実験場
首都『フラックス』から北へ馬車で二時間ほど進んだところに、周りが木々の緑に囲われている中で場違いなほど大きくそびえたっているレンガでできた建物がある。門の前には長い砲身を備えた銃を構えた衛兵四人が無表情で立っている。その衛兵の身長の二倍ほどの高さのレンガでできた塀が、建物を囲むようにしてそびえている。風が吹いて木の葉がざわざわと音を立てて揺れる中、ジェイを乗せた馬車が建物の前に停まる。
そこから仏頂面のジェイが降りてきて、衛兵に身分証を見せて門の鍵を解いてもらう。門が開くと、既に待機していたのか、ジェイの護衛と思われる国軍の軍服を着た兵士たちが一〇人駆け寄ってきて彼を囲んだ。
「さっさと行くぞ。それと、ここの所長にあのことを言ってこい。私の名前を出せば通るはずだ」
ネオンをここに連れていく予定だったが、ジェイの目論見は外れてしまった。そのことによる苛立ちが未だに態度に出ている。護衛の兵士たちはジェイの態度に何の疑いも持っていないような無表情で頷き、彼を建物の中へと丁重に案内し始めた。
その門の横の立て札にはこう書かれていた――『フラックス特別刑務所』。
ジェイは刑務所の中に入ると、護衛とともに石でできたタイルが敷き詰められた床の上を歩いていく。鉄の檻の隙間から囚人たちがジェイ一行を好奇の目で見つめている中、彼らは奥へ奥へと進んでいき、とある独房の前で止まった。ジェイはそこに腰を下ろしている青年を吟味するように見つめ始める。
ジェイたちが止まると、場がしんと静まり返った。囚人たちの息遣いが聞こえそうなほどに、所内は異様な雰囲気に包まれる。
「……なんだい? こんなに大人数で」
檻の向こうで、男が口を開いた。
そこには、包帯で顔を覆われているレノがいた。鼻の部分は特にしっかりと保護されている。両手は手錠で拘束されており、足にも重りが付けられていてほとんど身動きが取れていない。
レノが口角を上げても、ジェイたちは表情を変えない。正装の男たちに睨みつけられ、レノはようやくこの事態を訝しむ。
「……何か喋りなよ。何か僕に用でもあるの? それとも、もう死刑の通達?」
嘲るようにレノが言葉を投げかけても、男たちは反応しない。ただじっと彼を見つめるのみである。
すると、遠くから誰かが走ってくる足音が聞こえてきた。レノはそちらに注意を向ける。
やって来たのは、この刑務所の所長だった。酷く驚いているような表情で、所長はジェイに鍵束を渡す。
「こちらです」
所長が鍵束を渡すと、そのうちの一本を使ってレノの独房の檻を開けた。錆び付いたような音が広い所内に響き渡り、レノはただ驚愕している。
そして所長がレノに近づくと、制服の内ポケットからカギを取り出してレノの手錠と足の重りを解いた。レノはと外れた手錠と足の重りを交互に見ながら目を丸くしている。
「……どういう風の吹き回しだい?」
「レノ・ロック。今からお前を借りるぞ。拒否権は無い」
ジェイが強い口調で言うと、彼は護衛の一人から手渡された白い包帯を広げ始めた。レノが唖然としていると、ジェイは彼の目を塞ぐように包帯でぐるぐると巻いて覆ってしまった。
「……! 何を――」
「連れていけ」
「はっ!」
ジェイの護衛はレノに有無を言わせず、足を引きずるようにして彼を連行し始めた。レノが抵抗しないように、護衛が持っている銃が後頭部に押し当てられているという徹底ぶりである。その光景を見て他の囚人たちが騒ぎ始めるが、一行は歯牙にもかけない。
ジェイは護衛とレノを先導するようにして、刑務所の地下へ入っていった。
レノが暫く歩かされ、ようやく目隠しを外してもらうことができた。
じめじめとした空気を感じ、生臭さが鼻腔を突き刺すように刺激する。彼は何が起こるのか分からないまま目を恐る恐る開ける。
「……ここは」
レノが目を開けた先には、マイアスの灯りで仄かに照らされているだけの地下牢のような空間が広がっていた。しかし地上の牢獄と違うところは、収監されている人が見えないところである。
ジェイたちは既に目的地に到着したからなのか、既に扉の前に立っている。彼が見つめている扉は分厚く、仄かに白く光っている。更にそこには不自然な形の穴がある。これからどうするのか、レノには皆目見当がつかなかった。
するとジェイがポケットから何か小さい塊を取り出した。そしてそれを扉の穴にはめ込むと、光が消えて重低音を出しながら扉が自動的に開き始めた。どうやら、その石は扉を開けるための鍵のようなものだったらしいとレノが目を見張りながら推測していると、完全に扉が開いたのを見てジェイたちが歩き始める。
彼らが進んだ先は、大きな部屋になっていた。そこには物々しい白い鎧が幾つも並べられており、護衛たちがそれを着こんでいく。鋭角的な鎧はまるで獲物に襲いかかる猛禽類をイメージしたような造りになっており、見る者に威圧感を与える。
「お前も着ろ。ここから先は危険だ。ただ、両手には何も付けるな」
「……分かってるよ。マイアがここまで漏れてる。普通じゃない」
レノが苦笑しながら白い鎧を着始める。鎧はずっしりと重く、まるで身体中に石を括りつけられているかのような感触を味わう。鎧を身に纏うと、彼は今まで覚えていたマイアの強烈な感触を一切覚えなくなったことに気が付いた。
「なまった体にこれはきついね」
「いいから来い」
既に鎧を着たジェイに促され、レノは歩き出す。
その途中、ジェイがレノに何かを手渡した。それを見てレノが目を丸くする。
「これは――」
「お前が使っていた装具だ。そうだろう?」
