施された銃も乾いた音を立てて虚しく地面に落下する。彼が立っていた場所には、大きなクレーターが形成されていた。
「ポールさん!」
悲痛な叫び声を上げてポールに駆け寄ろうとするシルビア。しかし、それを逃すライトではなかった。
大剣を持ち運んでいるとは思えないほどの速さで、ライトがシルビアの前方に回り込む。行く手を塞がれたシルビアは装具のショートソードにマイアを纏わせてライトの心臓めがけて振り下ろすが、ライトが対抗して大剣を振り上げると、つばぜり合いをするまでもなくシルビアのショートソードがかち上げられ、彼女の手から放り出されてしまった。
「しまっ――」
シルビアの意識がライトから離れた直後、ライトが彼女のみぞおちに膝蹴りを食らわせた。
腹を突き破らんばかりの一撃に、シルビアは深々と腰を折り胃液を吐き出した。ライトはそのまま彼女の頸部を掴み、地面に叩きつけて動きを完全に封じた――シルビアは膝蹴りの一撃を食らった時点で意識を吹き飛ばされており、既に動くことはできないが。
すると、ライトの背後から何者かが忍び寄ってきた。しかし、ライトは敵愾心を見せることなくその人物の方へと身体を向ける。
「終わったのか、ヴェルデ」
「ええ。……それにしても、団長の戦いっぷりは相変わらず苛烈ねぇ。惚れ惚れしちゃう」
「あの軍人二人は気絶しているだけだ。さっさと縛るぞ」
ヴェルデが快楽を感じているような表情でライトが滅茶苦茶に荒らした戦場を見渡していると、ライトがヴェルデを行動させた。ヴェルデが素直に言うことを聞いていると、遠くから何者かが走ってくるような足音が聞こえ始めた。
「……来たか」
「そのようね」
門の方へと、ビストとミアータが駆け寄ってくる光景をライトとヴェルデは見ることができた。
「団長、副団長、遅れてすまねえ!」
「問題ない。こっちも今片付いたところだ」
ビストとミアータがライトとヴェルデ――実はこの男が『貪食の黒狗』の副団長なのである――と合流し、ついに『貪食の黒狗』が全員そろった。後から到着した二人も、ライトが作り出した状況に目を見張る。
「団長ばかりずるいぜ……。こちとら雑魚ばかり相手にしてたってのに」
「はっきり言って、こいつらも弱かった。お前たちなら苦戦しなかっただろう」
「簡単に言うけど、団長ほどの力を持っている傭兵なんてそんなにいないんだよ。団長は私たちなんかとは比較にならないの」
ミアータが肩をすくめて言うが、ライトは意に介していないという風にシルビアを縛り上げる。それが終わり、ヴェルデが気を失っているポールを縛り上げると、縛られた二人は担がれて庭の片隅に放置された。
「さて、本題だ」
ライトが口を開く。ヴェルデ、ビスト、ミアータの三人は彼の前で直立している。
「依頼主はまだ『実験』を終えていないそうだ。俺たちは依頼主の時間稼ぎのためにこの屋敷の警護を続ける」
ライトの言葉に、ヴェルデが口角を上げる。
「あらかた敵は排除したんじゃなくて?」
「事前情報から考えるに、派遣されている軍の隊長はもう一人いる。そいつも完全に無力化するまで、俺たちの戦いは終わらないと考えろ」
「……あの金髪の坊ちゃんか」
『貪食の黒狗』は、依頼主――ノヴァによって派遣されている軍の詳細を事前に分かることができていた。ライトの忠告に、三人が頷く。
「ビストとミアータは市街地に再び向かい、敵が現れたら迎撃しろ。ヴェルデは屋敷の周りを監視してくれ。俺はここで待機する」
ライトがそれぞれに命じると、三人が同時に、了解、と肯定した。その直後、三人は突風のような速さで散開した。
既に荒れ果てた庭園には、団長一人が堂々と立っているのみとなった。