彼の手には、手袋型の装具――彼が元々使っていた装具があった。何故このタイミングでこれを手渡したのか、彼には到底見当がつかなかった。
「どうしてこれを――」
「説明は後だ。いいから付けろ」
有無を言わさぬ口調で言われると、レノは首を傾げながらもそれを付けた。装具の感触が手に馴染んでいるのを彼は感じている。
ジェイはそんなレノを尻目に、部屋の向こうに通じている扉を開けた。すると汚物や腐ったものが混ざったような悪臭が部屋全体に一気に漂い始めた。その臭いにレノは顔を顰め内臓に違和感を覚えたが、ジェイはそのような様子を見せずに扉の向こうへと進み始める。
ガチャガチャと鎧が鳴る中、鎧の集団は一本道を進み続ける。明るさは徐々に暗くなり、それに比例するようにレノの心中にも暗雲が立ちこみ始める。このような劣悪な環境の中で一体何が行われているのか、そして自身は何をされるのか――彼はやっと不穏なことを考え始めた。
完全に灯りが消えたところまで一行が歩くと、ジェイが止まった。ジェイは壁に取り付けられているボタンを押す。
すると、灯りが点いた。一行の目の前には鉄格子があり、それによって彼らの向こうで牢獄が形成されている。
その部屋の中を見て、レノは絶句した。同時に冷や汗が身体から逃げ出すように噴き出る。
その牢獄の中には、上半身裸の一人の男がいた。ただ、様子が尋常ではない。
男は胴体を鉄製の椅子の背もたれに固定されており、腕や脚、胴体、首の周りには何十本もの管が繋がれている。伸びっぱなしの髪に加えて項垂れているような格好になっているので、表情を窺い知ることはできない。ただ、皮膚が土黄色に変色しており、無数の傷が身体中に刻まれている。そして呼吸をしているかどうか疑わしいほど胸郭の動きが見られないため、生きているのかどうかも怪しい。
レノが恐る恐るジェイの方を向く。目の前に異常な男が座っていても、ジェイたちは一つも動じることはない。
それもその筈である――彼らは、その男を見慣れているのだから。
「こいつは――」
「余計な詮索は無しだ。ところで、レノ」
「……何?」
質問をする側だったレノが、今度は逆にジェイに問われる。
「この装具で、獣たちを操ったということは本当なのか?」
「……確かに、僕はそうやった。でも今の状況と何の関係が……」
そこまで言って、レノは察した。と同時に、悪寒が止まらなくなった。
「まさか――」
「こいつにマイアを流し込め。やれるな?」
レノは獣には躊躇わずにマイアを流し込むことはできたが、人間相手に流し込んで操ろうという気は毛頭なかった。その発想自体思いつかなかった。俄かに彼の手が震え始める。
「どうしてこんなことを……」
「いいからやれ」
ジェイの語気が鋭くなると、護衛の何人かがレノの後頭部に銃を突き付けた。鎧に銃口が当たる音が牢獄の中で響く。
「こいつは特殊な銃でな、この鎧程度だったら簡単に貫いて、お前の脳みそが弾けるぞ」
物騒なことを平然と言うジェイを横目で見るが、レノはこののっぴきならない状況で動けないでいる。目の前には得体のしれない男、後ろにはいつ火を噴くか分からない銃口――しかし手の震えを抑えながら、彼は一歩ずつ前へと歩き始めた。
そしてついに、男の目の前にレノが来た。何度か深呼吸をし、男へと手を伸ばす。
レノが男の頭を掴んだ。それでも男は微動だにせず、まるでレノの行動を受け入れているかのようである。
「……いくよ」
レノが周りの人間に合図をした。それと同時に、彼がはめている手袋が光り始める。周りの護衛たちから短い感嘆の声が漏れる中、レノは男の頭を凝視しながらマイアを流し始める。獣に通用したものが人間にも通用するのだろうかと彼は訝しみながら、徐々に流すマイアの量を増やす。
すると、レノの両手を違和感が襲った。両手が何かに押し戻されるような感覚を覚えている。
「……何だ?」
レノが呟く。彼が異変を察知したことを、隣にいたジェイが気付いた。
「どうした」
「いや――」
言いかけて、レノは目を見開いた。
男の頭とレノの掌の間で、突如火花が散り始めた。レノは装具の出力を強めるが、出てくる火花の量が増えるだけでまるで通らない。その異様な光景にジェイと彼の護衛たちは身構え始める。
「何が起こっている!」
「マイアを流しても何でか知らないけど弾かれる! 一体こいつは何者なんだ!?」
レノの顔と問いかけは、完全に恐怖の色に染まっていた。護衛たちはレノから銃口を離し、椅子の男へと向けている。
「……そのまま続けろ! 早くマイアを流せ!」
「やっている! これが最大の力だ!」
実際に、レノはこれまで出したことのないような力でマイアを放出している。それでも彼は手応えを感じ取ることができず、火花だけが大きく散る。牢獄全体が明るくなるほどの光量を発しながらレノは男に手を当て続ける。本当はすぐに止めたいところだったが、レノは未だに銃を突き付けられていると思っているので男から手を離すことができない。汗が身体中から出る気味の悪い感触を味わうが、レノは目の前の光景に釘付けになっている。
『止めるな』
レノは息を詰まらせて驚いた。
男の声が、彼の頭の中で響いた。その声は低く消え入りそうな音量だったが、牢獄内に反響している電流が流れるような音を素通りして直接レノの頭の中に入ってきたかのようにはっきりと聞こえる。
――周りの奴らの声じゃない。じゃあ誰が……。
レノの表情は既に恐怖で引きつっていた。謎の声に促されるまま、彼はマイアを流し続ける。
――まさか……!
『お前か。ベリアル山で動いていた傭兵は』
また脳内に響いて来た言葉に、レノは凍り付いた。
「なんでそんなこと知ってるんだっ」
レノが狂ったように叫んだのを見て、ジェイたちは一斉にレノの方へと反応した。
「おい、誰と話してる!?」
ジェイが叫んで問うても、レノは男に釘付けになったまま全く反応しようとしない。流石に異常だと判断したのか、護衛の一人がジェイに外に出るように促した。
『お前はよくやった。お前のおかげで、あの力を感じ取ることができた』
一方的に語りかけてくる声。レノは小刻みに息をして身体を震わせながら、ずっとマイアを流し続ける。
「お前は……お前は一体誰だっ!?」
レノは男に問いかけるが、外見上の反応は全くない。傍から見れば発狂しているようなレノだが、ジェイは止めることなくその異様な光景を見続けている。
「マイアの濃度が急速に上昇しています!」
「レノがマイアを流し続けているからだろう!」
「そんな生易しいものではないのです。早くお逃げください!」
護衛たちが必死になってジェイを避難させようとするが、彼はレノと拘束されている男をじっと見つめるだけで動こうとしない。
そして、第二の異変が起こった。
男に繋がれている管が光り始めたのである。レノのマイアに全く手応えが無いのにもかかわらず、マイアのように白く発光している。それをジェイは確かに目撃していた。
『……また会うことになるだろう』
「何を――」
レノが男の声をまた『聴いた』とき、それは起こった。
突如レノが男から勢いよく弾き飛ばされ、周りの護衛たちを吹き飛ばして鉄格子に叩きつけられた。護衛たちは悲鳴を上げながらその場に尻餅をついただけだったが、レノは鉄格子に叩きつけられた瞬間に短い呻き声を上げた後ピクリとも動かなくなった。
一方、拘束された男は相変わらず微動だにしていないが、管の光は消失していた。一体何が起こったのか分からず呆然としているジェイと彼の護衛たちだったが、我に返ると弾かれたように動きだした。
「ジェイ様、お怪我はありませんかっ」
「私は問題ない。それよりも、だ……」
落ち着きを払っているジェイが、ぐったりと鉄格子に凭れかかっているレノを見る。その目線だけで、護衛たちはジェイの言わんとしていることを汲み取った。
「おい、大丈夫かっ!」
護衛の数人がレノの方へと駆け寄り、兜を外して脈を確認する。頸の脈はしっかりと動いており、レノは衝撃で気を失っているだけだと判断すると、彼らは胸を撫で下ろした。
「元の『部屋』に連れていけ。こいつの目が覚め次第、何が起こったのか尋問しろ。私は中央政府に戻らねばならん。こいつが吐いた内容を一言一句漏らさず私に送ってくれ」
「はっ!」
その場の護衛全員がジェイの方を向き、敬礼をする。そしてすぐに何人かがレノを運びはじめ、その場から立ち去った。その後に続くようにしてジェイと残りの護衛が牢獄を出る。鉄格子は固く閉ざされ、厳重に鍵がかけられる。それを確認すると残った者たちは鎧を脱ぎ始めた。
その途中、ジェイは兜の中で笑みをこぼしていた。レノを使って男を洗脳するという計画が失敗したのにもかかわらず、である。
なぜなら、彼の中にある一つの確信が生まれたからだ。それに気が付いた彼は、どうしても笑みを抑えることができなかった。
――これで、私の計画は一歩進んだ。後は……。
ジェイは兜を脱いでも、まだ不敵な笑みを浮かべていた。それを護衛たちは訝しんだが、口に出す者は誰も居なかった。
この話の中でジェイたちが着ていた鎧の中にはマイアスが至る所に埋め込まれており、その効果で牢獄に充満している高濃度のマイアを遮断している。つまり、この鎧自体が装具である。